第11章:始まりの終わり
ヴィオナ視点
***
シグは眉をきゅっと寄せ、自分にしか見えないホログラフィック画面に視線を釘付けにしていた。
「……なんで、ほとんどの項目が空欄なんだ?」
困惑した様子でそう尋ねると、彼は眉間にしわを寄せたまま私の方を振り向いた。
私は小さく微笑み、少しでも彼の混乱を和らげようと口を開いた。
「それがガチャスキルの特徴なのよ」
私はゆっくり説明する。
「ガチャ産のスキルって、最初はシステム側も完全に情報を解析できてないことが多いの。だから、種類とか消費MPみたいな基本データしか表示されないわ」
私は人差し指を立てながら続けた。
「残りの情報は、実際に使った後で自動的に補完される仕組みよ」
そして、私は興味深そうにシグを見つめた。
「……それで、シグ。よかったら、そのスキルの名前、教えてくれない?」
シグはしばらく沈黙したまま、私の目をまっすぐ見つめていた。
「タイムリープだ」
彼は短くそう答えた。
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず目を見開いた。
「時間系スキル……?」
思わず息をのむ。
「少なくとも攻撃タイプじゃなさそうね」
私はそれから、さっきからカウンターの向こうで気楽そうにもたれかかっていたエイデンの方を向いた。
「エイデン、あんたはどう思う? これって高ランク系かしら?」
エイデンはすぐには答えなかった。
ゆっくりと顎をさすりながら、興味深そうに目を細める。
「タイムリープ、か……聞いたこともない名前だな」
彼は小さく笑った。
「だが、もし本当に時間干渉系の能力なら、とんでもない代物だ。下手すりゃSランク級かもしれん」
そう言うと、エイデンはシグへ視線を向けた。
「ここで一度使ってみろ、シグ。実際の効果を見てみたい」
「私も気になるわ」
思わず身を乗り出しながら、私は隠しきれない好奇心と共にそう言った。
「……わかった。試してみる」
シグは部屋の中央へ移動すると、右手を前に掲げた。わずかに緊張しているのか、指先には力が入っている。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
その瞬間、エイデンの店の中の空気が不思議なほど静まり返った。
「マジックスキル……タイムリープ」
シグがそう唱える。
彼の両目が一瞬だけ淡く輝き――そして、ゆっくりと光を失った。
静寂。
シグはそのまま、彫像のように動かなくなった。
エネルギーの奔流もなければ、空間の歪みもない。
何も起こらない。
彼はただ、右手を掲げたまま、その場に立ち尽くしていた。
一秒、また一秒と時間だけが過ぎていく。
店の中には、なんとも言えない微妙な沈黙が流れていた。
「あのスキルは発動しなかったみたいだな……ほら、まだ突っ立ったままだ」
エイデンはがっかりしたように呟いた。
「発動条件があるのかもしれないわ」
私はすぐにそう言って、フォローするように微笑んだ。
「時間系のスキルって、だいたい複雑だしね」
けれど、私の声が静寂を破ったその瞬間――シグの身体がびくりと震えた。
ゆっくりと、彼はこちらを振り向く。
その顔を見た瞬間、私は思わず息をのんだ。
シグの表情は、まるで今にも壊れてしまいそうだった。
両目には涙が滲み、そこには凄まじい恐怖と喪失感、そして深い悲しみが浮かんでいる。
何が起きたのか理解する間もなく、一筋の涙が彼の頬を伝って流れ落ちた。
あまりにも突然の変化に、私の胸は強い不安に締めつけられる。
「シグ、大丈夫?」
私は心配そうに声をかけた。
シグは答えなかった。
一言も発さないまま、まるで全身の力が抜けてしまったかのような危うい足取りで、ゆっくりと私の方へ近づいてくる。
そして、距離が縮まった次の瞬間。
彼は突然、私を強く抱きしめた。
「シ、シグ?」
あまりにも予想外の行動に、私は思わず身体を強張らせる。
「ヴィオナ……」
耳元で囁かれた声は、かすれ、今にも壊れてしまいそうなほど震えていた。
「うん、シグ?」
