第24章:冬
シグ視点
***
「やっと……地面を踏める」
俺は息を切らしながら呟いた。
靴の裏には、オルニムスの街からそう遠くない森の湿った草地の感触が伝わってくる。
ドラゴンに乗って空を飛ぶ。
普通なら、壮大で貴重な体験になるはずだった。
だが、いつ下の広大な海へ放り出されてもおかしくないほどの突風に煽られながら、必死にドラゴンの鱗へしがみつく羽目になった。
……心臓が爆発するかと思った。
吐き気がまだ胃の中を掻き回している。
俺は俯き、込み上げてくるものを必死に堪えた。
目の前には、モアが静かに立っている。
彼女は、青ざめた俺の顔をじっと見つめていた。
「ふぅ……」
俺は長く息を吐き、なんとか胃を落ち着かせる。
「俺は大丈夫だ」
そう言って手を伸ばし、モアの頭を優しく撫でた。
その瞬間、モアの唇に小さな笑みが浮かんだ。
俺は背筋を伸ばし、静寂に包まれた深い森を見渡した。
「さて、あとはオルニムスへの道を探すだけだ。だが、その前に……」
言葉が途切れた。
俺の視線が、モアへと移る。
彼女は目の前に立っていた。
一糸まとわぬ姿で。
……このまま街へ連れて行くわけにはいかないな。
「どうやら、先に彼女の服を探さないといけないようだな」
俺は呟いた。
問題は、こんな森の中で女物の服をどうやって調達するかだ。
俺が頭を悩ませていると――
まるで俺の考えを読み取ったかのように、モアの身体が突然縮んだ。
瞬きする間に、その姿は真っ黒な猫へと変わる。
そして、軽々と跳び上がったかと思うと、俺の肩にちょこんと乗った。
「……え?」
俺は肩に顔を向けた。
「お前……猫にも変身できるのか?」
モアは答える代わりに、小さく喉を鳴らした。
契約を結んでから、俺たちの間には少しずつ奇妙な繋がりが生まれていた。
モアはまだ人間の言葉を話すことには慣れていない。
それでも、俺が何を考えているのか。
そして、何を感じているのか。
少しずつ理解できるようになっているらしい。
これ以上時間を無駄にするわけにもいかない。
俺はオルニムスへ向かって歩き始めた。
茂みを掻き分け、木々の間を進んでいく。
吹きつける風が服越しに肌を刺した。
……寒い。
島を離れてから、フレデン地方の気温が急激に下がったように感じる。
どうやら、気のせいではないらしい。
周囲を注意深く見てみると、森の葉が色褪せ、黄色く変わっていた。
時折、風に煽られた葉が舞い落ち、苔むした地面を覆っていく。
冬は――もう、すぐそこまで来ていた。
その時、モアが突然、俺の肩から飛び降りた。
黒猫の姿になった彼女は、茂みを抜けて走り去っていく。
「モア! どこへ行くんだ?」
俺は声を抑えながら呼びかけた。
返事はない。
「……おい」
俺も慌てて、その後を追った。
しかし、俺は彼女の足跡を見失ってしまった。彼女の動きはあまりにも速かった。
さっきは俺の考えていることまで理解できるようになったと感心したばかりなのに、今度は勝手にどこかへ行ってしまった。
俺の頭の中で笑い声が聞こえた。
大声で笑ったわけではない。
まるで手の届かない場所から、俺の愚かさを楽しんでいるかのような、嘲笑に満ちた短い笑いだった。
「残念だったな。どうやらあいつも、お前の言うことを聞いていないようだ……」
俺は長いため息をついた。
「俺の頭の中で勝手に話すの、やめてくれないか?」
