第96話 赤い光
坑道の中は、一歩足を踏み入れただけで別世界だった。外の喧騒が嘘のように消え、完全な闇と、墓場のような静寂が俺たちを支配する。ひんやりとした空気が肺を満たすたび、湿った土とカビの匂い、そして微かに混じる鉄錆のような血の匂いが鼻をついた。肌を刺す冷気は、物理的な寒さだけでなく、生命の温もりを拒絶するような、不吉な気配をまとっている。
「……明かりを」
俺が指示を出すと、バルクは手際よく背嚢から松明を取り出し、火打ち石で火を灯した。数回のかたい音の後、パッと炎が生まれ、揺らめく光が湿った岩肌と、俺たちの緊張した顔をぼんやりと照らし出した。影が、まるで生き物のように壁際で蠢いている。
「チッ、気味が悪い場所だな。じっとりしやがって」
先に坑道に入っていたカイトが、壁に手を触れ、そのぬめりを嫌うように忌々しげに舌打ちする。彼らも松明に火を灯し、二つのパーティは互いに睨み合うように距離を取りながら、坑道の奥に広がる闇を警戒した。
'鑑定'
俺は内心でスキルを発動し、周囲の壁や地面に意識を集中させた。この不自然な静寂と不吉な気配。何か、この場所特有の鉱物や、魔力の痕跡があるはずだ。
[名称:岩壁]
[状態:湿っている。長年の浸水により、わずかに脆くなっている。]
[特記:特になし]
[名称:地面]
[状態:ぬかるんでいる。水と土砂が混じり、歩きにくい。]
[特記:特になし]
「……どうだ、ナオキ」
隣に立つセーラが、不安を隠しきれないか細い声で尋ねる。彼女の横顔は、松明の光に照らされて血の気が引いているのが分かった。
「いや、何も特別なことはない。ただの岩と土だ」
俺の答えに、彼女はゴクリと息を呑んだ。情報がないことが、逆にこの場所の異常性を際立たせている。もしここが強力な魔物の巣窟ならば、何らかの痕跡や特有の鉱物、あるいは魔力の残滓があってしかるべきだ。だが、鑑定結果はあまりにも『普通』だった。それが、言いようのない恐怖を掻き立てる。
コツ……コツ……。
狭い坑道に、俺たちの足音と、壁を伝って滴り落ちる水の音だけが反響する。それ以外は、何も聞こえない。自分の心臓の鼓動が、やけに大きく耳に響いた。この絶対的な静寂は、じわじわと精神を削り取っていく。
「おい、さっさと進めよ! ぐずぐずしてんじゃねえ!」
沈黙に耐えきれなくなったのか、後方からカイトの苛立った声が飛んできた。恐怖を怒鳴り声で誤魔化しているのが見え見えだ。
「今回の依頼にリーダーはいない。俺たちは俺たちの判断で動く。文句があるなら別行動でも構わない」
俺が静かに言うと、カイトは舌打ちだけを返し、それ以上は何も言わなかった。
俺は無視して、ライアンと目配せする。彼は静かに頷き、羊皮紙の地図を再確認しながら先を指し示した。
俺たちは、ライアンが選んだ迂回ルートを進む。
「敵の正体が分からない以上、最短距離より退路を優先します」
ライアンは地図から目を離さず、静かに言った。
「迂回にはなりますが、生還率はこちらの方が高いでしょう」
* * *
しばらく進むと、道幅が少し広がった空間に出た。そこで俺たちは、最初の『痕跡』を発見した。
「……これは」
ライアンが、松明の光に照らし出された地面の一点を指さす。そこには、見るも無残に引き裂かれた背嚢が転がり、中身だったであろう保存食やロープが泥の中に散乱していた。明らかに、冒険者が使っていたものだ。そして、その周囲には、乾いて黒く変色した血痕が点々と付着している。
「ひでえな……。ここでやられたのか」
ヒルダが顔をしかめ、鼻を覆う。腐臭こそしないが、血の痕は生々しい。
「だが、おかしいな」
俺は松明を掲げ、周囲を見回した。
「何がだ?」
「遺体がない。争ったような痕跡も、この荷物と血痕だけだ。まるで、ここでピクニックでもしていて、不意に消えちまったみたいだ」
「へっ、そりゃあ、魔物に喰われたんじゃねえのか? 骨の一本も残さず、きれいさっぱりとな」
カイトのパーティの盗賊、ジンがナイフの刃先で爪を掃除しながら軽口を叩く。だが、その声色にはいつものような余裕はなく、わずかに震えているのを俺は聞き逃さなかった。
その時、静かに状況を観察していたライアンが、眼鏡の位置を押し上げながら口を開いた。
「……静かすぎます」
彼の静かな一言に、全員の視線が集まる。
「どういうことだ、ライアン」
「もしここで激しい戦闘があったのなら、もっと痕跡が残るはずです。壁の傷、砕けた武器、無数の足跡……。ですが、この坑道にはそれが少なすぎる。それが異常なんです」
ライアンは血痕を指さす。
「それに、この血痕を見てください。激しい戦闘があったにしては、飛び散り方が限定的すぎる。壁や天井にはほとんど付着していない。まるで……抵抗する間もなく、一方的にやられたかのように、その場で静かに出血しただけに見えます」
彼の言葉に、俺は背筋が凍るのを感じた。