「ヴィオナ」
彼はもう一度、私の名前を呼んだ。
今度はさらに腕に力がこもる。
まるで、一瞬でも離してしまえば、私がどこかへ消えてしまうとでも思っているかのように。
やがて、彼の涙の温もりが私の服にじわりと染み込んできた。
その時になってようやく、私は気づく。
シグは今、胸が張り裂けそうなほど深い悲しみを抱えているのだと。
それに気づいた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
「ええ、私はここにいるわ」
私は静かに抱き返し、彼の背中にそっと腕を回した。
優しく背中をさすりながら、少しでも彼の震えが収まるように、安心させるように温もりを伝える。
ほんの数秒前まで何が起きていたのか、私には分からない。
それでも、この抱擁を通して伝わってくる。
彼が想像もできないほどの苦しみを抱えていることだけは。
その傷が、いったいどこから来たものなのか――私にはまだ分からなかった。
さっきから私たちのやり取りを黙って見守っていたエイデンが、不意に片方の眉を上げた。
何かに気づいたようだった。
「シグ。お前、今未来を見たのか?」
興味深そうな口調で、エイデンが沈黙を破る。
その質問を聞いた瞬間、シグの身体がわずかにこわばった。
やがて、彼はゆっくりと抱擁を解く。
乱暴に涙を拭い、振り返ってエイデンを見つめた。
先ほどまで見せていた弱々しさは、もうどこにもない。
そこにあったのは、いつもの冷静で、どこまでも真剣な眼差しだった。
「あぁ。未来を見てきた」
その答えに、私は思わず目を見開いた。
「えっ……?」
エイデンもわずかに眉を上げていた。
「本当なのか?」
シグは何も言わず、静かに頷く。
すると、エイデンの口元にゆっくりと笑みが浮かんだ。
「なるほどな」
興味深そうに顎を撫でながら、彼は低く呟く。
「どうやら、とんでもねえもんを手に入れたらしいな」
「Sランクスキル――その類だろうな」
けれど、私は素直に喜ぶことができなかった。
私はシグをじっと見つめる。
そのうつろな瞳の奥にあるものを、少しでも読み取ろうとするように。
突然のこの変化。
どう考えても、何かがおかしい。
きっと彼は、未来で何か恐ろしいものを見たのだ。
今もなお心に深い傷を残すほどの、何かを。
「シグ……もしよかったら教えて」
「どんな未来を見たの?」
私は慎重に尋ねた。
しかし、シグは私と目を合わせようとせず、顔を横に背ける。
「……ただの未来だ」
「大したものじゃない」
そう答える彼の声は、先ほどまで泣いていた人とは思えないほど淡々としていた。
私はすぐに気づいた。
シグは――何かを隠している。
その答えはきっと嘘だ。
ほんの少し前まで、あれほど取り乱してしまうほどの何かを。
それを私には知られたくないからこそ、心の奥深くに閉じ込めてしまっているのだ。
そんな彼の姿を見ていると、胸の奥が苦しくなった。
彼がその重荷を一人で抱え込もうとしていることが。
まるで私を頼るつもりがないみたいで、それが少し寂しかった。
「……そう」
私は静かに呟き、無理やり唇に微笑みを浮かべた。
こうして心を閉ざしてしまった以上、どれだけ尋ねても、彼はきっと話してくれない。
だから今は、無理に聞き出すべきじゃない。
私はそう自分に言い聞かせた。
再び沈黙が流れ、店内の空気はひどく気まずいものになった。
この重苦しい空気に耐えきれなくなった私は、無理やり明るい笑顔を作り、わざと別の話題を持ち出した。
「仕方ないわね。その話はまた今度にしましょう」
「今はアンダーガーデンの探索を続けましょうよ。ちょうどシグに見せたい場所もあるし」
できるだけ明るい声を意識して、私はそう言った。
けれど――
返ってきた言葉は、予想もしなかったものだった。
「ごめん、ヴィオナ」
「……え?」
「今は、一人になりたい」
私は思わず息を呑んだ。
あまりにも冷たく、どこか遠くへ行ってしまったようなその拒絶に、胸の奥がちくりと痛んだ。
彼の言葉は、まるで私たちの間に厚い壁ができてしまったかのようだった。
