第19章:少女
どれくらいの時間、俺は暗闇の中を漂っていたのだろうか。
最初に戻ってきたのは、冷たい海とは対照的な微かな温もりだった。
そして、唇に触れた一瞬の柔らかな感触。
次の瞬間、空気が押し込まれ、潰れかけていた肺を満たしていく。
鉛のように重い瞼が震え、ゆっくりと開いた。
ぼやけていた視界が徐々に焦点を結び、俺のすぐ上にある顔を捉えた。
一人の少女が俺の上に覆いかぶさっている。
彼女の唇が、ちょうど俺の唇から離れたところだった。
もしかして……彼女が人工呼吸をしてくれたのか?
「ゲホッ! ガハッ――ゴホッ!」
一気に流れ込んできた空気に、俺は反射的に上体を起こした。
激しく咳き込み、気道に残っていた海水を吐き出す。しばらく呼吸を繰り返すうちに、ようやく呼吸も落ち着き、意識も完全に戻ってきた。
俺はすぐに、命を救ってくれた相手へ顔を向けた。
「ありがとう……」
だが、その言葉は途中で止まった。
目の前には、あどけない顔立ちと透き通るような瞳を持つ少女が座っていた。彼女は瞬き一つせず、じっと俺を見つめている。
長い黒髪は背中から砂浜へと流れ落ち、その毛先が砂の上にまで伸びていた。
だが、俺を固まらせたのは、その異様な髪の長さではない。
少女は――何も身につけていなかった。
完全に裸だった。
「アリガトウ?」
少女は小首を傾げ、俺の言葉をそのまま繰り返した。平坦で、どこか耳慣れない声だった。
俺はすぐに顔を逸らし、視線を逸らさないように浜辺の端に生えている野草をじっと見つめた。
この状況は……クラーケンに立ち向かうより、はるかに危険な気がする。
「なぜ……服を着ていないんだ?」
気まずさをごまかすように尋ねる。
「ナゼ? アリガトウ?」
彼女はまた、俺の言葉をそのまま繰り返した。
その不自然な話し方に、俺はもう一度だけ彼女をちらりと見た。
表情を観察しながら、ゆっくりと問いかける。
「俺の言っていることが分かるか?」
「ワカル? アリガトウ?」
俺は深くため息をついた。
明らかだった。彼女は俺の言葉をまったく理解していない。
俺が最後に口にした言葉を、オウムのように繰り返しているだけだ。
どうやら、彼女は俺の知っている文明の人間ではなさそうだ。
俺はすぐに立ち上がり、インベントリを開いて一枚の毛布を取り出した。
彼女の裸身から視線を逸らしたまま、素早く毛布を肩にかけ、その体をしっかりと包み込む。
少女は何度か瞬きをすると、戸惑ったような表情で毛布に触れ、その感触を確かめるように撫でた。
「これを着ていてくれ」
脱がないように念を押すつもりで、俺は少し強めの口調で言った。
「ハックション!」
言葉を発した直後、盛大なくしゃみが出た。
激しい悪寒が突然、骨の髄まで広がった。そこでようやく、俺の服もローブも、深海に沈んだせいですっかり濡れていることに気づいた。
俺のくしゃみを聞いた少女は、ビクッと肩を震わせた。
二秒ほど、何が起きたのか分からないといった様子で俺を見つめる。
そして突然、背を向けた。
驚くほど素早い動きで、少女はそのまま生い茂った森へ向かって走り去っていった。
「……なんなんだ、あいつ」
俺は呆然と、その背中を見送った。
砂浜には、俺が先ほど掛けたばかりの毛布だけが取り残されている。
どうやら、体に何かを身につけること自体に慣れていないらしい。
俺はただ深くため息をつき、彼女が消えた茂みをまっすぐに見つめることしかできなかった。
ひどく冷たい夕暮れの風が、再び肌を刺した。
