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第18章:流刑



最初に感じたのは、刺すような寒さだった。


ゆっくりと目を開けると、深い霧に覆われた灰色の空が視界いっぱいに広がっていた。


潮の匂いが鼻をくすぐり、静かな波音が耳を満たす。


体を動かそうとした瞬間、ズシリとした重みと聞き覚えのある金属音がすぐに俺を引き留めた。


視線を落とす。


両手と両足は太い黒い鉄鎖で固く拘束されていた。


俺は小さな木舟に乗せられていた。その舟は広大な海を、あてもなく漂っている。


俺は深く息を吐き、静かにスキルを唱えた。


「ユニークスキル……オーソリティ・グリッチ」


途端に、俺の体がノイズ混じりに揺らぐ。


半透明となった体は、デジタルノイズのようなピクセルを散らしながら不規則に点滅し始めた。


ガチャン! カチャン!


さっきまで俺を拘束していた鉄鎖が、手首と足首をすり抜け、小舟の床へと音を立てて落ちる。


グリッチは解除され、俺の体は元の実体を取り戻した。


俺はすぐに立ち上がり、陸地か、人の気配でもないかと辺りを見回す。


しかし――


何もなかった。


見渡す限り、煤色の海と、まるで俺を閉じ込めるような濃い白霧が広がっているだけだった。


「……本当に俺を捨てたのか」


俺は静かに呟く。


現在地を確認するため、システムを呼び出した。


「オープンマップ」


色褪せた青いシステムパネルが目の前に展開され、白霧の中で淡く輝く。


現在座標を確認しようと視線を向けた。その瞬間――


そこに表示されていたものを見て、俺は思わず目を見開いた。


「なんだこれは……まるで使い物にならないな」


そのデジタルパネルには、島の輪郭も海岸線も、普段なら現在地を示す青い点すら表示されていなかった。


画面には、ただ漆黒の闇が広がっているだけだった。


まるで、世界地図の外側へ放り出されたかのようだ。


その答えを考える間もなく――


ドゴォォン!


激しい衝撃が小舟を襲った。


「っ!?」


俺は大きく体勢を崩し、突如として現れた巨大な波が、死んだように静まり返っていた海を叩き割る。


小舟は激しく軋み、荒々しく揺さぶられた。


直感が警鐘を鳴らす。


これは自然の波じゃない。


周囲の霧はさらに濃さを増し、冷気を孕んでいた。視界は半径十メートルほどにまで狭められる。


濃霧の中、俺はゆっくりと視線を落とし、暗い海面を覗き込んだ。


小舟の真下で、巨大な黒い影がうごめいている。


長くうねるその影は、水面すれすれをゆっくりと、それでいて確実に移動していた。


影はまだ途切れない。


どれほど巨大なのか、まるで見当もつかなかった。


ザバーーーン!


巨大な波が再び打ち寄せ、小舟はあわや転覆しかけた。


その直後、漆黒の巨影が海中からせり上がり、海面を突き破って目の前の濃霧を切り裂く。


霧の向こうで、不意に燃えるような二つの赤い目が開いた。


その血に飢えた視線が、真っ直ぐ俺を射抜く。


[ SYSTEM WARNING ]

未知のボスモンスターを検出しました。


反射的に身構え、インベントリからヴェインリーヴァー(Veinreaver)を呼び出す。次の瞬間には、その柄がすでに俺の右手に収まっていた。


ビュッ!


間髪入れず、巨大な触手が小舟を薙ぎ払うように振り下ろされる。


俺は咄嗟に高く跳び上がった。


ドカーーーン!


眼下で小舟が跡形もなく砕け散る。


宙にいる間に体勢を整え、全力でヴェインリーヴァーを横薙ぎに振り抜いた。


ブォォォン!


振り抜いた剣圧が凄まじい衝撃波となり、視界を覆っていた濃霧を一気に吹き払う。


そこで初めて、捕食者の全貌が姿を現した。


何十本もの触手を蠢かせる、古代の怪物――クラーケン。


[ SYSTEM NOTICE ]

クラーケンが出現しました!