それでも、私は無理に頷いた。
「……そう」
静かに息を吐き、私は小さく微笑んだ。
「分かったわ」
「それじゃあ私はみんなのところに戻るわね」
「何かあったら、キャンプまで来て」
そう言って、私は一歩引くことを選んだ。
今のシグには、きっと一人になる時間が必要なのだろう。
だから私は、彼が再び作ろうとしている距離を無理に壊そうとはしなかった。
「ああ」
シグは短く頷いた。
私はついに背を向け、そのまま歩き出した。
エイデンの店に、一人取り残されたシグを残して。
ドアの敷居をまたぐ直前、私の足はふと止まる。
今からでも戻って、もう一度彼を抱きしめたい。
大丈夫だと伝えてあげたい。
そんな思いが胸の奥から何度も湧き上がってきた。
だけど……視界の端に映る彼の硬く閉ざされた背中を見て、私は小さく息を吐いた。
今のシグは、きっと誰にも踏み込まれたくないのだ。
彼は一人で抱え込むことを選んだ。
だから私は、これ以上無理に踏み込まず、そのまま店を後にした。
彼が抱える苦しみも、未来で見たものも、何一つ知らないまま。
***
エイデンの店にシグを残してからも、私の足取りはどこか重かった。
頭から離れない。
私を見つめた時の、あの悲しみに満ちた顔。
そして、その直後に見せた突然の変化。
「一体、シグは未来で何を見たんだろう……」
そんな疑問ばかりが、次々と頭の中に浮かんでくる。
どうして、あんなにも取り乱していたのか。
どうして、あんなにも悲しそうだったのか。
あの時の抱擁も……。
震える声も、流していた涙も。
そこには、あまりにも現実味を帯びた絶望があった。
ふいに背筋を冷たいものが走り、私は足を止めた。
「まさか……」
胸の奥がざわつく。
「シグは……」
「未来で、私が死ぬところを見た……?」
女性プレイヤーたちのグループが近づいてきたことで、私の物思いは中断された。
「あ、ヴィオナ先輩! こんなところでお会いするなんて奇遇ですね」
先頭にいた女性が、満面の笑みを浮かべながら声をかけてきた。
私は足を止め、無理に笑顔を作る。
「こんにちは。みんなはリフェリーの街に戻る途中?」
しかし、私の質問に答えるより早く、一人の女性が身を乗り出してきた。
「あの、ヴィオナ先輩……実はさっき、遠くから偶然お見かけしたんです」
彼女は声を潜める。
「ヴィオナ先輩、男の人と一緒に歩いていましたよね? あの人って誰なんですか? もしかして……そういう関係だったりします?」
誰のことを言っているのか、私はすぐに分かった。
つい数分前に別れたばかりのシグ。
会話の流れを察し、私は小さく首を横に振った。
「何でもないよ。ただの友達」
その言葉を聞いた瞬間、四人の女性たちは一斉に安堵の息を漏らした。
「あぁ、よかったぁ!」
三人目の女性が、心底安心したように笑顔を浮かべる。
「ちょっと勘違いしちゃいました。ヴィオナ先輩が男の人とあんなに親しくしてるところ、今まで見たことなかったので」
「そうですよ。私たち、ちょっと心配しちゃって。あの人、あんまり強そうには見えませんでしたし」
「そうそう。ヴィオナ先輩の優しさにつけ込もうとする人もいますからね」
「うん。ヴィオナ先輩なら、もっとすごい人と一緒にいるべきです!」
何気なく口にされたその言葉が、私の胸に引っかかった。
じわりと不快感が広がり、それはすぐに小さな怒りへと変わる。
彼女たちは、シグのことを何も知らない。
私は唇をきゅっと結んだ。
さっきまで浮かべていた愛想笑いは消え、代わりに真っ直ぐ彼女たちを見つめる。
「あなたたち、言い過ぎだよ」
私が静かな声で遮ると、四人の笑い声はぴたりと止まった。
驚いたように目を瞬かせる彼女たちを、一人ずつ見つめる。
「シグは、あなたたちが思っているような人じゃない」
「確かに、ステータスだけ見れば目立たないかもしれない。でも、悪い人じゃないし、誰かを利用するような人でもない」
「だから、表面に見えるものだけで人を決めつけるのはやめて」
予想もしなかった私からの叱責に、四人の女性たちは硬い表情で顔を見合わせた。