俺は向き直り、周囲の環境を分析することに全神経を集中させた。
静まり返った白い砂浜。
今では穏やかになった波の音。
そして、視界を遮るように密生する熱帯雨林の木々。
俺は座標すら分からない絶海の孤島に漂着したのだ。
さらに悪いことに、システムのマップパネルには、未だに暗闇以外のデータが何も表示されていない。
「ハックション!」
俺は再び大きなくしゃみをした。
肌に吹き付ける海風に、体が激しく震える。
このままずぶ濡れの服を着たままでいれば、低体温症のペナルティ効果によって、耐久ステータスが急激に低下する可能性がある。
砂の上に落ちていた毛布を拾い上げ、俺は浜辺に打ち上げられた大きな流木へと歩み寄った。
水を含んで重くなった服を一枚ずつ脱ぎ、風で少しでも早く乾くように、その枝に掛けていく。
ただし、全部脱いだわけではない。黒い下着だけは残した。
いくら服が濡れていようと、見知らぬ生物の前で全裸になる趣味はない。
「はぁ……あの少女、どこへ行ったんだ?」
小さく呟きながら、手にしたウールの毛布を広げた。
「……使わないなら、俺が使うか」
そう呟いて、俺はその毛布を肩に掛けた。
その直後だった。
砂を擦るような、軽い足音が聞こえてきた。
少女が戻ってきた。
しかも、その両腕には大量の乾いた薪や小枝が抱えられている。
「え?」
一体どこで、こんな短時間にこれだけ集めてきたのか。
俺がそう考えている間に、少女は抱えていた薪の束を、俺の目の前にどさりと落とした。
何も言わず、彼女はその場にしゃがみ込み、右手の人差し指を乾いた薪の山へ向けた。
ボワッ!
純粋な青い炎が彼女の指先に現れた。
まるで油を注いだかのように、小枝は一瞬で燃え上がった。瞬く間に温かな焚き火が生まれ、浜辺を覆っていた寒さを少しずつ和らげていく。
俺はその青い炎に目を奪われた。
火打石も使わず、マジックスキルの詠唱すらない。
彼女は、ただ人差し指を向けただけで火を生み出した。
温かな空気が体の震えを少しずつ追い払っていく。
俺は安堵の息を吐き、少女の顔へ視線を戻した。
「ありがとう」
聞き慣れ始めたその言葉を聞いて、少女のあどけない顔に満面の笑みが浮かんだ。
「アリガトウ!」
彼女は陽気な声で俺の言葉を真似し、目を三日月のように細めた。
青い炎を挟んで向かい合って座り、俺はこの命の恩人が一体何者なのか、その謎を解くことにした。
まずは、簡単な意思疎通を試してみる。
「君の……名前は……何?」
俺はゆっくり、はっきりと発音しながら、身振りも交えて尋ねた。
「ナマエ?」
彼女は繰り返し、滑らかな額に薄く皺を寄せた。
「そう、名前」
俺は自分の胸を指差した。
「俺は……シグ」
そして今度は、人差し指を彼女へ向ける。
「君の……名前は……何?」
「ナマエ? アリガトウ?」
「そうじゃない」
俺はこめかみを揉みながら、ぼやいた。
「ソウジャナイ?」
彼女は困惑した表情のまま、また俺の言葉をそのまま繰り返した。
俺は深くため息を吐き、お手上げとばかりに座り直した。
無駄だ。
この少女には、俺の言葉がまったく通じていない。
身振りでさえ、彼女には意味のない動作にしか見えないらしい。
外の世界と一度も接触したことがない、この島だけの存在なのだろうか?
様々な推測が頭を駆け巡り、彼女が一体何者なのか、なぜたった一人でこの絶海の孤島にいるのかを考えていた。
しかし、次々と浮かぶ疑問は、俺自身の体から発せられた甲高い音によって突然かき消された。
グゥゥゥ〜!
