第99話 過去を断つ刃
女王の咆哮は、単なる威嚇ではなかった。それは、混乱した群れを再び支配下に置く、絶対的な命令だった。
ギッ、ギギギ……ッ!
殺虫剤の霧に苦しんでいたクロウラーたちの動きが、明らかに変わる。苦悶の身じろぎはそのままに、しかしその複眼には再び統率された殺意の光が宿り、のたうっていた体勢を立て直して、一斉にこちらを向いた。
「ちっ、統率を取り戻したか!」
俺は悪態をつく。神経に作用する薬剤の効果よりも、女王のフェロモンによる支配の方が強力らしい。
先頭を走っていたセーラが、女王との距離を一気に詰める。しかし、その行く手を阻むように、女王の巨大な鎌のような前脚が薙ぎ払われた。
「セーラ!」
ブンッ、と空気を切り裂く音。セーラは咄嗟に身をかがめてそれを躱すが、掠めただけで岩壁がえぐれるほどの威力に、さすがの彼女も顔色を変えた。
「くっ……!」
女王はセーラを完全に無視し、その巨大な顎を俺たちに向けている。その姿は、まるで「雑魚は後だ」とでも言いたげだった。
「来るぞ!」
俺の叫びと同時に、女王が地響きを立てて突進してきた。その巨体から繰り出される突進は、もはや暴走する城壁だ。
「ヒルダ! アレにもう一発!」
「わかってる!」
白い霧が女王の黒光りする外殻を包み込む。だが。
薬剤は分厚い外殻の表面を流れ落ちるだけで、節の隙間にも、頭部にもほとんど届かない。
「効いてねえ!?」
『超硬質の外殻を持ち、頭部以外への攻撃は著しく威力が減衰する。』
鑑定結果が脳裏をよぎる。
そうか……薬剤そのものは効くはずだ。
だが、この分厚い外殻では体内まで浸透しない。
しかも、弱点である頭部は高すぎる。まともに薬剤を浴びせられていない。
ヒルダの絶望的な声が響く。その一瞬の動揺が命取りだった。
「ぐおおっ!?」
女王の突進を正面から受け止めたバルクの巨体が、いとも簡単に宙を舞った。巨大な盾ごと、まるで小石のように弾き飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。凄まじい衝撃音と共に、バルクの口から呻き声が漏れた。
「バルク!」
「こっちもだ!」
ライアンの叫び。いつの間にか体勢を立て直したクロウラーの群れが、再び俺たちに襲いかかってきていた。
「うわあああっ!」
「リナ! 回復を!」
カイトのパーティが、再び数の暴力に飲み込まれていく。希望の光が見えた直後だからこそ、この絶望はより深く、暗い。
女王は倒れたバルクに目もくれず、次の標的を俺に定めた。その赤い複眼が、俺だけを捉えている。殺虫剤を使った俺が、一番の脅威だと判断したのだろう。
「ナオキ!」
セーラが叫ぶ。彼女は女王の背後から斬りかかるが、分厚い外殻に剣は弾かれ、火花を散らすだけだ。
「硬ってえ……!」
その隙に、女王の巨大な顎が俺の頭上から迫る。万事休すか。
そう思った瞬間、横からカイトが体当たりしてきた。
「ぐっ……!?」
俺は数メートル横に転がる。直後、俺がいた場所を女王の顎が粉砕し、地面が大きく陥没した。
「カイト!?」
「……借りは、返す」
カイトはそれだけ言うと、剣を構え直し、女王の注意を引くように斬りかかった。もちろん、彼の剣も全く歯が立たない。だが、その無謀な行動が、俺にほんのわずかな時間を与えてくれた。
「くそっ……! このままじゃ全員やられる……!」
俺は歯を食いしばる。圧倒的な力。覆せない戦力差。この状況は、まさしく三年前のセーラたちが味わった絶望そのものだった。
* * *
「ぐおおおおおおっ!」
バルクの咆哮が、坑道に響き渡る。彼は壁から体を起こすと、無数のひびが入った盾を構え直し、再び女王の前に立ちはだかった。
「ここは俺が食い止める! あんたたちは雑魚を!」
その背中は満身創痍で、いつ倒れてもおかしくない。だが、その瞳には仲間を守るという鉄の意志が宿っていた。
「バルク……! 無茶だ!」
「行けええええっ!」
バルクは女王の猛攻を、その身一つで受け止める。盾が軋み、腕の骨が悲鳴を上げるのが、こちらにまで伝わってくるようだった。
「くそっ! 行くぞ、ヒルダ!」
「言われなくても!」
俺とヒルダは、バルクが作ってくれた時間を無駄にしないため、再び群がってくるクロウラーたちを斬り伏せる。一体倒しても、すぐに次が来る。まさに泥沼の消耗戦だった。
戦況が完全に膠着し、俺たちの命が少しずつ削られていく。
その時だった。
『弱点:頭部』
鑑定結果が脳裏によみがえる。
そうだ!外殻じゃない!頭部だ!