突如、周囲の気温が一気に下がった。


白霧が海面を這うように広がり、それに続いて氷が軋むような轟音が響き渡る。


わずか数秒で海面は完全に凍りつき、一面が広大な氷の戦闘アリーナへと変貌した。


羽のように軽やかに、俺は氷の上へと着地する。


足が氷に触れた瞬間、血のように赤いシステムパネルが次々と目の前に展開された。


[ ボスイベント発生 ]

目的:ボスモンスター「クラーケン」を討伐せよ

レベル:Unknown

HP:1,000,000 / 1,000,000


俺はホログラムに表示されたテキストへ視線を走らせた。


「クラーケン……?」


聞いたこともない名前だった。


少なくとも、俺が知る限りモンスター図鑑にも載っていない。


HPは100万。


普通のプレイヤーなら、その数字を見ただけで戦意を失うだろう。


だが――


俺の口元は自然と吊り上がっていた。


「面白い」


ヴェインリーヴァーの柄を握る手に力を込める。


最近はプレイヤーばかり狩っていた。


たまには、こういう獲物も悪くない。


息をつく間も与えず、巨大な触手が凄まじい速度で伸び、横薙ぎに振り抜かれた。


しかし、俺は微動だにしない。


ビジィィィッ!


俺の体がデジタルの歪みを纏い、一瞬だけ点滅する。


数十トンはあろうかという巨大な触手は、そのまま俺の体をすり抜けた。


残されたのは、マントを激しくはためかせる風圧だけ。


俺は何事もなかったかのように、ゆっくりと前へ歩みを進める。


ただ、獲物との距離を詰めるために。


攻撃が通じないと悟ったクラーケンは怒り狂った。


残る触手で氷の大地をえぐり取り、建物ほどもある巨大な氷塊を次々と俺へ投げつけてくる。


最初の氷塊が一直線に迫る。


俺は逃げない。


むしろ真正面へ駆け出した。


激突寸前――


俺は高く跳び上がり、ヴェインリーヴァーを縦一文字に振り下ろす。


スパァン!


正確無比の一撃。


巨大な氷塊は真っ二つに断たれ、割れた二つの氷塊は髪一本触れることなく俺の左右を通り過ぎていった。


氷片が散る間もなく、さらに巨大な二つ目の氷塊が頭上から真っ直ぐ落下してきた。


その巨影が一瞬で俺を覆い尽くす。


「フリッカー」


俺の体がノイズのように点滅し、数メートル先へ跳ぶ。


直後、氷塊は氷床へ激突した。


ドズゥゥン!


俺がまだ宙にいるのを見るや、足場を失った俺を狙って一本の触手が横薙ぎに襲いかかる。


だが、俺は慌てない。


ビジィィッ!


俺の体がグリッチを起こす。


触手はそのまま俺の体をすり抜け、虚しく空を切った。


氷床へ着地すると同時に、間髪入れず俺は再び前へ駆け出した。


四本の触手が飛び出し、行く手を阻む。


俺は足を止めた。


四本の触手が一斉に襲いかかる。


「ソードスキル……サイレント・フラッシュ」


詠唱と同時に、俺の体は微動だにしない。


右手だけが目にも留まらぬ速さで動き、ヴェインリーヴァーを振るう。


見えたのは、一筋の閃光だけだった。


ザシュッ!


次の瞬間、四本の触手は幾つにも切り裂かれ、切断された肉片が俺の周囲へと降り注ぐ。


20,210ダメージ。


通常ダメージか……


クリティカルは出ない。


[ SYSTEM NOTICE ]

モンスターはクリティカルヒット無効。

弱点部位への攻撃のみクリティカルヒットが発生します。


「なるほどな……」


クリティカルが通じないモンスターは初めてだ。


弱点を突けない限り、ヴェインリーヴァーの《Blood Omen》は発動しないらしい。


俺の姿が再び点滅し、クラーケンの頭上数メートルへ現れる。


タコと同じ体の構造なら、弱点は頭部にあるはずだ。


俺に気づいたクラーケンは、一本の触手を風を裂く勢いで振り上げた。


だが、自動発動したグリッチがその一撃をすり抜けさせる。


落下の勢いを利用し、剣先を真下へ向ける。


そのままヴェインリーヴァーを頭部へ突き下ろした。


キィィィン!


甲高い金属音が響く。


まるで見えない壁に弾かれたかのように、剣は頭上で止められた。


「はぁ!?」


[ SYSTEM NOTICE ]

不可視障壁により攻撃は無効化されました。


何が起きたのか理解する暇すらなかった。


死角から、もう一本の触手が先ほどとは比べものにならない速度で襲いかかる。


ドゴォォォッ!