腹の虫が大きく鳴り、夕暮れの風の中に響き渡った。
俺は反射的に腹を押さえた。
その音を聞いた少女は、両目を大きく見開いた。
まるで俺が腹を空かせていることを理解したかのように、彼女はすぐに立ち上がると、波打ち際へ向かって勢いよく駆け出した。
「おい、待って――!」
俺は慌てて手を伸ばした。
俺のインベントリには、十分すぎるほどの保存食が入っている。
わざわざ海まで何かを探しに行く必要なんてない。
だが、少女はもう波打ち際まで走っていた。
遠くでは、沈みかけた太陽が淡いオレンジ色の光を放っていた。
その光の中、少女はためらうことなく海へ飛び込んだ。暗い海面を切り裂くように潜っていき、その姿はあっという間に深い海の中へと消えていった。
「はぁ……仕方ない。何を持ってくるのか、待つとするか」
俺はそう呟き、彼女が戻ってくるのを待つことにした。
正確には、俺のために食べられるものを探そうとしている彼女の気持ちを無下にしたくなかった。
***
静寂の中、数分が過ぎた。
やがて、浜辺の水面が再び大きく揺れた。
少女が波の中から姿を現し、そのまま軽い足取りで焚き火の前にいる俺へと近づいてくる。
その姿を見て、俺は思わず目を見開いた。
少女は両手に、それぞれかなり大きな魚を一匹ずつしっかりと握っていた。
そして――さらに驚いた。
いや、これは驚くというより、少し引いた。
少女は三匹目の魚を口にくわえていた。
魚が逃げないように、その背中へしっかりと歯を食い込ませたまま、平然と歩いてくる。
「…………」
俺はしばらく、何も言えなかった。
少女は新鮮な三匹の獲物を手に、こちらへ近づいてきた。
ボスッ!
少女は両手に持っていた二匹の魚を砂の上に落とし、口に咥えていた三匹目の魚も焚き火の近くの砂の上へ吐き出した。
三匹の大きな魚はまだ生きており、砂の上で激しく跳ね回っている。
名もなき少女はその場に膝をつき、誇らしげな輝きを宿した瞳で俺を見つめた。まるで、自分が捕まえてきた獲物を見せているかのようだった。
俺は薄く笑って応えた。
それから、砂まみれになった魚へと視線を移す。
生で食べることも、俺にとっては別に問題ではない。
だが、選択肢がある以上、きちんと調理するに越したことはない。
俺はインベントリを開いた。
取り出すのは、『サバイバルナイフ』と『岩塩』。
次の瞬間、両手に小さなサバイバルナイフと、粗塩の入った容器が現れた。
少女は少しだけ首を傾げた。
突然現れた二つのアイテムがどうやって出てきたのか分からないらしく、興味深そうにそれらをじっと見つめている。
手際よく、俺は魚の下処理を始めた。
エラを取り除き、腹を裂いて内臓を取り出す。補給ボトルに残っていた真水で魚の身を洗い流し、下処理を終える。
次に、鋭く尖った木の枝に魚を刺した。
火にかける前に、切れ目を入れた皮の表面へ粗塩を均等にまぶしていく。
目の前の少女は呆然としていた。
澄んだ瞳は、魚の身に落ちていく白い粒を一つ一つ追っている。眉間には、深い皺が寄っていた。
彼女にとっては、新鮮な魚に謎の白い粉を振りかける行為が、奇妙な儀式にでも見えているのだろう。
俺は魚を刺した木の枝を、少女が作った青い炎の近くに立てかけた。
彼女の魔法による炎は熱が安定している。それに、普通の火のような煤や嫌な焦げ臭さもほとんどない。
これなら、魚を焼くには十分だ。
ジュー……パチパチ……
数分もしないうちに、香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。
魚から溶け出した脂が火に落ち、ジュッと音を立てる。塩をまぶした皮はこんがりと焼け、黄金色に変わっていった。
視界の隅に、料理のステータスが浮かび上がる。
【消費アイテム】
アイテム:上級塩焼き魚
効果:スタミナを30%回復、微弱な温熱バフを付与(15分)
その美味しそうな香りに、野生の少女はすぐに反応した。
「ゴクリ……」
彼女が唾を飲み込む音が聞こえた。
あどけない顔は数センチほど前へ乗り出し、その瞳は目の前で焼かれている魚に釘付けになっている。
どうやら、これまで食べてきたどんな獲物よりも魅力的に見えているらしい。