モアと契約を結んでから、南の竜王の声が前よりはっきり聞こえるようになった。
契約によって俺たちの繋がりが深まったせいなのか、それとも、今や奴の存在が俺の意識に直接繋がっているからなのかは分からない。
ただ一つ確かなのは、俺の頭の中にこれ以上、余計な声は必要ないということだ。
特に、奴みたいな鬱陶しい声は。
「なぜ私が、人間の貴様の言葉に従わねばならんのだ?」
その声は落ち着いていた。
だが、その言葉の裏には、ニヤリと笑っているような気配があった。
「退屈だから俺に話しかけた、なんて言うなよ。どうせ、お前は俺の体の中でじっとしてることしかできないんだろ?」
数秒が過ぎた。
「チッ」
たった一音だった。
だが、なぜか俺には、不機嫌そうに顔をしかめている奴の姿がはっきりと想像できた。
俺は小さな笑みを堪えた。
少なくとも、俺は奴を黙らせることには成功したようだ。
ほんの少しの間だったが、俺は再び前方へ視線を戻した。
風に揺れる葉。木の根元に咲く野花。そして、遠くから聞こえてくる鳥の鳴き声。
モアを責めることはできない。
彼女が自分の島の外を見るのは、これが初めてなのだ。
何年もの間、彼女が知っていた世界は、どこまでも広がる海と、住処を囲む森。そして、毎日頭上に広がる空だけだった。
それが今、初めて変わった。
彼女にとっては、何もかもが新しい。
俺にとっては当たり前のものでも、彼女には魔法のように見えるものが、きっとたくさんあるのだろう。
……そう考えれば、あの好奇心の強さにも納得できる。
俺は小さく息を吐いた。
「仕方ないな……」
俺はモアを探して、再び森の中を歩き始めた。
だが、この森はまるで迷路だ。
道を覚えたと思うたびに、似たような木々が現れる。
今、自分が正しい方向へ進んでいるのか。それとも、目的地からどんどん遠ざかっているのか。
もはや自分でも分からなくなってきた。
「……はぁ」
俺はもう一度ため息をついた。
それでも、どこかへ行ってしまったモアを放っておくわけにもいかない。
俺はますます見知らぬ場所に感じられてきた森の奥へと、彼女を探して歩き続けた。
そして、森の奥へ進めば進むほど、周囲から聞こえる音が少しずつ消えていった。
まるで、この森そのものが外の世界から切り離されていくようだった。
数分後。
俺の足が、再び止まった。
目の前に広がっていたのは、見覚えのある景色だった。
幹が左へ曲がった大木。その根元近くにある、苔むした岩。そして、枝の一つから低く垂れ下がった折れた小枝。
……どれも、さっき見たものと同じだ。
俺は顔をしかめた。
「……堂々巡りしているのか?」
俺は後ろを振り返った。
今まで歩いてきた道は、ずいぶん長く感じられる。しかも、さっきまで歩いていた場所とは思えないほど、見知らぬ景色に見えた。
それでも――。
俺が、この場所を見間違えるはずはない。
俺は短く息を吸った。
「よし」
今度は一つの方角を選び、そこから一度も曲がらず、真っ直ぐ進むことにした。
一歩。また一歩。
10分。
15分。
……何も変わらなかった。
木々は同じ。地面には相変わらず、無数の根が突き出している。薄い霧も、木々の間に低く立ち込めたままだ。
そして――。
俺の足が、再び止まった。
目の前に立っていたのは、同じ木。
同じ苔むした岩。
同じ折れた小枝。
俺は、しばらく黙っていた。
「……マジか?」