そうだ。鑑定結果には確かにそうあった。だが、どうやって? あの巨体によじ登り、的確に頭部を狙うなど、曲芸師でも不可能だ。
その間にも、セーラは女王の攻撃を紙一重で躱し続けていた。彼女の動きは神がかっている。だが、決定打を与えるには至らない。彼女の剣撃は、ことごとく分厚い外殻に弾かれていた。
セーラの表情が歪む。
その瞳には、三年前の光景が蘇っているように見えた。
――仲間を見捨て、背を向けたカイトの姿。
――恐怖に足がすくみ、何もできなかった無力な自分の姿。
『私は、誰も見捨てたくない!』
先ほど自分が叫んだ言葉が、虚しく響く。口先だけでは、誰も守れない。
ふと、視界の端に仲間たちの姿が映った。
女王の猛攻に耐え、血を吐きながらも仁王立ちするバルク。
矢筒が空になっても、弓で殴りつけ、敵を食い止めるヒルダ。
的確な指示を飛ばし、自らも剣を抜いて戦うライアン。
そして、どんな状況でも諦めず、奇妙な道具を使って仲間を守ろうとするナオキ。
三年前とは違う。今の彼女には、背中を預けられる仲間がいる。命を懸けて、自分を守ろうとしてくれる仲間たちがいる。
'……もう、二度と。'
彼女の中で、か細く震えていた最後の何かが、ぷつりと切れた。
'二度と、あんな思いはしない!'
過去のトラウマが、恐怖が、後悔が、燃え盛る決意の炎の中に薪としてくべられていく。
「私が……」
セーラの唇が、小さく動いた。
「私が、やる……!」
その瞳から、迷いの色が完全に消え失せる。宿ったのは、一点の曇りもない、鋼のような覚悟の光だった。彼女はもう、過去に囚われた少女ではない。仲間と共に未来を切り開く、戦士だった。
* * *
セーラの覚悟を、俺たちは肌で感じ取った。言葉はなくとも、その背中が全てを物語っていた。
「全員、セーラに続け! 一瞬でいい、隙を作るぞ!」
俺は叫ぶ。もう、後がない。この一撃に、全てを賭ける。
「おおおおおおっ!」
バルクが最後の力を振り絞り、ひび割れた盾を女王の足元に叩きつけた。それは攻撃ではない。ただ、女王の体勢をコンマ数秒でも崩すための、捨て身の行動だった。
「ぐらつけえええっ!」
女王の巨体が、わずかに揺らぐ。
「今よ!」
ヒルダが叫び、最後の矢を女王の複眼めがけて放った。致命傷にはならない。だが、巨大な昆虫の最も敏感な部分への攻撃は、確実に女王の注意を逸らした。
ギッ!? と女王が顔を上げる。
「ライアン! 鑑定じゃ頭部と熱が弱点だ!」
俺は叫んだ。
「了解です!」
その瞬間を、ライアンは見逃さなかった。足元で燃えていた松明を拾い上げると、女王の複眼めがけて力いっぱい投げつける。
「目を逸らします!」
燃え盛る松明が女王の顔面へ直撃した。突然の炎に、女王は嫌がるように大きく顔を背けた。
俺は足元に転がっていた折れた槍を拾い、女王の脚の関節めがけて全力で投げつける。
「止まれやあああっ!」
ガキン! 浅く突き刺さっただけだが、女王の動きがほんの一瞬、確かに止まった。
カイトたちも、最後の力を振り絞って雑魚を引きつけてくれている。
「「「行けええええええっ!!」」」
全員の叫びが、一つになった。
仲間たちが命懸けで作り出した、たった一瞬の好機。