中までしっかり火が通ったのを確認してから、俺は一番大きな魚の串を一本抜き取った。
熱を少し逃がすために息を吹きかけ、それを少女の前へ差し出す。
「ほら。食べな」
今回は、少女は俺の言葉をオウム返しにしなかった。
それほどまでに、目の前の焼き魚に夢中になっているようだった。
彼女は待ちきれない様子で木の串を受け取ると、鼻を近づける。
塩の香りと、こんがり焼けた魚の香ばしい匂いをもう一度確かめるように嗅いでから――
ついに、大きく口を開けた。
そして、一番肉厚な部分にかぶりついた。
サクッ。
魚の皮が小気味よく砕ける音と、少女が噛みしめる音が重なった。
次の瞬間、少女の体がぴたりと止まった。
膝をついたまま固まり、両目をこれでもかというほど大きく見開いている。
どうやら、塩気と魚の旨味が想像以上だったらしい。
この島で生きてきた彼女にとって、獲物は生で食べるか、焼くだけのものだったのだろう。
そこに塩を加えただけで、ここまで反応するとは。
「むぅ……!」
口いっぱいに魚を頬張ったまま、少女の口からくぐもった声が漏れた。
その表情には、隠しきれないほどの満足感が浮かんでいる。
……気に入ったようだ。
これ以上時間を無駄にすることなく、彼女は手にした魚の残りを凄まじい勢いで貪り食った。
熱い身をガツガツと頬張り、小さな骨など気にする様子もない。
一分も経たないうちに、大きな魚は綺麗に骨だけになった。
少女は手に残った骨を見下ろし、それから先ほどとはまるで違う眼差しで俺を見つめた。
その瞳には、深い感嘆が浮かんでいる。
まるで俺が目の前で高度なマジックスキルでも使ったかのような反応だった。
少女は火のそばに残っている二匹の魚を指差した。
そして、満面の笑みを浮かべながら自分自身を指差す。
俺はすぐに、その意味を理解した。
どうやら――おかわりが欲しいらしい。
何も言わず、俺は焼き魚の一つを手に取った。
だが、それを渡す直前に、ある言葉を口にした。
「欲しい?」
「……?」
少女は首を傾げた。困惑したような視線が俺に向けられる。
俺は手にした魚を一度引っ込めた。
少女は何度か瞬きをしてから、おずおずと口を開いた。
「ホ……シイ……?」
今度は、その魚を彼女に差し出した。
少女の目が、すぐに輝いた。
「ホシイ! ホシイ!」
発音はまだぎこちなかったが、今の言葉が何を意味するのかは理解し始めているようだった。
俺は薄く微笑み、その焼き魚を彼女に渡した。
少女はすぐさまそれをひったくり、再び夢中になって貪り食った。
食事が終わった後、俺は濡れた服を干してある木の枝へと歩み寄った。
ローブと上着は海水をたっぷり含んでいて、まだかなり重い。浜辺の風だけに頼っていては、再び着られるようになるまで一晩はかかりそうだ。
俺は特に厚手の服を何着か手に取り、少しでも早く乾かすため、青い焚き火のそばへ持っていくことにした。
濡れた服の束を抱えて振り返ったところで、俺の足が止まった。
いつの間にか、あの少女が目の前に立っていた。
少女は俺の手にある服の束をじっと見つめ、それから俺の顔へと視線を移す。
そして、何も言わないまま両手を俺の前へ差し出した。
まるで、それを渡してほしいと言っているかのようだった。
俺は一瞬、眉をひそめた。
「手伝ってくれるのか?」
反射的に尋ねてみたが、もちろん少女は言葉で答えなかった。
ただ指を動かし、服を渡すように促してくる。
その目には、敵意のようなものは感じられなかった。
先ほども、俺のために火を起こしてくれた。なら、任せても問題ないだろう。
俺は黒いローブ、シャツ、そしてズボンを少女に渡した。
しかし、次に起きたことは、俺の中にある彼女への認識をまた一つ変えることになった。
少女は服を砂の上に置くことも、焚き火に近づけることもしなかった。
一歩後ろへ下がると、受け取った服を胸の前へ放り投げた。
ブワッ。
服は地面へ落ちなかった。
ローブ、シャツ、ズボンは空中で静止し、何かに包み込まれたかのように一つの大きな布の塊となって浮かんでいる。
「……?」
俺は思わず目を細めた。
一体、何をするつもりだ?
