第98話 巣を統べる者
'……一匹じゃ、ない'
俺の脳裏で警鐘が鳴り響くのと、坑道に絶望が満ちるのとは、ほぼ同時だった。闇のあちこちで、まるで呪いの灯火のように、赤い光が次々と灯り始める。一つ、二つ、三つ……。そのどれもが、俺たちを見つめる敵意に満ちた『眼』だった。
十、二十……いや、もはや数えることすら馬鹿らしい。瞬く間に、坑道の壁、天井、そして床に至るまで、視界の及ぶ限りの空間が、無数の赤い光で埋め尽くされていた。ザリ、ザリザリ……。無数の硬い脚が岩を擦る不快な協和音が、鼓膜を直接削るように響き渡る。センチネル・クロウラーが、俺たちを完全に包囲していた。
「な……なんなんだよ、これ……」
カイトのパーティの盗賊、ジンが震える声で呟いた。彼の顔は恐怖で引きつり、血の気が完全に失せている。いつも軽口を叩いている唇が、今はカタカタと震えるだけだ。
「うそ……うそでしょ……!? こんなの、聞いてない……!」
魔法使いのリナが、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。神官のマルコに至っては、神への祈りの言葉すら忘れ、ただ呆然と目の前の地獄絵図を見つめている。
ここは、ただの坑道ではない。
「……巣、です」
ライアンの静かな声が、絶望に満ちた空気を切り裂いた。
「ここはセンチネル・クロウラーの巣です。そして、この広間そのものが獲物を包囲して仕留めるための狩場なのでしょう」
「最初の一匹は、私たちをここまで誘導する斥候だったようです」
彼の冷静な分析が、逆にこの状況の絶望的な真実を浮き彫りにする。最初に戦った一匹は、俺たちの力量を測り、巣の奥深くへと誘い込むための、ただの斥候に過ぎなかったのだ。
その言葉を裏付けるかのように、坑道のさらに奥、無数の赤い光の中心から、ひときわ巨大な存在感を放つ影がゆっくりと動き出した。
それは、他のクロウラーたちより二回りは大きい。全長は15メートルに迫るだろうか。その外殻は歴戦の傷跡で覆われ、黒光りする様はまるで古代の黒曜石の鎧だ。頭部には、他の個体にはない、王冠のような鋭い突起が何本も生えている。
'鑑定!'
[名称:センチネル・クロウラー・クイーン]
[LV:45]
[状態:臨戦態勢、極度の憤怒]
[特記:センチネル・クロウラーの巣を統べる女王個体。極めて高い知能とフェロモンによる統率能力を持つ。超硬質の外殻を持ち、並の武器では傷一つ付けられない。]
[弱点:頭部、熱]
鑑定結果が脳裏に浮かび、俺は息を呑んだ。レベル45。
俺たちより遥かに格上の相手だった。到底、正面からぶつかって勝てる相手ではなかった。
女王は、その巨大な複眼で俺たちを一瞥すると、カチリ、と巨大な顎を一度だけ鳴らした。
その音を合図に、信じられない光景が繰り広げられた。
ザッ、と。
それまで無秩序に蠢いていたクロウラーの群れが、まるで一糸乱れぬ軍隊のように、一斉に動きを止めたのだ。そして、統率の取れた動きで、じりじりと俺たちを囲む包囲網を狭めてくる。退路は、すでに無数の黒い壁によって完全に断たれていた。
「……完全に、包囲された」
ヒルダが、悔しそうに呟く。弓を構える彼女の指先が、わずかに震えている。
「終わった……。もう、おしまいだ……」
カイトが、力なくその場に膝をついた。彼の瞳からは、かつての自信に満ちた光は消え失せ、ただ深い絶望の色だけが浮かんでいる。三年前、彼がセーラに見せた非情な判断力など、この絶対的な数の暴力の前では何の役にも立たないことを悟ったのだろう。
女王が、再び甲高い奇声を発した。それは、紛れもない『攻撃開始』の号令だった。
* * *
号令と共に、四方八方からクロウラーの群れが一斉に襲いかかってきた!
