第97話 絶望の複数形
闇の中で爛々と輝く二つの赤い光。それは三年前、セーラの心を砕いた絶望の象徴そのものだった。その赤い光が、ゆっくりと持ち上がり、俺たちの松明が照らし出す闇の境界線から、おぞましい巨体がぬるりと姿を現した。
ギシャアアアアアッ!
鼓膜を突き破るような甲高い奇声が、湿った坑道に反響する。同時に、腐った肉と土が混じったような悪臭が鼻を突いた。
全長は優に10メートルを超えるだろう。黒曜石のように鈍く輝くキチン質の外殻が、松明の光を不気味に反射している。蛇腹のような胴体からは、無数の鋭い鎌のような脚がうぞうぞと蠢き、湿った地面を掻いていた。そのおぞましい動きは、見る者の生理的嫌悪感を容赦なく掻き立てる。そして何より目を引くのは、頭部だ。そこには獲物を切り裂くための巨大な顎が二対、まるで開閉する拷問具のように備わっている。
その顎の奥で、無数の赤い複眼が、何の感情も映さず、ただ冷たく俺たちを『餌』として捉えていた。
「ひっ……ぁ……」
カイトのパーティの魔法使い、リナが声にならない悲鳴を上げた。盗賊のジンは顔面蒼白で一歩も動けず、神官のマルコはガタガタと震えながら祈るように胸の前で十字を切っている。カイト自身も、その顔から余裕の色は完全に消え失せ、額に脂汗を浮かべていた。
「……なんだよ、これ……聞いてねえぞ……!」
その絶望的な光景を前に、俺たちのパーティだけが、まだ理性を保っていた。
「正面からの物理攻撃は危険です! あの外殻、見た目以上に硬い可能性があります!」
ライアンが、敵から目を離さずに叫んだ。彼の声は緊張で張り詰めていたが、恐怖に呑まれてはいない。
「狙うべきは関節部! 脚の付け根、そして胴体の節! そこが唯一の弱点です!」
「了解!」
ヒルダが即座にライアンの指示に応じ、矢筒から硬い外殻用の矢を引き抜いた。
「バルク! 前線を頼む!」
「……承知」
バルクは巨大な盾を構え直し、その巨体で俺たち全員を守るように一歩前へ出た。その背中は、まるで動かぬ城壁だ。
だが、一人だけ、その連携から取り残されている者がいた。
「セーラ……?」
俺の隣で、セーラが小刻みに震えている。彼女の瞳は目の前の魔物に釘付けになり、その顔からは血の気が完全に引いていた。
「……あ……ぁ……」
唇から漏れるのは、言葉にならない絶望の音。三年前の悪夢が、現実となって彼女に襲いかかっていた。
魔物は、そんな俺たちの様子を品定めするかのように一瞬動きを止め、そして次の瞬間、その巨体に似合わぬ驚異的な速度で突進してきた!
「来るぞ!」
俺の叫び声と同時に、バルクが地面に深く足を踏み込み、盾を構えた。
ドゴオオオオオンッ!
凄まじい衝撃音と共に、魔物の巨大な顎がバルクの盾に激突した。坑道全体が震え、天井から土砂がパラパラと降り注ぐ。衝撃波が俺たちの頬を撫でた。
「ぐっ……おおっ!」
バルクの巨体が、衝撃で数歩後ずさった。彼の足元の岩盤が蜘蛛の巣のようにひび割れている。だが、彼は倒れなかった。驚異的な筋力と体幹で、常人なら肉片に変わるであろう一撃を、正面から受け止めてみせたのだ。
「す、すげえ……」
後方でカイトが呆然と呟くのが聞こえた。
「今だ、ヒルダ!」
「言われなくとも!」
バルクが攻撃を受け止めた一瞬の隙を突き、ヒルダが立て続けに三本の矢を放つ。矢は風を切り裂き、正確に、魔物の脚の付け根にある関節部へと吸い込まれていった。
ギャウッ!
甲高い悲鳴と共に、魔物の動きがわずかに鈍る。緑色の体液が傷口から飛び散った。
「効いてるぞ!」
ヒルダが叫ぶ。だが、致命傷には程遠い。魔物は傷つけられたことに激昂し、さらに多くの脚を蠢かせ、バルクに第二、第三の攻撃を仕掛け始めた。
ガギンッ! ズドンッ!
金属音と鈍い衝撃音が、絶え間なく坑道に響き渡る。バルクは必死に攻撃を防いでいるが、その表情には苦悶の色が浮かび、徐々に押され始めていた。盾を持つ腕が震えている。
「くそっ、援護を……!」
俺は魔物の側面へ回り込もうとする。だが、その時、俺の視界の端で、セーラの体が恐怖に縫い付けられたまま、一歩も動けていないことに気づいた。
'動けないのか……!'