私が、あそこまでシグをかばうとは思っていなかったのだろう。
「そ、そうなんですね……すみません、ヴィオナ先輩」
一人が申し訳なさそうに声を小さくする。
四人は気まずそうに視線を逸らし合った。
ぎこちなく頭を下げると、彼女たちは早々に別れの挨拶をして、その場を去っていった。
「ふぅ……」
私は小さく息を吐く。
彼女たちの姿が見えなくなったのを確認してから、再びパーティーのキャンプへと足を向けた。
***
キャンプエリアへ戻る頃には、私の足取りはどこか重くなっていた。
そこにいたのはドミニクだけだった。
彼は折りたたみ椅子にゆったりと腰掛け、片手にコーヒーカップを持ちながら、眼下に広がるアンダーガーデンの景色をぼんやりと眺めている。
頭上のクリスタルの光が、穏やかな彼の横顔を静かに照らしていた。
その何の悩みもなさそうな姿を見ていると、少しだけ羨ましくなってしまう。
やがて、私の足音に気づいたのか、ドミニクがこちらを振り向いた。
その顔には、いつもの薄い笑みが浮かんでいる。
「ヴィオナ、戻るのが早いな」
彼はのんびりとした口調で声をかけてきた。
「まだ新入りの案内で回ってるのかと思ってたよ」
だけど、今の私は彼の冗談に付き合う余裕なんてなかった。
「ルーシーは……どこにいるの?」
私が尋ねると、ドミニクはゆっくりとコーヒーをすすってからカップを置いた。
「ああ、ルーシーか。数分前に出かけたよ」
「ファレリーの街で食料を買ってくるってさ」
「そう……」
私は小さく呟く。
胸につかえていることを、すぐに彼女に相談できないことが少しだけ残念だった。
ただぼんやりと立ち尽くしている私を見て、ドミニクは近くのテーブルに置かれていた小さなティーポットを手に取った。
「ヴィオナもコーヒーを飲むか?」
「今はいいわ」
ドミニクは目を細め、私の様子をじっと見つめた。
のんびりとした表情がわずかに薄れ、その目には歴戦のプレイヤーらしい鋭さが宿る。
「何かあったのか?」
私は深くため息をついた。
「うん……色々とね」
ドミニクはそれ以上追及せず、再び背もたれに身を預けた。
いつ踏み込むべきか、そしていつ相手をそっとしておくべきか。
彼はそういう距離感をよく理解している。
「だったら、まずは座って落ち着け」
「少しは気が楽になるだろう」
「うん、ありがとう」
私は彼の近くに歩み寄り、空いていたベンチに腰を下ろした。
ここから見下ろすアンダーガーデンの景色は、確かに美しかった。
その幻想的な輝きの裏に、無数のモンスターやアノマリーが潜んでいるとは思えないほどに。
「悪くないだろ? こうして景色を眺めるのも」
ドミニクが低い声で静寂を破る。
私はしばらく黙ったまま、眼下に広がる花々に彩られた緑の草原を見つめていた。
先ほどまで乱れていた心も、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「うん……悪くないね」
私は素直にそう答えた。
どれくらいそうしていただろうか。
気がつけば、一時間以上はのんびり景色を眺めていた気がする。
頭もようやく冷えてきて、この後どうするべきかを考えられるくらいには落ち着いていた。
そんな時だった。
街へ続く小道の方から、騒がしい足音がキャンプの静寂を破った。
「クソが!」
苛立ちを隠そうともしない怒鳴り声が響く。
ギルだ。
その後ろからは、息を切らしたトールの足音も聞こえてきた。
「お前ら二人、ここでコーヒー飲みながらのんびりしてやがったのかよ!」
ギルは不満たっぷりに叫びながら、大きな荷物を地面にどさりと置いた。
「俺とトールは街から重い荷物や資材を運ばされてたってのによ!」
対するドミニクは、楽しそうに小さく笑った。
ギルの怒りなど気にもしていない様子で、コーヒーカップをゆっくり回してからテーブルに戻す。
「そう怒るな」
「君たちはパーティーで一番筋力があるんだ。重量制限を上げるためのトレーニングだと思えばいい」
いつもの落ち着いた口調でそう言うが、どこかからかうような響きが混じっている。