45,200 ダメージ。


あまりにも凄まじい一撃だった。


俺の体は人形のように吹き飛ばされ、氷床へ激突する。


バキィィン!!


氷に激しい亀裂が走り、跳ね返った俺の体は、そのまま十数メートルも滑ってようやく止まった。


バキッ! メキッ!


骨の砕ける嫌な音が体内で響く。


右脚の骨は折れて突き出し、首はあり得ない方向へねじ曲がり、水圧による衝撃で背骨は完全に砕かれていた。


俺は動けないまま氷の上へ倒れ伏す。


その時だった。


ビジィィィィッ!


[ 致命的なダメージを計算中 ]


[ ダメージ 最大HP:TRUE ]


[ アイテム効果を発動:Curse of Death ]


[ ステータス:Undying Will ACTIVATED ]


死の淵へ沈みかけた意識が、システムによって強引に引き戻された。


首元の呪われたアクセサリーを媒介に、《Undying Will》が強制発動する。


システムは俺の死を拒絶し、HPを10%で固定した。


ヴェインリーヴァーの呪いの代償としてだ。


[ スタック1:攻撃力 +10%、クリティカル率 +5%、クリティカルダメージ +10% ]


《 パッシブスキル:ペイン・リフレクション(痛覚反射)……発動 》


「グルルルルルァァァァァ!!」


突如、クラーケンが苦悶の咆哮を上げた。


耳をつんざく叫びとともに、巨体が激しく痙攣し、無数の触手が氷上を叩きつける。


《ペイン・リフレクション》。


俺が受けた痛みは100%そのまま奴へ返されたのだ。


俺はゆっくりと立ち上がる。


バキッ……メキッ……


折れた首と砕けた背骨が、システムによって無理やり元の位置へと戻されていく。


その不気味な音だけが、静かな氷原に響いた。


俺の口元がゆっくりと吊り上がる。


本当の戦いは、今始まったばかりだ。


「マジックスキル……レイヴンズ・ドミニオン」


途端、俺の影から赤い瞳を宿した七羽の鴉が飛び立った。


七羽は一斉に上空へ舞い上がり、戦場を見下ろす。


七つの赤い瞳がクラーケンの一挙手一投足を捉えた。


死地から立ち上がった俺を見て、クラーケンは怒り狂うように咆哮した。


直後、莫大な魔力が周囲へ解き放たれる。


灰色の空に無数の氷粒が現れ、次々と巨大な氷槍へと姿を変えた。


数十本もの氷槍が宙を埋め尽くす。


そして、一斉に俺へ向かって放たれた。


だが――


七羽の鴉が戦場を見下ろした瞬間。


まるで世界そのものが減速したかのように、氷槍の動きが目に見えて鈍くなった。


落ち着いて左手の手袋を外し、左手に走るグリッチを露わにした。


俺の目には、迫り来る氷槍の動きがゆっくりと映っている。


悠然とその隙間を歩き抜ける。


俺が通り過ぎた途端、氷槍は一斉に本来の速度を取り戻した。


帆柱ほどもある巨大な氷槍が轟音と共に背後の氷原へ突き刺さる。


攻撃を避けられたクラーケンは、直ちに濃霧を吐き出した。


霧の中から巨大な水泡が次々と現れ、周囲を埋め尽くしていく。


この濃霧では、《Raven's Dominion》でも奴の動きは捉えられない。


その考えが頭をよぎった瞬間――


ドゴォン! ドゴォン! ドゴォン!


水泡に触れた瞬間、爆発が巻き起こり、影の鴉が次々と撃ち落とされていく。


やはり、あの泡はただの泡ではない。


気づけば、濃霧と無数の水泡が俺を完全に包囲していた。


下手に動けば、連鎖爆発は避けられない。


その時だった。


足元の氷が激しく震えた。


次の瞬間、一本の触手が氷を突き破る。


俺は反射的に横へ跳ぶ。


着地と同時に勢いを殺さず、砕けた氷原を滑るように滑走した。


爆発する水泡と触手の隙間を縫うように、氷上を高速で滑り抜ける。


砕けた氷片が水泡へ触れるたび、四方八方で爆発が連鎖した。


触手は水泡の隙間を縫うようにうねり、氷上を滑る俺を執拗に追い続けた。


前方で砕け散る氷片の向こうから、突如三本の巨大な触手が飛び出し、俺の退路を塞いだ。


俺は空中で体をひねり、その勢いのままヴェインリーヴァーを振り抜く。


ズバァァッ!