彼女の脳裏には、今もあの日の光景が焼き付いているのだろう。仲間を信じ、一人で魔物に立ち向かい、そして見捨てられた絶望の記憶が。
「セーラ!」
俺が叫ぶ。だが、彼女の耳には届いていないようだった。その瞳は虚ろで、ただ目の前で繰り広げられる悪夢を映しているだけだ。
* * *
セーラの瞳が揺れる。
恐怖で足が震え、呼吸が浅くなっているのが分かった。
また、同じだ。
彼女の表情が、そう叫んでいた。
あの時と、何も変わらない。
私は、またここで……一人で……。
'違う'
ふと、脳裏に声が響いた。それは、昨日、俺にかけてくれたナオキの声だった。温かく、力強い声。
『お前はもう一人じゃない』
'俺たちがいる。ヒルダも、ライアンも、バルクも。全員、お前と一緒にいる'
その言葉と共に、仲間たちの顔が次々と脳裏に浮かんだ。
盾を構え、私の前に仁王立ちするバルク。彼の背中は、決して揺らがない。私を、みんなを守るための壁。
冷静に敵を分析し、的確な指示を飛ばすライアン。彼の知性が、私たちの命綱だ。
必死の形相で、援護の矢を射続けるヒルダ。彼女の闘志が、私を鼓舞する。
そして、ナオキ。いつも私の隣に立ち、ぶっきらぼうな言葉で、でも誰よりも強く、私の背中を押してくれる。
「私は……一人じゃ、ない!」
その事実が、凍り付いていた心に、小さな、しかし確かな火を灯した。
「……っ!」
私は歯を食いしばり、震える足に力を込める。膝が笑っている。それでも、もう一度、自分の意志で立つために。
'今度は、私がみんなを守る番だ'
過去の絶望が、呪いのように私を縛り付けようとする。だが、今の私には、その呪いを断ち切るだけの、確かな絆があった。
「私は……もう……」
私は、力の限り叫んだ。
「逃げないッ!」
その叫び声と共に、私は地面を蹴った。恐怖を振り払い、過去の自分を置き去りにして、魔物へと向かって真っ直ぐに駆け出す。
「セーラ!」
ヒルダの驚く声が聞こえた。
俺は、覚悟を決めたセーラの背中を見つめた。
'行け'
俺は彼女を信じる。そして、俺は俺の役割を果たすだけだ。
'鑑定!'
[名称:センチネル・クロウラー]
[LV:32]
[状態:極度の警戒、威嚇]
[特記:古代種の斥候個体。極めて高い知能と、獲物を巣へ誘い込む習性を持つ。超硬質の外殻を持ち、並の武器では傷一つ付けられない。]
[弱点:頭部、熱]
'斥候か……つまり、まだ仲間がいるってことか'
鑑定結果。それが、この魔物の格の高さを何よりも雄弁に物語っていた。だが、同時に重要な情報も手に入った。『誘い込む習性』。こいつは囮だ。
* * *
「ナオキ!」
俺が鑑定結果に驚愕している間に、覚悟を決めたセーラは、すでに魔物の懐に飛び込んでいた。彼女の剣が、バルクの盾を掠め、魔物の側面に鋭く閃く。
「遅い!」
セーラの剣は、ヒルダが矢を打ち込んだ関節部を、的確に追撃した。
ギシャアアッ!
魔物が、先ほどよりも甲高い苦鳴を上げる。セーラの一撃は、確実にダメージを与えていた。
「やるじゃないか、セーラ!」
ヒルダが叫びながら、さらに矢を放つ。
「カイト! お前たちも援護しろ! ぼさっと見てるだけか!」
俺が怒鳴ると、カイトはハッとしたように我に返り、忌々しげに舌打ちしながらも剣を構えた。
「行くぞ、お前ら! あいつらにいいところを見せ続けてたまるか!」
カイトの号令で、彼のパーティもようやく戦闘に参加する。二つのパーティが、一体の巨大な魔物を囲むように展開した。
戦況は、拮抗していた。
バルクが正面で攻撃を受け止め、セーラとカイトが左右から斬りかかり、ヒルダとリナが後方から矢と魔法で援護する。ライアンとマルコは、常に戦況全体を見渡し、負傷者の回復と指示出しに徹する。
だが、戦いながら、俺は強烈な違和感を覚えていた。
'こいつ……まるで、遊んでいるみてえだ'
魔物の動きには、必死さがない。俺たちの攻撃をわざと浅く受け、致命傷を避けるように立ち回っている。時折、わざと大きな隙を見せては、俺たちがそこを突こうとすると、狡猾なカウンターで反撃してくる。まるで、俺たちの力量を測り、戦い方を学習しているかのようだった。
知能が高い。鑑定結果が脳裏をよぎる。
その時だった。
魔物は突如、甲高い奇声を発すると、それまでの攻撃的な動きをぴたりと止め、身を翻して坑道の奥へと猛スピードで後退を始めた。
「あっ! 逃げるぞ!」
カイトが手柄を奪おうと叫び、追撃しようと駆け出す。
「待て!」
俺は咄嗟に叫んだ。
「待ってください! それは罠です!」
ライアンの鋭い声が、俺の言葉に重なる。
「今の動き……明らかに誘っています!」
その警告が放たれた、直後だった。
ザリ……ザリザリ……ザリザリザリ……。
坑道の奥深く、漆黒の闇の中から、あの不快な音が、一つではなかった。複数の方向から、まるで合唱のように、同時に響き渡ってきた。
松明の光が届かない闇のあちこちで、二つ、四つ、六つ……数えきれないほどの赤い光が、ぬるり、と次々に浮かび上がった。それはまるで、地獄の底に灯る鬼火のようだった。
「嘘……だろ……」
誰かが、絶望に染まった声を漏らした。カイトの足が、その場に縫い付けられる。
俺は、無数に増えていく赤い光を見つめながら、背筋が凍るのを感じていた。
'斥候個体……そして、誘い込む習性……'
最悪のピースが、頭の中で組み合わさっていく。
'……一匹じゃ、ない。'
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