「ふざけんな!」
ギルは即座に噛みついた。
「いくら俺の力が強くても、あの錬鉄を担いでファレリーからここまで登ってくるのはめちゃくちゃスタミナ食うんだぞ!」
ギルは荒々しく鼻を鳴らし、額に浮かんだ汗を手の甲で乱暴に拭った。
「この世界のシステムがどれだけステータスを盛ってくれようが、疲れるもんは疲れるんだよ! 分かるか!」
ようやく木箱を慎重に地面へ下ろしたトールも、大きくため息をついた。
「ギルの言う通りだ」
トールは少しかすれた声で同意する。
「俺のインベントリは空き瓶や液体類の補給物資でほとんど埋まってる。だから残りの金属製の装備は手で運ぶしかなかったんだ」
「インベントリに入らない荷物って、本当に厄介だよな」
私はただ、そんな二人のやり取りを静かに見守っていた。
さっきまで感じていた羨ましさはいつの間にか消え、代わりに胸の中には温かくて懐かしい感覚が広がっていく。
死と隣り合わせのこの世界で、私たちの心を支えてくれているのは、案外こういう他愛もない会話なのかもしれない。
たとえ数字で管理された世界だとしても。
私たちが感じる疲労も、痛みも、背負っている重荷も。
そのすべては、本物なのだから。
「それで、解毒ポーションの件はどうなった?」
私は気になっていたことを尋ねた。
「ファレリーの錬金術師たち、中級の麻痺回復ポーションはちゃんと在庫を持ってた?」
トールは自分のインベントリパネルを開きながら頷く。
次の瞬間、濃い緑色のポーションボトルが彼の手の中に現れた。
「手に入ったよ。でも、先週より値段が十五パーセントも上がってた」
トールは嫌そうに顔をしかめた。
「アンダーガーデン下層でアラクニド系モンスターの活動が活発になってるって噂が広まっててさ」
「冒険者たちが買い占めてるせいで、店側も値段を吊り上げてるんだ」
「チッ、足元見やがって」
ギルは舌打ちしながら毒づき、ドミニクの隣の折りたたみ椅子へどかっと腰を下ろした。
そして、すぐにテーブルの上のコーヒーポットへ視線を向ける。
「ドミニク、まさか全部飲んじまったわけじゃねぇよな?」
「まだたくさんある。好きに飲め」
ドミニクは平然とした顔でポットをギルの方へ押しやった。
ギルは遠慮なく自分のカップへコーヒーを注ぐ。
「おっ、助かる」
そう言うと、湯気の立つコーヒーを一口飲んで大きく息を吐いた。
ドミニクはそれから私へ視線を向けた。
のんびりした空気は消え、今度はパーティーリーダーらしい真面目な表情になる。
「ヴィオナ。さっきの話に戻るが、あの新入りについてはどう思う?」
「名前は……シグだったか」
「見込みはあると思うか? 場合によっては、うちに誘うのもありかもしれない」
すると、ちょうどコーヒーを飲んでいたギルが盛大に吹き出した。
「はぁ!?」
「冗談だろ!? あんな冴えねぇガキを俺たちのパーティーに入れる気かよ!」
ドミニクは肩をすくめる。
「俺たちにはアサシンがいない」
「もし見込みがあるなら、悪くないと思ってな」
「アサシン?」
ギルは鼻で笑った。
「二階でゴブリン狩るのがやっとのプレイヤーなんて、足手まといになるだけだろ」
私は少し考えてから、自分の率直な意見を口にした。
「私は、彼には才能があると思う」
「今はレベルが低いせいで実力を発揮できていないだけ」
その言葉に、ギルが目を丸くした。
「ヴィオナ、お前……」
しかし、彼が言葉を続ける前に、ドミニクは先ほどから黙って話を聞いていた大柄な男へ視線を向けた。
「トール、どう思う?」
トールは腕を組み、少し考えてから答える。
「俺はドミニクに賛成だ」
「アサシンが必要なのは確かだ」
「ただ、今の彼とのレベル差は大きすぎる」
「初心者を育てながら攻略する余裕はないし、無理に連れていけば効率も落ちる」
「だろ?」
ギルはコーヒーをすすりながら頷いた。
「あんな奴を連れてっても、俺たちに得なんかねぇよ」
その小さな言い争いが熱を帯び始めた。
しかし、まさにその時だった。
ズズズッ――
バゴォォォン!!!