6,210ダメージ。


三本の触手は一瞬で切り裂かれ、青い粘液を撒き散らした。


だが、間髪入れず新たな触手が四方八方から襲いかかる。


死と隣り合わせのこの極限状態で、俺の集中力はむしろ極限まで研ぎ澄まされていた。


斬る。


かわす。


切り裂く。


常人では到底追いつけない速度で、俺は触手の猛攻を紙一重で潜り抜ける。


連鎖爆発が濃霧を吹き飛ばし、その奥に巨大なクラーケンの姿が再び姿を現した。


「フリッカー……」


俺の体がノイズのように点滅し、一瞬でクラーケンの頭上へ移動する。


間髪入れず、左手を足元の見えない盾へ触れた。


「オーソリティ・グリッチ」


赤いエラーラインのようなグリッチが、まるでウイルスのように防壁全体へと一気に広がっていく。防御構造はみるみる侵食され、やがて世界のコードごと削除された。


次の瞬間、俺の足場が崩れ、ぬめりを帯びたクラーケンの頭部へと直接着地する。


俺は口元をわずかに吊り上げた。


ヴェインリーヴァーを逆手に持ち替え、そのまま中枢へ向かって深々と突き立てる。


ズブッ!


CRITICAL HIT!

12,510 ダメージ。


[ ステータス:Blood Omen 発動 ]


[ (DoT) – 1分ごとにHPの5%を喪失 ]


[ DoT スタック:5 ]


「グルルルルルァァァァァ……!!!」


クラーケンはヒステリックに咆哮した。その低く唸るような咆哮は空気を激しく震わせ、砕け残った氷床へと波紋のような振動を走らせる。


50,000 ダメージ (DoT)

[ DoT スタック: 4 ]


[ HP: 898,650 / 1,000,000 ]


頭部を貫かれたクラーケンは、残るすべての触手を一斉に俺へと襲いかからせた。四方八方から迫る触手が、回避不能の水圧の包囲網を形成する。


俺は奴の肉からヴェインリーヴァーを力任せに引き抜き、静かに腰を落とした。


「ソードスキル……インフィニティ・スラッシュ」


ヴェインリーヴァーの刃から、血のように濃い紅いオーラが溢れ出す。


その瞬間、世界のコードが激しく歪んだ。


時間の流れは極限まで遅くなり――やがて完全に停止する。


世界から、音が消えた。


凍てついた絶対静止の世界で、俺の姿は現実から掻き消える。


後に残ったのは、紅い斬線だけだった。


それらは光すら置き去りにする速度で戦場を駆け巡り、あらゆる角度からクラーケンの肉体と触手を切り裂いていく。無数の斬線は一瞬で蜘蛛の巣のような軌跡を描き、その巨大な体を余すことなく覆い尽くした。


わずか0.99秒。


その間に、俺は九百を超える斬撃を叩き込んでいた。


次の瞬間、世界の歪みは消え去る。


俺はすでにクラーケンへ背を向け、青い血を滴らせるヴェインリーヴァーを手に静かに立っていた。


そして――


止まっていた時間が、再び動き出す。


ドグォォォォォン!!!


止まっていた時間が、再び世界を動かした。


封じられていた九百を超える斬撃の衝撃が一斉に解き放たれる。


轟音。


衝撃波。


砕け散る氷。


残されていた氷の戦場は、一瞬で無数の氷片へと砕け散った。


CRITICAL HIT!

500,000 ダメージ (合計)


[ DoT スタック: 2,504 ]


[ HP: 398,650 / 1,000,000 ]


クラーケンの巨体は無数の斬撃痕に覆われていた。


HPは半分以上削り取られ、力を失った巨体はゆっくりと暗い海底へ沈み始める。


だが、まだ終わりではない。


DoTが奴の命を削り切るまで、まだしばらくかかる。


その時だった。


海底へ沈みゆく巨体の傍らから、一つの巨大な気泡がゆっくりと浮かび上がる。


気泡は水面へ達すると――


ポンッ!


軽い破裂音とともに弾けた。


直後、システム通知が目の前に表示される。


[ SYSTEM WARNING ]

クラーケンが「マナ喰らい (Mana Devour)」を発動しました!