「陣形を崩すな! 背中合わせで円陣を組め!」
俺は叫ぶ。バルクと俺が背中を合わせ、その左右をセーラとヒルダが固める。ライアンは円の中心で、常に戦況全体を把握し、的確な指示を飛ばす。
「カイト! てめえらも何とかしろ! 死にたくなければ戦え!」
俺の怒声に、カイトはハッとしたように顔を上げ、絶望の淵から這い上がるように剣を握り直した。
ガギンッ! バルクの盾が甲高い音を立ててクロウラーの突進を受け止めるが、その衝撃で巨体が数センチ押し戻される。ギャウッ! ヒルダの矢が一体の複眼を正確に捉えるが、致命傷には至らず、逆上した個体が天井から襲いかかってくる。
戦闘の火蓋は切られた。だが、それは戦いと呼ぶにはあまりにも一方的な蹂躙だった。一体一体の力は斥候個体に劣るものの、その数は圧倒的だ。一体を斬り伏せても、その隙間を埋めるように二体、三体と新たなクロウラーが襲いかかってくる。
「くそっ、キリがねえ!」
ヒルダが矢を放ちながら悪態をつく。バルクの巨大な盾も、四方からの攻撃に晒され、悲鳴のような金属音を絶え間なく上げていた。
このままでは、ジリ貧だ。俺たちの体力が尽きるのが先か、ヒルダの矢筒が空になるのが先か。いずれにせよ、結末は変わらない。
「チッ……!」
ヒルダが舌打ちする。
「もう残り少ねぇ!」
矢筒を覗くと、残る矢は数本しかなかった。
一方、バルクの盾には無数の傷が刻まれ、その巨体も徐々に押し込まれていく。
「ぐっ……!」
初めてバルクの口から苦しげな声が漏れた。
さらにカイトたちも追い詰められていた。
「押されるな!」
「無理だ! 多すぎる!」
リナの魔法も、マルコの回復も追いつかない。
少しずつ、しかし確実に全員の陣形が崩れ始めていた。
あと数分も保たない。
そう確信した、その時だった。
「うわあああっ!」
悲鳴が上がったのは、カイトのパーティの方からだった。床下から突然現れたクロウラーに足をすくわれ、盗賊のジンがバランスを崩して仲間から孤立してしまったのだ。
「ジン!」
カイトが叫ぶ。だが、彼自身も二体のクロウラーに足止めされ、身動きが取れない。
「くそっ! 来るな! こっちに来るなあああっ!」
ジンはパニックに陥り、やみくもにナイフを振り回す。だが、その周りを三体のクロウラーが取り囲み、じりじりと距離を詰めていた。鎌のような脚が振り上げられ、絶望的な一撃が放たれようとした、その瞬間。
「させない!」
一筋の閃光が、闇を切り裂いた。
「セーラ!?」
俺が止める間もなく、セーラが孤立したジンの元へと飛び込んでいた。彼女はクロウラーたちの攻撃を、まるで踊るように紙一重で躱し、ジンの背後に迫っていた一匹の首元を正確に斬り裂く。
緑色の体液を撒き散らし、クロウラーが絶命した。
「な……なんで……」
助けられたジンが、呆然とセーラを見つめる。自分たちが見捨てた相手が、今、自分の命を救った。その事実が、彼の頭では理解できない、という顔をしていた。
セーラは、そんなジンに振り返ることなく、残りの二体と対峙しながら、力強く言い放った。
「私は、誰も見捨てたくない!」
その横顔には、かつてのトラウマに怯える少女の面影はどこにもなかった。仲間を守るため、過去の自分と決別するために、剣を握る一人の戦士がそこにいた。
その姿は、あまりにも眩しかった。
* * *
セーラの覚悟に、俺たちの士気は一瞬高まった。だが、戦況が好転したわけではない。クロウラーは無限に湧いてくるように見え、俺たちの体力と集中力は着実に削られていく。
「ナオキさん! このままでは持ちません!」
ライアンが叫ぶ。彼の額にも、びっしりと汗が浮かんでいる。
「数を減らしてもキリがない! やはり、女王を叩くしか道はありません!」
「だが、どうやって!?」
俺は女王に視線を送る。彼女は高みの見物を決め込むように、悠然と戦況を眺めている。その周りは、一際体の大きい屈強なクロウラーたちが、まるで親衛隊のように固めていた。あそこへたどり着くことすら不可能に近い。
'くそっ、何か手は……!'
焦りが募る中、俺は必死に突破口を探す。
火魔法では数が多すぎる。熱湯なんて、この場で大量に用意できるはずもない。
'……待てよ。'
俺は目の前のクロウラーを見据える。
'こいつら、どう見てもムカデだ。'
虫──。
その瞬間、ある日用品が脳裏に浮かんだ。
'……いや、まさか。'
一瞬、自分でも馬鹿げた発想だと思った。
だが、それ以外に打開策は思いつかない。
'これしかない!'