巨大な雷が突如として空から降り注ぎ、街の広場のど真ん中に直撃した。
耳をつんざくような爆発音が周囲一帯を揺るがす。
足元の地面が地震のように激しく震え、テーブルの上のコーヒーカップが次々と転がり落ちた。
「何だ!?」
「モンスターの襲撃か!?」
ギルは反射的に椅子から立ち上がり、ドミニクとトールも瞬時に警戒の色を浮かべる。
私もまた、爆発が起きた方向へ反射的に顔を向けた。
そして――
その直後に目にした光景に、思わず息をのんだ。
落雷の跡にできた巨大なクレーターから、濃い煙が立ち上っている。
舞い上がる土煙と崩れた建物の残骸の向こう。
そこから、巨大なシルエットがゆっくりと立ち上がった。
人間に似た姿をしている。
だが、その巨体は数十メートルにも達していた。
同時に、血のように赤いシステム警告パネルがファレリー中のプレイヤーの視界に強制表示される。
そして、不気味な機械音の警報が街中に鳴り響いた。
[ SYSTEM WARNING! ]
ワールドイベント発生:《 アンダーガーデン陥落 》
超大型ボス出現:《 Titan of the Abyss 》
[ 警告:セーフゾーン設定が解除されました ]
「嘘だろ……どうしてこのゾーンでワールドイベントなんか起きるんだ?」
ドミニクは信じられないといった様子で呟いた。
けれど、その疑問の答えはすぐに見つかった。
私がアンダーガーデンの天井を見上げた瞬間――
以前、シグと一緒に見たあのアノマリー(異常点)が、今は完全に消えていたのだ。
「まずい! 全員準備しろ!」
「これ以上被害が出る前に、あいつを止めるぞ!」
ドミニクは即座に指示を飛ばし、自らも戦闘態勢に入った。
しかし、私たちが現場に到着した時。
驚いたことに、すでに先に動いていた者がいた。
「先を越されたみてぇだな」
ギルはファレリーの街の中心を指差した。
「見ろよ。あの化け物に一人で挑もうとしてるイカれた奴がいるぜ」
その姿を見た瞬間、私は目を見開いた。
「シグ……?」
「あいつ、さっき俺たちと一緒にいた新入りじゃないか?」
トールは目を細めた。
「でも、どうして彼が……」
「あのガキ、死にてぇのか?」
ギルが冷ややかな声で吐き捨てる。
違う。
手遅れになる前に、助けなきゃ。
胸の中を埋め尽くしていた不安は、一瞬で吹き飛んだ。
今は余計なことを考えている場合じゃない。
彼の命が危ない。
そう思い、私は前へ飛び出そうとした。
しかし――
その瞬間、力強い手が私の肩を掴んだ。
「待て、ヴィオナ」
ドミニクだった。
彼は戦場の方を鋭く見つめたまま、低い声で言う。
「何かがおかしい」
「おかしい?」
「見ろ……」
ドミニクは息を呑むように呟いた。
巨大な影の下を、シグの姿が縦横無尽に駆け抜ける。
視線が追いつかない。
「あれは、とても初心者プレイヤーの動きじゃない」
私は言葉を失った。
反論などできなかった。
(……いつから)
(シグは、あんなに強くなったの?)