すべてのMPがゼロに減少しました。


「……はぁ!?」


全身が凍りつく。


俺のMPは一瞬でゼロになっていた。


MPを失ったことで、俺のスキルはほぼすべて使用不能となる。


突如、巨大な波が巻き起こった。


クラーケンが沈んだ海面に小さな渦が生まれる。その渦はわずか数秒で急速に膨れ上がり、周囲のすべてを飲み込む巨大なメイルストロムへと変貌した。


メキッ! パシャァン!


俺の足元の氷床が崩れ、砕け散る。


俺は砕けた氷塊を足場に次々と飛び移りながら、海の闇へとすべてを引きずり込もうとする渦の中心から距離を取った。


即席で作られたこの氷の戦場にも限界があった。


最後の氷塊へとたどり着いたところで、俺の足は止まる。


その先にあるのは、荒れ狂う海だけだった。


ザバァァァン!


最後の足場が砕け散る。


「くそっ……!」


足場を失った瞬間、俺の体は巨大な水流へと飲み込まれた。


渦の力は凄まじく、今の俺のステータスでは抗うことすらできない。強烈な水圧が俺の体を海底へと引きずり込んでいく。


俺は暗い海の底へと沈んでいった。


まるで海中に発生した竜巻へ放り込まれたかのように、体は激しく回転し、一緒に吸い込まれた氷塊へ何度も叩きつけられる。


『まずい……息が……』


視界の端では酸素ゲージが赤く点滅し、凄まじい勢いで減っていく。


残りHPはわずか10%。


もう一度氷塊に叩きつけられるか、あと数秒息が続かなければ、Undying Willですら防げない確実な死が待っている。


俺は即座にヴェインリーヴァーを《エンジェルウィング・カッター(Angel Wing Cutter)》へ持ち替えた。


最大HPを90%削る呪いを解除し、最大HPを50%増加させる効果を発動させる。


今残されている切り札は一つだけだ。


この法則すらねじ曲げられる唯一のスキル。


発動に必要なマナコストはゼロだ。


「ユニークスキル……デス・ゾーン」


途端に、俺を包んでいた海水も、水流も、凄まじい水圧さえも一瞬で消え去った。


世界は静寂に包まれた完全な闇へと塗り替えられる。


――俺だけが支配する領域、《ドメイン》。


「ガハッ! ゲホッ……ガァッ!」


俺は黒い床へ膝をつき、肺いっぱいに入り込んだ海水を激しく吐き出した。


そして、ドメインの乾いた空気を貪るように肺へ流し込む。


ひとまず安全は確保できた。


あとは、このドメインの中でヴェインリーヴァーのDoTが外にいるクラーケンのHPを削り切るのを待つだけだ。


奴が死に、渦が収まれば、水面へ戻ればいい。


……この戦いは、俺の勝ちだ。


静寂だけが支配する《デスゾーン》の中で、七分ほどの時間が過ぎた。


この虚無の空間では、時間の流れがひどく遅く感じられる。


ぼんやりとシステムを開く。


視界の端では、一件のメッセージ通知が静かに点滅していた。


差出人を確認するまでもない。


フレンドリストに登録されているのは、ヴィオナただ一人だからだ。


……今は読む気になれない。


俺は通知を閉じ、再び目を閉じた。


それから八分ほど経った頃。


聞き慣れたシステム通知音が静寂を破る。


目の前に金色のホログラムパネルが展開された。


[ SYSTEM NOTICE ]


おめでとうございます!


ボスイベントをクリアしました!


クラーケンを討伐しました。


獲得報酬:

• EXP +500,000

• クラーケンのコア ×1

• 海王の三叉槍(Sea King's Trident)


俺はすぐに《デスゾーン》を解除しようとはしなかった。


外の巨大な渦は、ボスを倒したからといってすぐに消えるわけではない。今出ても、自ら死地へ飛び込むようなものだ。


外が落ち着くまで待つことに決めた俺は、手に入れたばかりの武器を確認するため、インベントリを開いた。


海竜の鱗を思わせる装飾が施された三叉槍が、ホログラムパネルの上に静かに映し出される。


[ 海王の三叉槍 (Sea King's Trident) ]

レアリティ: ★★★★★ (ランクS)

種類: 槍

基礎ステータス: +750 ATK

サブステータス: +50% ATK

ユニークアフィックス — 「Sovereign's Call」:

• 使用者のダメージを50%増加させる。

• 海王の三叉槍を地面に突き刺すと、その一帯が水に浸かる特殊なゾーン「Sovereign's Call」を作り出す。

• 効果:「Sovereign's Call」のゾーン内において、使用者は海の守護者であるクラーケンやオトドゥス・メガロドンを召喚し、周囲の敵を直接攻撃させることができる。

