第20章:囁き
「……こちらです」
その囁きが、再び聞こえた。
声はひどく弱々しく、夜風の音にほとんど溶け込んでいる。
どこから聞こえてくるのかは分からない。
だが、幻聴だと思うにはあまりにもはっきりしていた。
俺は右を向いた。
誰もいない。
そこにあるのは、音もなく立ち並ぶ黒い木々だけだった。
まるで声の主が意図的に姿を隠し、俺に居場所だけを示しているかのようだ。
俺は何も言わず、声が聞こえた方向へ歩き始めた。
同時に、右手にヴェインリーヴァーがゆっくりと現れる。
幽霊を信じているわけじゃない。
この世界には、人間の声を真似て獲物を誘い込むほど知能の高いモンスターも存在する。
もしこれが罠だったとしても――少なくとも、丸腰で向かうつもりはなかった。
奥へ進むほど、森はさらに静まり返っていった。
虫の音も聞こえない。
葉の擦れる音すらない。
俺自身の足音さえも、奇妙な静けさに飲み込まれているようだった。
暗い森の中、木々の間にいくつかの青いクリスタルの欠片が光っているのが見えた。
以前、洞窟の中で見つけたものと同じクリスタルだ。
かなり長い間、暗い森の中を歩き続けた。
そして、ようやく俺はある場所へと辿り着いた。
「……こちらです」
その囁きが、再び俺を呼んだ。
次の瞬間、どこからともなく濃い白い霧が現れ、周囲の木々を飲み込むように一気に広がってきた。
ほんの一瞬で、視界が真っ白に染まった。
見えるのは、せいぜい数メートル先まで。
本能が、すぐに引き返せと告げていた。
しかし、戻る方向を決めようとするたびに、遠くからあの女性の声が再び聞こえてきた。まるで、俺をさらに奥へと導いているかのようだった。
俺は歩み続けた。
霧の向こうに、空を突き抜けるかのようにそびえ立つ巨大な石柱のシルエットが、ゆっくりと浮かび上がった。
その表面は、何百年……いや、何千年もの歳月を経たかのような、無数のひび割れと苔に覆われていた。
突然、強い風が俺の体を吹き抜けた。
白い霧が、少しずつ晴れていく。
その向こうに広がっていた光景を目にした瞬間、俺は足を止めた。
巨大なクレーターが、目の前に広がっていた。
周囲には、見覚えのある青いクリスタルがいくつも点在している。
九本の巨大な石柱が、円を描くようにクレーターを取り囲んでいた。
そして、その中心には一本の剣が深々と突き刺さっている。
ただそこに突き刺さっているだけなのに、俺の視線はその剣に釘付けになった。
「ここは……どんな場所だ?」
「……近づいて」
今度は、その声がはっきりと聞こえた。
声の方向は――あの剣だった。
「お前は、一体何者だ?」
俺は剣を見据えながら尋ねた。
返事はない。
数秒の沈黙だけが流れた。
そして――
「……近づいて」
俺はクレーターのなだらかな斜面を下り始めた。
一歩踏み出すたびに、胸の奥にある奇妙な感覚が強くなっていく。
なぜか、あの剣に近づくほど、頭の中の思考が少しずつ静まっていくのを感じた。
まるで何かが、ゆっくりと俺の警戒心を抑え込んでいるかのようだった。
剣まであと数歩というところで、あの囁きが再び聞こえた。
「この剣に触れて……」
これは……何かの特別なイベントか?