「ありえねえ……」
ギルが呆然としたように呟いた。
「敵の致命的な攻撃を全部、紙一重で避けてやがる」
「あいつ……本当に低レベルなのか?」
トールは何も答えなかった。
ただ、私たちの目の前で繰り広げられる死闘を、瞬きも忘れたように見つめていた。
ギルでさえ、息を詰まらせるように唾を飲み込んでいる。
広場の中央。
タイタンは巨大な拳を無茶苦茶に振り回し、岩や建物の残骸を次々と粉砕していた。
だが、シグは常にその一歩先にいた。
彼の身体は流れるように動き、ほとんど目で追えないほどの速度で一撃、また一撃と回避していく。
ファレリー中のプレイヤーたちは、誰もが息を呑み、その戦いに見入っていた。
まるで、あの少年とタイタンが繰り広げる死の舞踏に魅せられてしまったかのように。
いや――
恐ろしすぎて、一歩も前に出られなかったのかもしれない。
遠くからでも、シグの口元に浮かぶ笑みがはっきりと見えた。
プレッシャーに押し潰されるどころか。
彼は、この戦いを楽しんでいるようにさえ見えた。
追い詰められたタイタンは、怒り狂ったように咆哮した。
そして次の瞬間――
全身から濃い白い霧を噴き出す。
わずか数秒で、その霧は戦場一帯を飲み込み、私たちの視界を完全に奪った。
白い帳の向こうから聞こえてくるのは、激しい衝突音と連続する爆発音だけ。
戦いがなおも続いていることだけは分かった。
「チッ……霧が濃すぎる」
「何も見えん」
隣でドミニクが不満そうに舌打ちした。
そして――
緊張が頂点に達した、その瞬間だった。
ヒュン――
空気を切り裂く鋭い風切り音が響く。
次の瞬間、凄まじい突風が広場から吹き荒れ、厚い霧を一瞬で吹き飛ばした。
再び視界が開けた時。
シグはすでに、動きを止めたタイタンに背を向けて立っていた。
ズバァァァッ!!
その巨体の全身から、突如として無数の斬り傷が浮かび上がる。
青い血が雨のように噴き出し、周囲の地面や建物の残骸までもが次々と砕け散った。
いや――
斬られていたのだ。
目に見えない斬撃によって。
シグが放った斬撃の爪痕は、数秒遅れてようやく現実へと現れた。
まるで世界そのものが、理性では理解できない彼の速度に置き去りにされていたかのように。
誰もが息をのんだ。
私自身、彼がこれほど恐ろしい剣技を持っているなんて信じられなかった。
「あ……倒したのか?」
ギルが半信半疑の声で呟く。
「いや、まだだ」
ドミニクが緊張した声で答えた。
その予感は的中した。
タイタンはゆっくりと身体を回し、右腕を高く振り上げる。
そして――
全力でシグへ叩きつけた。
シグは躊躇なく後方へ跳び、その致命的な一撃を滑らかに回避する。
だが、ボスの攻撃は終わらなかった。
巨大な顎が大きく開かれる。
その口元に暗黒の粒子が集まり始め、渦を巻きながら急速に圧縮されていく。
やがて、それは巨大な漆黒のエネルギー球へと変わった。
嫌な予感が全身を駆け抜けた。
あれは普通の範囲攻撃なんかじゃない。
「シグ! そこから離れて!!」
私は悲鳴に近い声で叫んだ。
けれど――
私の叫びを聞いたシグは、むしろこちらをちらりと見た。
そして、不敵な笑みを浮かべる。
まるで、
『心配するな』
そう言っているかのように。
黒いエネルギー球が極限まで膨れ上がると同時に、タイタンはそれを、なおも冷静に立ち続けるシグへ向けて真正面から放った。
その球体に秘められた破壊的なエネルギーは凄まじく、通過した地面には次々と灼熱のクレーターが刻まれていく。
致命的な一撃が目前まで迫る中、シグはただ左手を前へと掲げた。
巨大な黒球が彼の手に触れた瞬間、異変が起こる。
爆発するはずだったエネルギー球は激しく歪み、ノイズのようなグリッチを走らせた。
表面が混沌と波打ったかと思うと、まるでこの世界の存在そのものから削除されたかのように、跡形もなく消え去った。
「はぁ!? 今、何が起こったんだ!?」
周囲のプレイヤーたちから驚愕の叫び声が上がる。
しかし、誰も状況を理解できないまま、シグの姿がふっと視界から消えた。
次の瞬間。
彼は左手を天高く掲げたまま、タイタンの頭上にぴたりと現れていた。
そしてその開かれた掌の上には、先ほどとまったく同じ漆黒のエネルギー球が浮かんでいた。
一瞬の躊躇もなく、シグは腕を振り下ろす。
直後、致命の黒球が流星のように落下し、タイタンへ向かって叩きつけられた。
ドゴォォォン!!!