• 持続時間:海王の三叉槍が地面に突き刺さっている限り、「Sovereign's Call」の効果はアクティブになり続ける。

• 特殊効果:この武器の使用者は、海洋生物と会話することができる。

ロア:かつて海王が使用した古代の三叉槍であり、永遠の守護者にして全海域の支配者。水面下にいるすべての生き物はその命令に従い、その所有者に逆らう嵐はないと言われている。

フレーバーテキスト:"When the Sea King calls, the ocean answers." (海王が呼ぶとき、海は応える)


ステータスを確認し、その性能を把握した瞬間、俺の口元がわずかに緩んだ。


……予想以上だ。


槍とは思えないほど高い基礎攻撃力に加え、アクティブスキルの性能も規格外だった。


海の魔物を召喚し、一定範囲内の敵を足止めしながら攻撃させることができる。敵陣をかき乱すには申し分ない性能だ。


「……悪くない」


俺は小さく口元を緩めた。


奴らが俺を消そうとしたことが、皮肉にも俺をさらなる高みへ押し上げるきっかけになった。


待つにはもう十分だろう。


そう判断した俺は、右手で指を鳴らした。


デスゾーンの闇は一瞬で一点へと収束し、俺は現実世界へと引き戻される。


外へ出た瞬間、凍てつくような海水が全身を包み込み、裂けた黒いマントの隙間から容赦なく体温を奪っていく。


周囲にあるのは、深海の底を支配する絶対的な闇だけだった。凄まじい水圧が胸を押し潰す。


やることは一つ。

酸素ゲージが尽きる前に、この数百メートルはある深海から一気に水面まで泳ぎ切ることだ。


俺は両手足を動かし、泳ぎ出そうとした。


――その瞬間。


俺はようやく、一つの重大な事実を思い出した。


「……」


俺は――泳げない。


まったく笑えない話だ。モンスターでも、強敵のプレイヤーでもない。


俺は――泳げないという、あまりにも間抜けな理由で死にかけていた。


くそっ……。

こんな締まらない最期があるか。


どれだけ戦闘ステータスが高かろうが、神級スキルを持っていようが、水に浮くことすらできないなら何の意味もない。


俺は必死に手足を動かした。

だが、そのもがきは泳ぎとは程遠く、体はさらに深い海底へ沈んでいく。


水圧が胸を押し潰し、息が奪われる。


視界の端では、酸素ゲージが真っ赤に染まり、けたたましく点滅していた。


[ SYSTEM CRITICAL ]

酸素レベル:4%

警告:窒息まで残り5秒。

HPの減少を開始します。


胸が焼けるように熱い。


肺は空気を求めて悲鳴を上げていた。だが、俺の周りにあるのは冷たく、命を奪う海水だけだった。


最後の空気の泡が唇の隙間からこぼれ落ち、底なしの海へ沈んでいく俺を置き去りにして、水面へと昇っていく。


[ 酸素: 1% ]


視界がぼやけ始めた。


視界の端から闇がじわじわと侵食し、世界は細いトンネルのように狭まっていく。


意識がゆっくりと遠のいていく。


ここが、本当の死の境界線だった。


今回は、《Curse of Death》も《Undying Will》も俺を救ってはくれない。


システムは溺死を攻撃ダメージではなく、環境ペナルティとして処理しているからだ。


残された意識が完全に消え去ろうとした、その時だった。


不意に、俺のすぐ近くで水が大きく揺れた。


儚い光が差し込む水面の方から、一つの人影が海を切り裂くような速度で一直線に降りてくる。


女だった。


荒れ狂う海流など存在しないかのように、優雅で滑らかな動きのまま、真っ直ぐ俺へ向かって泳いでくる。


長い髪は絹のように水中へ広がり、まっすぐ伸ばされた両手は、沈み続ける俺へ届こうとしていた。


『……誰だ?』


鉛のように重いまぶたを無理やり持ち上げ、ぼやけた視界の向こうにいる彼女の顔を見極めようとする。


だが、それより早く意識の闇が俺を飲み込んだ。


彼女の指先が俺に届く寸前――


視界は完全な闇へと沈み、


俺の意識はそこで途切れた。



***

次回、第19章 「少女」


新しい章の更新は毎週土曜日です。


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