名もなき少女は次に、両手のひらを上へ向けた。
目を閉じ、数秒間じっとエネルギーを集中させる。
すると、長い黒髪がふわりと浮かび上がった。まるで、彼女の周囲で何かが渦巻いていることを示しているかのようだった。
ゴォォォッ!
浮かんでいる服の周囲の空気が、突然激しく歪んだ。
青い炎は現れない。
それでも、服の周囲だけが異常なほどの熱気に包まれていく。
シュゥゥゥゥゥゥゥ――!
甲高い音が浜辺に響き渡った。
次の瞬間、俺の厚手の服に染み込んでいた水分が一気に蒸発した。
濃い白い水蒸気が服から勢いよく噴き出し、そのまま夜空へと舞い上がっていく。やがて、海風に吹き散らされて消えていった。
その一連の出来事は、ほんの数秒で終わった。
……驚くほど正確な熱の制御だ。
水蒸気が消え去ると同時に、熱による空間の歪みもすぐに収まった。宙に浮いていた衣服がゆっくりと舞い降りてくる。
砂に触れる寸前、少女はそれを静かに受け止めた。
少女はそのまま歩み寄り、乾いた衣服の束を笑顔で俺に差し出した。
俺はそれを受け取る前に、肩に掛けていた毛布を外した。そして、少女の体をゆっくりと毛布で包み込む。
「……これでいいか」
少女の全身がしっかり覆われていることを確認してから、俺は乾いた衣服を受け取った。
ローブの生地に触れた瞬間、俺は思わず目を細めた。
完全に乾いている。
湿気は一切残っていない。海水特有のベタつきもなく、生地はまるで乾燥機から取り出したばかりのように暖かく、柔らかかった。
革の手袋にも、熱による劣化や焦げ跡は見当たらない。
「……すごいな」
改めて少女を見る。
あれだけ濡れていた衣服を、ほんの数秒でここまで乾かした。
しかも、火を直接当てたわけでもない。
周囲に青い炎を出すことすらなく、必要な範囲だけを正確に加熱している。
何の詠唱もなく、これほど精密に熱を操れるのか。
この少女の属性制御能力は……どう考えても普通じゃない。
俺は少女を見つめた。
今やその顔には、先ほどまでの緊張も消え、無邪気な笑みが戻っていた。まるで、今しがた自分がやったことなど大したことではないと言わんばかりだ。
「ありがとう」
自然と、感嘆の色が声に滲んだ。
「アリガトウ! アリガトウ!」
少女も嬉しそうに繰り返し、目を細めて笑った。
俺は改めて、乾いた暖かい服に着替えた。
その様子を見ていた少女は、胸元で毛布をぎゅっと抱きしめている。
今度は、それを外そうともせず、じっとしていた。
もしかすると、人間はこうして身体を覆うものだということを、少しずつ理解し始めているのかもしれない。
「アリガトウ?」
少女は俺の目をまっすぐに見つめ、今度は確かめるように口にした。
「ああ。ありがとう……」
思わず、俺は少し目を見開いた。
どうやら彼女は、「ありがとう」という言葉がどういう時に使われるのか、少しずつ理解し始めているらしい。
少女はゆっくりと俺を見つめた。
まるで、俺が口にしたその言葉を覚えようとしているかのようだった。
「アリガトウ……」
少女は小さく呟いた。
先ほどまでとは違う。今度は、ずっと柔らかなイントネーションだった。
「ありがとう」
たった一言の言葉だけで、誰かと意思を通わせたのはこれが初めてだった。
***
乾いた服に着替えた後、俺は木の枝や葉を使って簡単な仮設テントを作ることにした。
少なくとも、夜の雨や冷たい浜風を凌ぐくらいなら十分だろう。
しかし、茂みへ向かって歩き始めたところで、少女が突然、俺の黒いローブの裾を引っ張った。
「ん?」
振り返ると、少女は森の方を指差していた。
そして、自分が先に進みながら、頭を振って俺についてくるよう促している。
どうやら、何かを見せたいらしい。
俺は一瞬だけ鬱蒼とした熱帯雨林の暗闇を見つめた。
「……分かった」
俺は少女の後を追った。
俺は彼女のすぐ後ろを歩いた。
今夜は月明かりと星明かりが十分にあり、暗闇の中でも周囲の様子はかなりはっきりと見える。
それでも少女は迷う様子一つ見せず、軽快な足取りで進んでいた。まるで、この道を何度も通ってきたかのように。
俺たちは急な岩場を数分ほど登った。
やがて、巨大な気根が幾重にも絡み合った、隠された崖の裂け目へと辿り着く。
少女がその根をかき分けると、その奥からかなり広い洞窟の入り口が姿を現した。
(ここが……彼女の住処か?)