無表情のまま、俺は周囲を見渡した。
「ふぅ……」
長いため息が漏れた。
この森は、ただ深いだけじゃない。
何かがおかしい。
俺は目を閉じた。
もし、視覚だけでは道を見分けられないのなら――別の感覚を使うしかない。
俺は全感覚に意識を集中させた。
ゆっくりと呼吸を整え、頭の中に入り込んでくる余計な音を、一つずつ意識から切り離していく。
風の音。
葉が擦れる音。
自分の心臓の鼓動。
それらが少しずつ遠のき、代わりに周囲の音が鮮明になっていく。
そして――
聞こえた。
一つのメロディーが。
かすかに。
最初は、木々の間を吹き抜ける風の音だと思った。
それほどまでに小さな音だった。
「……?」
俺はさらに聴覚を研ぎ澄ませる。
森の静寂の中に、柔らかな歌声が混じっていた。
誰かが歌っている。
俺はゆっくりと目を開けた。
その歌声は――遠くから聞こえてきていた。
聞いたことのない歌だった。
旋律は滑らかに上がっては下がり、まるで誰かに聞かせるためではなく、ただ自分のために口ずさんでいるようだった。
俺はすぐには動かなかった。
その歌声には、何か奇妙なところがある。
美しい。
……とても、美しい。
こんな森の奥で、誰かが歌っているなんて普通じゃない。
ましてや、この森は一人で歩くのに安全な場所とは到底思えなかった。
「こんな深い森の中で歌っているのは、誰だ……?」
俺の呟きは、自分でも驚くほど小さかった。
俺は、ここへ来た目的を思い出す。
モアを探すこと。
あの歌声を無視して、彼女を探し続けるべきだった。
それでも――。
考えれば考えるほど、あの歌声がただの偶然だとは思えなくなっていく。
俺はゆっくりと、声のする方へ歩き出した。
近づけば近づくほど、そのメロディーははっきりと聞こえてくる。
そして――奇妙なことに。
俺は、まるでその歌声に導かれているような気がしてきた。
やがて、俺の足が止まった。
密集した木々の向こうに、一本の巨大な木がそびえ立っていた。
地面から大きく張り出した根。その根元には、まるで洞窟のような大きな空洞が口を開けている。
「……」
思わず息を呑んだ。
その古木の木陰に、一人の女性プレイヤーが座っていた。
長い金髪をそよ風になびかせながら、穏やかな旋律を口ずさんでいる。
そして――彼女は一人ではなかった。
野鳥や数匹の森の動物たちが、その周囲に集まっている。
まるで歌声に魅了されたかのように、どの動物も静かに彼女の歌へ耳を傾けていた。
そして、さっきから探していた黒猫――モアはというと。
彼女の膝の上で、気持ちよさそうに丸くなって眠っていた。
女性は優しくモアの毛並みを撫でている。
その手の動きもまた、穏やかな歌声に合わせるようにゆっくりとしていた。
……なんだ、この光景は。
あまりにも平和だった。
このまま前へ進んで、その空気を壊すのがなんとなくためらわれる。
だが、静かに待とうと思った矢先――。
グゥゥゥゥッ!!
胃の奥から響いた轟音が、森の静寂を容赦なく打ち破った。
歌声が止まる。
静寂。
女性の視線がこちらへ向いた。
それだけではない。
周囲にいた十数匹の野生動物たちも、一斉にこちらを振り返った。
茂みの向こうから、すべての視線が俺に突き刺さる。
「…………」
……穴があったら入りたい。
なぜ俺の腹は、いつもこういう一番鳴ってほしくない時に鳴るんだ?