俺はすぐに周囲へ視線を走らせた。
通知ウィンドウはない。
クエストもない。
システムメッセージもない。
本当に、何もなかった。
「……奇妙だ」
重要なイベントなら、通常はシステムが何らかの情報を表示するはずだ。
しかし、今回存在するのは――あの声だけだった。
「触れて……」
俺はゆっくりと息を吐いた。
「ふぅ……」
ヴェインリーヴァーをインベントリにしまった。
そして、ゆっくりと手を伸ばし、あの剣の柄へ近づけていく。
あと数センチ。
なぜか、今すぐその柄を握りたいという奇妙な衝動が湧き上がってきた。
指先が柄に触れる、その寸前――
誰かに右手首を強く掴まれた。
「は!?」
俺は反射的に振り向いた。
あの少女が、すぐ隣に立っていた。
息を切らし、肩を大きく上下させている。
まるで、休むことなく俺を追いかけてきて、最後の瞬間にようやく追いついたかのようだった。
彼女の手は、思いがけないほど強い力で俺の手首を握りしめていた。
俺を引き止めたまま、彼女は強く首を横に振った。
「アジャァァ……」
そのか細い声は、まるで警告のように聞こえた。
俺はしばらく少女の顔を見つめた。
その眼差しは、不安そうだった。
そして、俺は再び目の前の剣へと視線を戻した。
「……そういうことか」
ゆっくりと右手を下ろす。
俺が手を引いたのを見ると、少女はすぐに俺の腕を引き、クレーターの中心から遠ざけた。
一番奇妙なのは――
少女が現れてから、謎の女性の囁きが消えたことだ。
徐々にではない。
突然、完全に消えた。
まるで、最初からそんな声など存在していなかったかのように。
クレーターを覆う濃い霧の中を、二人で歩いていた。
そのとき、突然、奇妙な感覚に襲われた。
周囲の景色が揺らぎ始める。
霧。
石柱。
クレーター。
すべてが、ゆっくりと薄れていった。
「――っ!」
ハッと息を呑んだ瞬間、俺は目を覚ました。
俺はまだ洞窟の中で、壁にもたれて座っていた。
「……あれは全部、ただの夢だったのか?」
困惑したまま、俺は小さく呟いた。
洞窟の隅で眠っている少女へと視線を向ける。
彼女の寝息は規則正しく、その顔も眠る前と変わらず穏やかだった。
その姿を見ていると、さっきの出来事はただの夢だったのだと思えてくる。
「ふぅ……」
俺は長く息を吐いた。
それでも、あの嫌な感覚だけは消えなかった。
そしてなぜか――
あれは、ただの夢じゃない。
そんな気がしてならなかった。
何だったのかは分からない。
ただ、今はこの島から無事に脱出することだけを考えたい。
これ以上、面倒な問題に巻き込まれなければいいんだが。
***
翌朝、なぜかデジャヴを覚えた。
まるで、以前にもこの光景を見て、同じことを経験したことがあるような感覚だった。
奇妙だ。
この島に来たのは初めてのはずなのに、なぜかこの場所を知っているような気がする。
その違和感を無視し、俺は浜辺へ向かった。
いかだを組むのに使えそうな、かなり大きな丸太をいくつか探す。
この島には、理不尽な謎が多すぎる。
だが、これ以上ここで時間を無駄にするつもりはなかった。
シャキン!
俺はエンジェルウィング・カッターを抜いた。
何度か正確に斬りつけ、十分な強度がありそうな木を次々と切り倒していく。
「何をしているの?」
背後から、少女の声が聞こえた。
「……!」
俺の動きが完全に止まった。
ハッと振り返る。
昨夜まで俺の言葉を話せなかった、あの少女が――数歩後ろに立っていた。
少女は何事もなかったかのように声をかけ、あまりにも落ち着いた目で俺を見つめている。
「お前……話せるのか?」
「ええ」
彼女は小さく頷いた。
その表情には、わずかな困惑が浮かんでいる。
「正直、私にもよく分からないの。今朝、目を覚ましたら……突然、失っていた記憶が頭の中に流れ込んできて」
少女はそっと胸元に手を当てた。
「それと同時に、また話せるようになったの」
俺は何も言わず、少女をじっと観察した。
たった一晩で、ここまで変わるのか?
あり得ない。
彼女を信用していいのか、まだ判断できなかった。
だが、俺には関係のないことだ。
俺の目的は一つ。
この島から脱出すること。
彼女が俺の邪魔をしない限り、わざわざ彼女の秘密に首を突っ込むつもりはなかった。
「そうか。話せるようになったのなら、良かったな」
「それで……」
少女は俺の周囲に散らばった丸太へ視線を落とした。
「一体、何をしているの?」
「いかだを作っている」
俺は短く答えた。
「船? わあ、すごい! この島から出るつもりなの?」
「ああ。お前が望むなら、一緒にここを出てもいい」
「行きたい! ずっとこの島から出たかったの」
少女は目を輝かせた。
「私も手伝っていい?」
「手伝う?」
「うん!」
少女は力強く頷いた。
「お前、剣は使えるのか?」
「……使えるわ」
一瞬だけ、少女の返事が遅れた。
俺はそれ以上気にしなかった。
「なら、これを使え」
俺はエンジェルウィング・カッターを少女に差し出した。
少女がそれを受け取り、柄を握った瞬間――
ズシッ!