「そして、最も不可解なのは、遺体も、武器も、鎧も、金目の物も、何一つ残っていないことです。まるで、荷物を漁られた後、人間だけが『消えた』かのようです」
'神隠し'。
ライアンが昨日口にした言葉が、脳裏に蘇る。この坑道に潜むのは、単に強力な魔物ではない。もっと狡猾で、異質で、俺たちの理解の範疇を超えた何かがいる。
「……どういうことだよ、そりゃ。お化けでも出るって言うのか?」
カイトは鼻で笑った。
だが、その笑みはわずかに引きつっていた。彼の仲間たちも、顔を見合わせ、不安の色を隠せないでいる。
「わかりません。ですが、一つだけ確かなことがあります」
ライアンは、坑道のさらに奥、光の届かない漆黒の闇を見据えて言った。
「我々が相手にしているのは、ただの獣ではない。極めて高い知能を持った、狡猾な捕食者です」
ライアンのその言葉に、坑道内の空気がさらに重くなる。
少なくともこの瞬間だけは、カイトたちも軽口を叩く余裕を失っていた。
* * *
ライアンの指摘で、坑道内の空気は一変した。もはや、互いを挑発している余裕などない。全員が武器を構え、警戒レベルを最大に引き上げる。
バルクを先頭に、俺とセーラ、ヒルダが続く。ライアンは中間で常に周囲を警戒し、カイトたちが後方からついてくる陣形だ。背後を、信用できない連中に任せるのは不安だったが、今は前方の闇に集中するしかない。
一歩、また一歩と、慎重に足を進める。ぬかるんだ地面が、ブーツの底にねっとりと絡みつく。張り詰めた空気の中では、壁から滴る水滴の音すら、心臓を抉るように大きく響いた。
俺はセーラの隣に並んで歩く。彼女の顔は青白く、呼吸も浅いが、その瞳は恐怖に屈することなく、まっすぐに前を見据えていた。震える手で、固く剣の柄を握りしめている。その姿が痛々しく、同時に、どこか誇らしくもあった。
その姿を見たヒルダは笑いながらセーラへ声をかける。
「おう。無理だけはすんなよ」
その短いやり取りだけで、セーラの表情が少しだけ和らいだ。
'大丈夫だ。今度は俺たちがいる'
俺は声には出さず、心の中でだけ呟いた。
その時だった。
「……っ」
先頭を歩いていたバルクが、巨大な体躯に似合わぬ俊敏さで、ぴたりと足を止めた。掲げられた片手が、後続の俺たちに停止を告げる。
坑道の奥深くから、何かが聞こえる。
ザリ……。
それは、金属片か何か、硬いものが地面を擦るような、ひどく不快な音だった。
「……!」
セーラの体が、凍りついたように硬直する。彼女の瞳が見開かれ、呼吸が止まった。その脳裏に、あの日の悪夢が鮮やかに蘇ったのが、隣にいるだけで痛いほど伝わってきた。
「……幻聴じゃ、ない」
彼女の唇から、絞り出すような声が漏れる。
ザリ……ザリザリ……。
音は止まらない。ゆっくりと、しかし着実に、こちらへと近づいてくる。闇が深すぎて、その正体は全く見えない。だが、その存在だけは、肌を粟立たせるほどの悪意となって、俺たちに迫っていた。
「構えろ!」
俺が叫ぶのと、カイトが叫ぶのは、ほぼ同時だった。二つのパーティは反射的に背中合わせになるように円陣を組み、それぞれの武器を音のする方角へと向けた。
ヒルダはすでに矢をつがえ、その鋭い視線が闇を射抜く。ライアンは音もなく短剣を抜き、バルクは巨大な盾を構えてセーラを庇うように立つ。
ザリ……ザリ……。
音は、もうすぐそこまで来ている。
なのに、まだ何も見えない。
この見えない恐怖が、じりじりと神経をすり減らしていく。
* * *
「……来ます」
ライアンが、静かに、しかしはっきりと告げた。
その言葉が、まるで合図だったかのように、不気味な引きずる音は、ピタリと止んだ。
しん、と静まり返る坑道。
先ほどまでの静寂とは違う。嵐の前の静けさ。捕食者が、獲物に飛びかかる直前の、息を殺した一瞬の静寂だ。
誰もが固唾を飲んで、闇の先を見つめる。
心臓の音が、頭蓋骨の中でガンガンと響いていた。汗がこめかみを伝うのが分かった。
次の瞬間。
俺たちが見つめる漆黒の闇の奥で、二つの赤い光が、ぬるり、と浮かび上がった。
それは松明の反射光などではない。自ら仄かな光を放っている、まごうなき『眼』だった。
何の感情も読めない、ただただ冷たい二つの赤い光。それは、まるで奈落の底からこちらを覗き込むように、俺たち一人一人を品定めするかのように、じっと見つめている。
「……な……」
カイトのパーティの誰かが、引きつった声を漏らした。
その赤い光が、ゆっくりと持ち上がる。まるで、水の中から顔を出すように、音もなく。巨大な何かが、闇の中でゆっくりと身を起こしたかのようだった。俺たちの身長よりも、はるかに高い位置で、その光は再び静止した。
セーラの悲鳴すら、凍りついた喉の奥に消えた。彼女の顔からは全ての表情が抜け落ち、ただ、絶望だけが張り付いている。
三年前、彼女を奈落に突き落とした悪夢が、今、形を持って目の前に現れた瞬間だった。
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