これはもう――間違いなく呪いだ。
「誰かそこにいるの?」
彼女は警戒するように声をかけた。声は落ち着いている。だが、警戒を解いているわけではない。
「すまない……」
俺は隠れていた場所から、ぎこちなく歩み出た。片手を上げる。
「邪魔するつもりはなかったんだ。ただ、こっちに逃げてきた俺の猫を探していただけで」
「猫?」
女性は眉を少しひそめた。そして、膝の上にいる黒い毛玉へ視線を落とす。
「モア」
俺が静かに名前を呼ぶ。
その声に反応して、猫の耳がピクッと動いた。モアは目を開けると、ゆっくりと伸びをしてから、俺の方へ顔を向けた。
「こっちに来い、モア」
俺は両手を広げた。
モアは迷うことなく女性の膝から飛び降りると、のんびりと俺の方へ歩いてくる。
そして、そのまま俺の腕の中へ飛び込んできた。
俺は女性に向かって軽く頭を下げた。
これ以上ここにいる理由もない。俺はそのまま立ち去ろうとした。
「待って……」
女性の声が、背後から聞こえた。
俺の足が止まる。
振り返ると、女性は俺を見ていなかった。少し俯き、近くにいる雄鹿へ向かって、俺には意味の分からない言葉を呟いている。
すると、まるで人間の言葉を理解しているかのように、雄鹿がゆっくりと頷いた。
そして、こちらへ近づいてくると、そのまま俺の横を通り過ぎていった。
「その鹿について行って」
女性が言った。
「この森から出る道を、彼が教えてくれるわ」
「……ありがとう」
俺は鹿の後ろ姿を見つめた。
どうやら彼女は、さっきから道を探していた俺の様子に気づいていたらしい。
「それから、これを持って行って」
突然、女性が何かを投げてきた。
反射的に、俺は片手で受け取る。
赤いリンゴだった。
俺は手の中のリンゴを見つめ、それから女性を見る。
「少しは空腹を紛らわせられるでしょう」
彼女は何でもないことのように言った。
俺の顔が、少し熱くなった。
「ああ……本当にありがとう」
それ以上は何も言わず、俺は背を向けた。
案内してくれた鹿の後を追い、葉を落とし始めた木々の間を進んでいく。
十数分ほど歩いただろうか。
生い茂っていた森が、少しずつ開けてきた。
鹿が足を止める。
そして、こちらを一度だけ振り返った。
それから役目を終えたとでもいうように、そのまま森の奥へ駆けていった。
俺の立っている場所から、遠くに街の姿が見える。
オルニムス。
大きな城壁と、その中央に構えられた門が見えた。
俺は門へ向かって歩きながら、手に持っていた赤いリンゴをかじった。
シャキッ。
甘い果汁が口の中に広がる。
……うまい。
空腹を訴えていた腹も、ようやく静かになった。
街へ近づくにつれて、俺の足取りが自然と遅くなった。
目を細め、城壁の向こうに広がる街並みを眺める。
リフェリーとは、まるで違う。
リフェリーが、暖かく開放的な雰囲気の木造建築が並ぶ、賑やかな街だったのに対して――。
オルニムスは、もっと硬く、閉ざされた印象を受ける。
厚いレンガ造りの建物が多く、屋根は急な傾斜になっている。
街のあちこちには、石造りの高い塔もそびえていた。
その景観は、どこか要塞を思わせる。
路上を行き交うプレイヤーやNPCたちも、リフェリーとは雰囲気が違った。
真剣な顔で歩く者が多く、誰もが自分の目的に追われているように見える。
街角でのんびり座っている者なんて、一人もいなかった。
冷たい風が俺の顔に吹きつけた。
その直後、鼻先にひやりとした感触が落ちてくる。
俺は空を見上げた。
灰色の空から、白い雪が降ってきている。
風に舞い、くるくると踊りながら落ちてきた雪が、やがて石畳の上へ静かに積もっていく。
初雪だ。
今の俺に必要なのは一つ。
この寒さをしのげる場所を見つけることだ。
俺は急いでメインストリートを歩き、並んだ店の看板を目で追っていく。