「えっ!?」
腕ごと引き下ろされ、切っ先が地面に突き刺さった。
「重っ! こんなに重いの?」
「どうだ? それでも俺を手伝う気はあるか?」
「もちろん! 見てて!」
少女は歯を食いしばり、両手で剣を持ち上げるために全力で力を込めた。
そして――
頭上から、勢いよく振り下ろす。
しかし、握力が足りなかった。
振り切った瞬間、剣の柄が手のひらからすっぽ抜けた。
ヒュンッ!
剣は前方へ飛んでいき、空中で数回転した後――
ドスッ!
数メートル先の地面に斜めに突き刺さった。
「え?」
少女は何も握っていない両手を見つめ、それから数メートル先に突き刺さった剣へと視線を移した。
「……あれが正しい剣の使い方?」
自分でも答えは分かっているようだった。
「そうだな。目の前の敵を殺すために武器を投げるのが目的なら」
あまりにも酷い剣の振り方だったので、俺は思わず皮肉を返した。
俺の言葉を聞いた少女は、気まずそうに後頭部を掻きながら、クスクスと笑った。
「はぁ……無理して俺を手伝う必要はない。邪魔せず、そこで大人しくしていてくれれば十分だ」
「うん、わかった」
俺はそう言って、地面に突き刺さった剣を取り戻すために歩いていった。
しかし――
俺の手が柄に触れようとした、その瞬間。
「アジャァァ……」
「……」
俺は咄嗟にその場で凍りついた。
奇妙な感覚が、全身を駆け抜ける。
「どうしたの? 剣が深く刺さりすぎて抜けないの?」
固まった俺を見て、不思議そうに少女が後ろから尋ねた。
……何かがおかしい。
ビリリッ!
左手が脈打った。
次の瞬間、いくつもの記憶がフラッシュバックのように頭の中へ流れ込んできた。
その記憶から、俺は一つのことに気づいた。
先ほど感じたデジャヴは、偶然なんかじゃなかった。
俺がこの島にいるのは、初めてじゃない。
以前にも、俺はここでいかだを作っている。
それだけじゃない。
この島で、他にもいろいろなことをしていた。
俺はゆっくりと頭を押さえた。
これは明らかに、俺が殺したプレイヤーたちの記憶じゃない。
俺自身の記憶だ。
時間のループか?
夢か?
幻覚か?
それとも、幻術か?
何であれ、原因は一つしか考えられない。
俺は振り返り、そこに立つ少女を見つめた。
少女は何も知らないような、無邪気な顔をしている。
まるで、自分が何をしたのかさえ理解していないようだった。
「お前……何度、俺にこの幻術を見せた?」
少し間を置いて、俺は続けた。
「十回か……二十回か……」
「どういう意味?」
ビリリリィッ!
周囲の世界が突然、大きく揺れた。
視界が縦に歪み、数秒間、景色が引き裂かれるように揺らめいた。
グリッチのような線が浜辺の風景を切り裂き、その向こうに別の真っ暗な場所のシルエットが一瞬だけ浮かび上がる。
そして、何事もなかったかのように視界が元へ戻った。
「最初から、お前は俺の記憶に幻術を仕込んでいた」
俺は目の前の少女を見据えた。
「ただ一つの目的のために、何度も同じことを繰り返していた……俺に、あの剣の柄を握らせるためにな」
少女の表情が変わった。
右手がゆっくりと持ち上がる。
指を鳴らそうとしている。
「それなら……」
少女の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「もう一度、始めましょうか……七十四回目を」
「その必要はない」
俺は少女の言葉を遮った。
どうやら……この謎を解かない限り、俺はこの島から出られないらしい。
俺は目の前の剣へ視線を向けた。
そして、迷うことなく、その柄を強く握りしめた。
その瞬間――
少女の口元が、さらに大きく吊り上がった。
人間のものとは思えないほど、不自然な笑みだった。
ビビリリィッ!