トールは素早く前へ飛び出し、私たち三人の前に巨大な盾を突き立てた。
「ユニークスキル……アブソリュートシールド!」
彼の咆哮と同時に、大爆発がファレリーの街を揺るがした。
高震度の地震のような激震がエリア全体を襲い、発生した衝撃波は周囲を薙ぎ払い、残っていた建物の残骸すら吹き飛ばしていく。
トールの絶対防御のおかげで、私たち三人は破壊の嵐の直撃を免れることができた。
爆心地から濃い煙と土埃が立ち上り、やがて広場に静寂が戻る。
固唾を呑んで戦いを見守っていたプレイヤーたちは皆、クレーターの中央に立つ一つの人影を、呆然とした表情で見つめていた。
「信じられんな……」
ドミニクが小さく呟く。
「シグ、本当に六十階のボスモンスターを一人で倒しやがった……」
「チーターだ……絶対に不正をしてやがる」
ギルは信じられないといった様子で首を振った。
「二階でゴブリンを狩ることしかできなかった底辺プレイヤーが、いきなり六十階のボスを倒せるわけねえ!」
私自身も、シグがどうやってこれほど短期間でここまでの力を手に入れたのか、不思議でならなかった。
けれど、ギルのように疑念を抱くことはなかった。
胸にあったのは、ただ計り知れないほどの驚きと安堵。
深く考えるより先に、私は残る土煙を突き抜け、彼のもとへ駆け出していた。
「シグ……!」
「ヴィオナ」
シグは静かに私の名前を呼んだ。
私はそのまま彼に強く抱きついた。
「シグ、一人であのタイタンを倒すなんて、本当にすごいよ!」
喜びと安堵が溢れ出し、気づけばそんな言葉が口からこぼれていた。
しかし、彼は抱き返してこなかった。
シグはただ、かすかに微笑んだだけだった。
まるで先ほどの巨人を倒したことなど、彼にとっては取るに足らない出来事だったかのように。
その反応は、あまりにも淡々としていた。
ゆっくりと、私は抱擁を解いた。
「シグ、いつからこんなに強くなったの?」
私は興味を隠しきれずに尋ねた。
しかし、シグはただ私を見つめ返すだけだった。
その表情は、何かとても大切なことを告げようとしているように見えた。
「ヴィオナ……」
「うん」
私は短く返事をした。
けれど、その真剣な顔を見た瞬間、なぜか胸がざわついた。
シグはしばらく沈黙した後、重いため息をついた。
「俺は……」
そこで言葉が途切れる。
脇に下ろした彼の手が、ゆっくりと握られては緩み、また握られる。
その様子を見て、私の頭には様々な可能性がよぎった。
彼が隠していた秘密。
未来で見た何か。
あるいは――。
理由も分からないまま、胸が小さく高鳴る。
だけど――
「俺とは、もう関わらないでほしい」
シグは静かに、だが冷たい声で言った。
「……二度と俺に近づかないでくれ」
その言葉は、青天の霹靂のように私を打ちのめした。
身体が凍りつき、頭の中が真っ白になる。
聞き間違いであってほしいとさえ思った。
「な、なんで……?」
震える声が、かろうじて唇から漏れる。
しかし、シグは顔を背けた。
顎の線が強張り、まるで何かを必死に押し殺しているようだった。
やがて彼は私に背を向け、そのまま歩き出した。
そして、私の心を粉々に砕くような言葉を残した。
「なぜなら俺は、お前の近くにいたくないからだ」
私は遠ざかっていく彼の背中を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
気づけば、両目から涙がこぼれていた。
彼の名前を呼びたかった。
引き止めたかった。
無理にでも説明させたかった。
だけど、声は出なかった。
身体も動かなかった。
残されたのは、胸の奥をゆっくりと満たしていく痛みだけだった。
だけど――
一番苦しかったのは、彼の言葉じゃない。
最後に見た、あの眼差しだった。
ほんの一瞬だけ。
それでも私は見逃さなかった。
本当に立ち去りたい人間がするはずのない、あまりにも悲しそうな目を。
まるで――
何かに耐えるような。
あるいは、自分自身を傷つけるような。
そんな悲しい眼差しだった。
***
次回、第12章 「ヴォイドフェイス」
新しい章の更新は毎週土曜日です。