やがて、彫刻の施された巨大な木製ジョッキを掲げた看板が目に入った。
三階建ての建物。
どうやら宿屋と酒場を兼ねているらしい。
これ以上時間を無駄にする理由もない。
俺はそのまま中へ入った。
酒場の中は、凍えるようなオルニムスの街とは対照的だった。
暖かな空気。
焼いた肉の香り。
小麦酒の匂い。
そして、互いに杯を交わす客たちの騒がしい声。
外とは別世界だった。
俺は宿代を払い、二階の普通の部屋を借りる。
それからモアと一緒に酒場へ降り、夕食を注文した。
少し暗い店内の隅にある小さなテーブルを選ぶ。
俺は温かい肉のスープを一杯。
そしてモアには、ローストチキンを注文した。
食事を待つ間、俺は周囲を見渡した。
酒場は、重装備のプレイヤーたちで埋まっている。
剣や盾を身につけた者。
傷だらけの防具を着た者。
どうやらここは、狩りを終えたプレイヤーたちの溜まり場らしい。
やがて、注文した料理が運ばれてきた。
俺はまだ湯気の立っているスープに息を吹きかけながら、ゆっくりと口へ運ぶ。
そんな中、近くの大きなテーブルから会話が聞こえてきた。
険しい顔をしたプレイヤーたちが、周囲にも聞こえるほどの声で話している。
「北の探索部隊の話、聞いたか?」
大柄なプレイヤーが、ビールのジョッキを乱暴にテーブルへ置いた。
「シルバー・クレストのギルドパーティーが、昨夜全滅したらしい」
「また?」
仲間らしい女性魔術師が、不安そうに顔をしかめる。
「今週だけでもう三組目よ! 街の警備隊は何をしてるの?」
「警備隊に何ができるっていうんだ?」
別のプレイヤーが苛立ったように答えた。
「相手は普通のモンスターじゃない。あの忌々しい連続殺人鬼だ」
一拍置いて、そいつは吐き捨てるように言った。
「ヴォイドフェイスだよ」
スプーンを動かしていた俺の手が、口元で止まった。
「仲間の死体の山の上に立つ、あの仮面の男を見たっていうプレイヤーもいるらしい」
大柄なプレイヤーは、さらに声を潜めた。
「ヴォイドフェイスはマジでオルニムスで暴れ回ってる。北の森で、この辺りのプレイヤーを何人も殺してるらしい」
「目的は何なのよ……?」
「さあな。だが、こんなことが続けば、この街も安全じゃないぞ」
俺はゆっくりとスプーンを器の中へ戻した。
……急に、スープの味が分からなくなった気がした。
〈Voidface〉が、オルニムスで暴れている?
今週?
俺は頭の中で、聞いた情報を整理していく。
俺がこの街に入ったのは、ほんの一時間ほど前だ。
それまで俺は、島からの長く苦痛な飛行を終えて、森の中を歩いていた。
同時に二つの場所にいることなんてできない。
ましてや――ここ数日の間に、オルニムス北部の森でプレイヤーを何人も殺すなんて不可能だ。
なら……。
誰かが〈Voidface〉を騙っている。
いや。
もしかすると、一人じゃない。
自分たちの犯行を隠すために、〈Voidface〉の仮面と名前を利用している連中がいるのかもしれない。
俺の悪名を、スケープゴートとして利用している。
「……なるほどな」
俺の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「でもマジな話、連続殺人のことはともかく、最近の天気がおかしいと思わない?」
女性魔術師が愚痴をこぼしながら、厚手のローブの上から両腕をさすった。
「君の言う通りだ」
隣に座っていたプレイヤーが頷く。
「フレデン地方に、冬なんて存在しなかった。それに、この辺りで雪が降った記録すらない。ここ数年どころか、昔の記録を探しても見つからないらしいぞ」
「じゃあ、この急な気候変動……特殊イベントの前触れか? それとも、氷属性のボスモンスターでも出てきたとか?」
「さあな。どっちにしても、この寒さは本当に鬱陶しいけどな」