幻術が粉々に砕け散った。
朝の浜辺の景色が、まるでハンマーで叩き割られたガラスのように砕け散る。 その破片は無数のピクセルとなって空中へ舞い、次々と消えていった。
一瞬にして、周囲の景色が歪む。
そして俺は、現実へと引き戻された。
先ほどまで感じていた暖かさが、瞬時に消え去った。
俺はもう、浜辺にはいない。
今、俺が立っているのは、青いクリスタルに覆われたクレーターの底だった。 周囲には、九本の巨大な石柱がそびえ立っている。
そして――俺の右手は。
クレーターの中心に突き刺さった剣の柄を、強く握りしめていた。
その瞬間、システムの通知ウィンドウが目の前に展開された。
【スペシャルイベント】
目的:南の竜王を相手に10分間生き残れ。
【残り時間:09:59】
その直後だった。
気づかないうちに、強大な力が俺の体を上から押し潰していた。
地面が大きく揺れる。 足元から四方へと亀裂が走った。
「……」
俺は体を動かそうとした。
重い。
まるで、世界中の重力が一点――俺の立っている場所に集中しているかのようだった。
「ようやく……」
その声が、重く低く響き渡った。
「この場所で百年も腐り続けた。だが、忌々しいシステムの封印も、もうすぐ終わる」
その言葉と同時に、青い炎が彼女の全身を包み込んだ。
少女の姿が変わっていく。
少女から――女性へ。
背中から四枚の黒い翼が大きく広がり、頭には二本の角がゆっくりと伸びていく。
頭上では青い光が渦を巻き、それが次第に凝縮され、宙に浮かぶ一つの王冠へと姿を変えた。
長い黒髪が風に揺れ、その隙間から、燃え盛る炎のような青い光が覗いている。
彼女の身体を包むのは、ドラゴンの鱗と一体化したような漆黒のドレスだった。
黒曜石のような輝きを放つ鱗が肩や腕、腰を覆い、その隙間を青い光が流れている。
まるで、その鱗の奥で生きた炎が脈打っているかのようだった。
前と両脇に深いスリットの入ったロングスカートがゆっくりとなびき、その下からは太ももまで覆う鱗状のレッグガードが覗いている。
そして――俺を見下ろすように立っていた。
まるで、長い眠りから目覚めた暴君そのものだった。
彼女はゆっくりと両手を見つめた。
自分の身体に残された力を確かめるように。
「予想通りだ。今の私が引き出せる力は、五十パーセント程度か」
彼女は淡々と呟いた。
驚いた様子はない。
俺はそのまま尋ねた。
「それで、今のお前の目的は何だ? 俺にスペシャルイベントを発生させるためだけに、わざわざあんな幻術を仕掛けたわけじゃないんだろ?」
彼女の顔に、薄い笑みが浮かんだ。
「お前の勘は、なかなか鋭いな」
彼女は一度言葉を切る。
「今の私の目的は、ただ一つ……」
次の瞬間、濃密な殺意がクレーター全体を満たした。
「お前を殺すことだ」
冷たい声が響く。
「お前が死ねば、この忌々しいシステムに縛られた鎖も消える。そうすれば、私はようやく本当の意味で自由になれる」
「なるほどな……」
俺は落ち着いたまま頷いた。
そして、別の疑問を口にする。
「それで、さっき俺を助けた少女はどこにいる?」
その言葉を聞いた瞬間、彼女は面白そうに目を細めた。
唇から小さな嘲笑が漏れる。
「死の淵に立たされてまで、他人の心配か? ……随分と甘いな、人間」
声が、凍りつくような冷たさを帯びる。
「残念だったな。お前が探しているあの少女は――」
彼女はわずかに間を置いた。
「私の魂から切り離された、ほんの小さな欠片に過ぎない」
「魂の……欠片?」
俺は目を細めた。
「どういう意味だ?」
「あの忌々しい神に封印されたとき、封印に抗うために私の魂の一部が砕けた。
その欠片から生まれたのが、あの擬似人格だ。
今お前が見ている少女の身体は、その欠片を収めるための器に過ぎない。
そして今――私は完全に主導権を取り戻した」
「そういうことか」
その瞬間だった。
彼女の姿が、俺の視界から消えた。
気配すらない。
どこへ移動したのか、俺の目では追うことができなかった。
次の瞬間――
冷たい吐息が、耳元を撫でた。
「……!」
いつの間にか、彼女は俺のすぐ隣に立っていた。
片手が俺の肩を掴む。
そして、耳元で静かに囁いた。
「死ね……」
世界が、突然回転した。
視界が百八十度反転する。
一秒にも満たない時間が、永遠のように引き延ばされた。
俺の目に映ったのは、まだその場に立っている自分の身体。
そして――
宙を舞う、俺自身の頭だった。
首から切り離されたことに気づく暇すらない。
完璧な一太刀だった。
***
次回、第21章 「臨死体験」
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