俺はそう考えながら、洞窟の中へ足を踏み入れた。
洞窟は、想像していたほど暗くも湿ってもいなかった。
さらに奥へ進むと、洞窟全体が淡い青紫色の光に照らされていることに気づいた。
光の正体は、岩壁の至る所に埋め込まれたクリスタルだった。
クリスタルは絶えず淡い光を放ち、その周囲からは、俺のシステムセンサーが反応するほど濃密なマナが感じられる。
【 環境分析 】
ロケーション:名もなきマナ洞窟
異常エネルギー検知:高密度マナクリスタル(アクティブソース)
俺はクリスタルの構造を調べるために少し近づいた。
しかし、洞窟の最奥にある少女の休息場所へ目を向けた瞬間、意識はそちらへ引き寄せられた。
そこにあるものは、驚くほど質素だった。
彼女の寝床は、石の床に乾いた葉を集めて敷いただけのものだった。
枕もない。マットレスもない。家具らしいものも一切ない。
人間の文明を感じさせるものは、何一つ存在しなかった。
ただ、長い間ここで眠ってきたことを示すように、乾いた葉が何重にも敷き詰められているだけだった。
少女が突然、手を上げた。
洞窟の周囲を指差しながら、何かを口にする。
「オマ!」
「……オマ?」
少女は何度も頷いた。
「オマ!」
俺は洞窟を見渡し、それから少女へ視線を戻した。
オマ……。
つまり、ここは彼女にとっての家、という意味なのか?
俺が洞窟に注目しているのを確認すると、少女は今度は洞窟の隅にある乾いた葉の山を指差した。
「アンベン!」
「アンベン?」
今度は先ほどよりも勢いよく頷く。
……これについては、ベッドか?
俺は数分前、彼女に一つの言葉を教えたばかりだ。
今度は逆に、俺が彼女から言葉を教えられている。
なぜか、それが少しだけ癪に障った。
俺の反応を気にする様子もなく、少女は乾いた葉を敷き詰めただけの寝床へ歩いていった。
そのまま横になると、俺が先ほど渡したウールの毛布に身を包む。
その寝床で静かに休む少女を見て、俺は少しだけ安心した。
少なくとも今夜は、この洞窟とマナクリスタルの光が身を守ってくれる。休む場所としては十分だろう。
少女の邪魔をしたくなかった俺は、洞窟の入り口から少し離れた壁際に腰を下ろした。
壁に背を預けたまま眠るのも、すでに俺の習慣になっている。
そのほうが目を覚ましやすい。それに、危険を感じた瞬間にすぐ動ける。
***
眠っていると、謎の女性の声が俺を呼んだ。
その声はひどく弱々しく、まるで遠く離れた場所から聞こえてくるようだった。
ゆっくりと目を開ける。
視界の隅に表示されたデジタル時計は、午前1時34分を示していた。
「……こちらへ」
声が、再び耳元で囁いた。
俺は洞窟の隅で眠っている少女をちらりと見る。
規則正しい寝息が聞こえている。
……彼女じゃない。
少女を起こさないように、俺は静かに立ち上がり、洞窟の外へ向かった。
外に広がっていたのは、月明かりに照らされた木々と茂みだけだった。
女性の姿も、気配もない。
「……こちらです」
また、どこからともなく囁き声が聞こえた。
***
次回、第20章 「囁き」
新しい章の更新は毎週土曜日です。