最後のスープをスプーンですくいながら、俺は黙って彼らの会話を聞いていた。
〈Voidface〉の偽物。
そして、フレデン地方には存在しなかった冬。
本来なら、俺の好奇心をくすぐる二つの謎だ。
だが、今の俺にはもっと切実な問題がある。
俺は手をポケットに突っ込んだ。
チャリン。
硬貨同士が触れ合う音がした。
……嫌な音だ。
数えるまでもない。
手元に残っているのは、数枚の銅貨だけだった。
暖かい部屋を借りて、夕食を食べただけで――俺の全財産はほとんど底をついていた。
俺は空になった器へ木のスプーンを置いた。
このまま収入がなければ、俺とモアはすぐに路頭に迷う。
いや。
この寒さだ。
本当に、道端で凍死することだってあり得る。
明日やることは決まった。
オルニムスのダンジョンへ行く。
モンスターを狩って、素材を売る。
いわゆる――ファーミングだ。
「……はぁ」
俺は長く息を吐き、疲れた顔を手でこすった。
食事を終えたモアを見る。
黒猫の姿になった彼女は、満足そうに毛づくろいをしていた。
俺が椅子から立ち上がると、モアが軽く跳び上がり、俺の肩に乗る。
「行くか」
俺たちは階下の喧騒を背に、階段を上って自分の部屋へ戻った。
今夜くらいは、他のプレイヤーの問題なんて気にしたくない。
ただ目を閉じて、静かに眠りたかった。
***
翌朝、俺は奇妙な感覚で目を覚ました。
まだ目を閉じたままだったが、胸の上にずっしりとした重みを感じる。
ゆっくりと目を開けると、最初に目に入ったのは、胸元に広がる黒髪だった。
モアが――服を一切身につけていない人間の少女の姿で――俺の上に丸くなり、俺の胸を枕代わりにして眠っていた。
「モア……?」
俺はかすれた声で呼びかけた。
しかし、俺の声を聞いても、彼女は小さく唸っただけだった。どころか、起きる気配すらない。
むしろ残った温もりを求めるように、さらに体を寄せてくる。
「ふぅ……」
俺は長く息を吐いた。
昨夜の寒さを考えれば、暖かい場所を求める彼女を責めることはできない。
俺はできるだけ慎重に彼女をベッドの脇へ移し、厚い毛布をかけてやった。
今日は働かなければならない。
身支度を整え、寒さを防ぐために厚手の黒いローブを羽織る。
準備を終えると、俺は再びベッドの端へ戻り、モアを起こした。
ベッドの温もりから無理やり引き離されたモアは、露骨に嫌そうな顔をした。
それでも、俺の言葉には従ってくれる。
次の瞬間、彼女の人間の姿がみるみる縮んでいく。
そして、一瞬にして――
再び真っ黒な猫の姿へと戻り、俊敏な動きで俺の肩へ飛び乗った。
その後、俺は部屋を出て、階段を下りた。
宿屋の木製の扉を押し開け、外へ出た瞬間――俺の足が止まった。
たった一晩で、オルニムスの街は完全に姿を変えていた。
石畳の通りも、建物の屋根も、案内板まで、今では一面の白い雪に覆われている。
「ふぅ……」
吐き出した白い息が、目の前で霧のように広がった。
俺は黒いローブを体に引き寄せ、積もった雪を踏みしめながら歩き始める。
今朝の目的は一つ。
オルニムスのダンジョン入口だ。
***
だが、実際はそう簡単にはいかなかった。
ダンジョンの入口にある巨大なアーチ状の門まで到着したところで、道を塞ぐように立っていた二人の重装備のプレイヤーに呼び止められた。
「止まれ」
門番の一人が、俺を頭の先から足元までじろじろと見ながら言った。
そして、俺はこの街の重要なルールを知らされることになった。
オルニムスには、かなり厳しい地方ルールがあるらしい。
プレイヤーが一人でダンジョンに入ることは禁止されている。
ダンジョンに入るには、最低でも三人のパーティーを組まなければならない。
このルールは、プレイヤーの死亡率を抑えるために、この街を支配するギルドによって意図的に設けられたものだった。