今は、藁にもすがる思いだった。
「全員、聞け!」
俺は腹の底から叫んだ。
「少しだけ、ほんの少しだけ時間を稼いでくれ! それと、布か何かで鼻と口を覆え! いいな!」
「はあ!? 何言ってんだ、ナオキ!」
ヒルダが怪訝な声を上げる。だが、俺はそれに答えず、意識をマリエクに集中させた。仲間たちが命懸けで稼いでくれる、この数秒に全てを賭ける。
'検索! 業務用! ムカデ用! 速効性! 大容量!'
[検索結果:業務用ムカデ駆除ボンベ(5L加圧噴射式)5本セット 25,000円]
[送料:2,000円]
[合計:27,000円]
'これだ! 購入!'
[現在のマリエク残高:13,535,000円]
次の瞬間、消火器によく似た銀色の大型ボンベが、ゴトン、という重い音と共に五本、足元へ現れた。
先端には太いホースと握り手が付いており、見慣れない形をした道具に、全員が目を丸くする。
「「「「なっ!?」」」」
俺以外の全員が、その異様な光景に目を剥いた。戦闘の喧騒が一瞬だけ、嘘のように静まる。
「おい、ナオキ! なんだそりゃあ!?」
一番に我に返ったヒルダが、信じられないという顔で叫んだ。
「また訳の分かんねぇもん買いやがったな!」
「説明は後だ! 俺の真似をしろ!」
俺は一本を掴むと、安全ピンを引き抜き、先端のホースをクロウラーの群れへ向けた。
「この握りを強く握る!」
俺がレバーを握る。
シューーーーーーーーーッ!
勢いよく白い霧がクロウラーの群れへ噴き出した。
「ヒルダ! お前もだ!」
俺はもう一本をヒルダへ放り投げた。
「お、おう!」
ヒルダは慌てて俺の動きを真似し、安全ピンを抜いて握りを強く握る。
次の瞬間
シューーーーーーーーーッ!
ヒルダのボンベからも白い霧が勢いよく噴き出した。
凄まじい噴射音と共に、白く霧状になった液体が、扇状にクロウラーの群れへと降り注いだ。
* * *
殺虫剤の霧を浴びたクロウラーたちは、即死はしなかった。だが、明らかに様子がおかしい。
ギッ、ギギギ……!?
それまで統率の取れていた動きが、ぴたりと止まる。そして、苦しげに体を震わせ、鎌のような脚で自分の体を掻きむしり始めた。中には、平衡感覚を失ったのか、苦しそうに身をよじり、動きが目に見えて鈍くなっていく。
統率されていた群れの動きにも、明らかな乱れが生じ始めた。どうやら薬剤が神経へ作用しているらしい。
「な……なんだこれ……」
カイトが呆然と呟く。
「効いてる! 効いてるぞ、ナオキ!」
ヒルダが歓喜の声を上げ、さらに殺虫剤を噴射する。白い霧が坑道に充満し、クロウラーたちの連携は完全に崩壊した。
「今だ! 一気に崩すぞ!」
俺の号令を合図に、パーティが反撃に転じた。
混乱した群れの隙を突き、バルクが巨大な盾で道をこじ開ける。その横を、俺とヒルダが駆け抜けた。
そして、その先頭に立っていたのは、セーラだった。
彼女は、恐怖を完全に振り払った目で、まっすぐに女王を見据えていた。
「あんたが、親玉ね……!」
セーラは誰の指示も待たず、自らの意志で、ただ一人、女王に向かって駆け出した。その背中は、俺が今まで見た中で、最も力強く、美しかった。
自分の群れが崩され、群れの仲間たちが苦しむ様を見て、それまで悠然と構えていた女王の赤い複眼が、初めて明確な怒りの色に染まった。
ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!
これまでとは比較にならない、坑道そのものを揺るがすほどの、怒りに満ちた咆哮が響き渡る。天井から小石がパラパラと落ち、松明の炎が激しく揺れた。
女王が、ついにその重い体を持ち上げた。邪魔な親衛隊を力任せに掻き分け、自ら前線へと進み出る。
その巨大な顎と、禍々しい赤い複眼が、一直線に俺たち――いや、侵入者である俺たち全員、明確な殺意と共に睨みつけていた。
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