セーラは、地を蹴った。バルクの盾を踏み台に、天高く舞い上がる。その姿は、まるで闇を切り裂く一筋の流星だった。
眼下に、一瞬の隙を晒した女王の頭部が見える。
「これで……」
脳裏に浮かぶのは、三年間苛まれ続けた悪夢。そして、今、自分のために戦ってくれる仲間たちの顔。
「終わりだあああああああっ!」
セーラの渾身の一撃が、振り下ろされた。彼女の全体重と、三年分の想いが乗った刃は、女王の頭頂部、外殻の継ぎ目のわずかな隙間へと、吸い込まれるように突き刺さった。
ズブリ、と肉を断つ生々しい感触。
ギッ……ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!
坑道全体を揺るがす断末魔の絶叫。女王の巨体が大きく痙攣し、やがてゆっくりと横倒しになっていく。地響きを立てて、動かなくなった。
女王が倒れたことで、残りのクロウラーたちは完全に統率を失い、蜘蛛の子を散らすように闇の中へと逃げていった。
その瞬間。
『レベルが上がりました。』
『レベルが上がりました。』
『レベルが上がりました。』
頭の中へ、聞き慣れたシステム音声が次々と響く。
【ナオキ LV35 → LV38】
【セーラ LV34 → LV38】
【ヒルダ LV35 → LV37】
【バルク LV35 → LV37】
【ライアン LV22 → LV30】
静寂が、戦場を支配した。
セーラは、女王の頭に突き立ったままの剣に手をかけたまま、その場に膝をついた。肩が、小刻みに震えている。
「……終わっ、た……」
ぽつりと呟いた彼女の頬を、一筋の涙が伝った。それは恐怖や悲しみの涙ではない。三年間、彼女の心を縛り付けていた重い枷から、ようやく解放された安堵の涙だった。
俺たちは、そんな彼女の元へ、ゆっくりと歩み寄った。
* * *
激しい戦闘の痕が、坑道の至る所に刻まれている。俺たちは互いの傷を確認し、回復薬で傷を癒やしながら、ようやく訪れた安堵に息をついた。
「……悪かった」
不意に、カイトがセーラの前に立ち、頭を下げた。
「三年前も……そして、さっきも。俺は……」
「もういいの」
セーラは静かに首を振った。その表情は、驚くほど穏やかだった。
「過去は変えられない。でも……これからは変えていける。そうでしょ?」
その言葉に、カイトは何も言えず、ただ深く頭を下げ続けるだけだった。
そんな和解の雰囲気の中、ライアンだけが周囲を慎重に見回していた。
「ライアン? どうかしたのか?」
俺が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り返った。
「ナオキさん」
ライアンが静かに口を開いた。
「周囲も一通り確認しましたが、他に魔物の気配はありません」
「ああ」
俺は頷く。
女王を倒したことで、この坑道を支配していた異様な気配は完全に消えていた。
これで依頼は達成だ。ようやく俺たちは、街へ帰ることができる。
「……終わったな」
誰に言うでもなく、俺は小さく呟いた。
長かった坑道攻略も、ようやく終わりを迎えた。
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