特に最近は、〈Voidface〉の偽物による連続殺人事件まで起きている。
「……はぁ」
俺は荒々しく息を吐いた。
好むと好まざるとにかかわらず、この街にいる以上、ルールには従うしかない。
人数合わせのパーティーを探すため、地元のギルドへ向かおうと背を向けた――その時だった。
「おい! あんた、この街に来たばかりのプレイヤーだろ?」
俺は振り返った。
軽装の鎧を身につけた青年が、自信ありげな笑みを浮かべながら近づいてくる。
その後ろには、二人の女性プレイヤーがいた。
一人は弓を持ったアーチャー。
もう一人はヒーラーらしい。
「ああ」
俺は短く答えた。
「昨日、この街に着いたばかりだ」
「一人でダンジョンに入ろうとしてたのも無理はないな」
青年は軽く笑った。
どうやら、こいつがこのパーティーのリーダーらしい。
「ちょうどいい。俺たちのパーティーは今、一人足りないんだ」
青年は俺を見る。
「よかったら、俺たちのパーティーに入らないか?」
俺はしばらく黙っていた。
三人の顔を順番に見ながら、その表情や仕草を注意深く観察する。
三人とも、友好的な笑顔を浮かべていた。
温かく、こちらを安心させようとしているようにも見える。
――少なくとも、表面上は。
その笑顔が本心である可能性もある。
罠という可能性もある。
オルニムスで広まっている連続殺人の噂を考えれば、後者を完全に無視することはできない。
だが、不思議なことに、俺はそれほど気にしていなかった。
他人の本当の意図をあれこれ考えるために、頭を使うのは面倒だ。
時間の無駄でもある。
今の俺にとって、この三人はただの手段に過ぎない。
あの頭の固い門番たちを通り抜けるための、無料の入場券だ。
もし本当に善意で誘ってくれているなら、普通に協力すればいい。
逆に、ダンジョンの中でくだらない真似をしてきたり、俺の背後から武器を抜こうとしたりするなら――
その時に始末すればいい。
それだけの話だ。
「分かった。入る」
俺は無表情のまま答え、沈黙を破った。
青年の笑顔はさらに広がった。
ヴァンは俺のところまで歩いてくると、馴れ馴れしく肩を叩いた。
正直、あまり好きな仕草ではない。だが、今は気にしなかった。
「いい選択だ! 俺はヴァン。よろしくな」
そう言って、彼は親指で後ろの二人を指した。
「弓を持ってるのがアーチャーのクララ。そっちがリナで、このパーティーのヒーラーだ。お前は何ていうんだ?」
「シグだ」
「シグか? 変わった名前だな」
ヴァンは笑いながら、俺の肩に乗っている黒猫へ一瞬だけ視線を向けた。
だが、それ以上は何も聞かなかった。
その後、ヴァンからパーティーへの招待が届いた。
目の前にシステム通知が表示される。
俺は迷わず[承認]を選んだ。
「よし。それじゃ、さっそく入ろうぜ。ダンジョンの中のほうが外より暖かいからな」
ヴァンはそう言って、目の前に表示されていたデジタルパネルを閉じた。
「これで条件も満たした。あの門番たちも、もう文句は言わないだろ」
俺たち四人はダンジョンの入口へ向かって歩き出した。
さっきまで俺を厳しく止めていた二人の門番も、今度は俺たちを一瞥しただけだった。
何も言わず、道を開ける。
俺たちが門のポータルを通り抜けた瞬間――
オルニムスの吹雪を運んでいた風の音が、嘘のように途絶えた。
肌を刺していた冷気も消える。
代わりに、湿った空気と、濡れた苔や古い土の匂いが鼻を突いた。
外から差し込んでいた光は、目の前から地下へと続く巨大な石造りの通路へと、ゆっくり飲み込まれていく。
俺は暗闇の先を見つめた。
「……さて」
今日の目的は、金を稼ぐことだ。
俺はモアを肩に乗せたまま、ヴァンたちの後を追って歩き出した。
***
次回、第25章 「繋がり」
新しい章の更新は毎週土曜日です。




