第94話 消えない傷跡
「俺たちの判断は、間違ってなかったってな」
カイトの言葉が、凍りついたギルドの空気に突き刺さる。自分たちの裏切りを正当化するための、醜い自己弁護に他ならなかった。
周囲の冒険者たちから、あからさまな侮蔑の視線がカイト一行に注がれる。ひそひそと交わされる声は、もはや好奇ではなく、明確な非難の色を帯びていた。
「おい、聞いたかよ……仲間を見捨てたってのに、反省するどころか開き直ってやがる」
「『蒼き流星』も落ちたもんだな。リーダーがあれじゃあ」
「胸糞悪ぃ……」
だが、カイトはそんな周囲の反応すら意に介していない。むしろ、俺たちがどう出るか、愉しむように口元を歪めている。
「てめえ……っ!」
ヒルダの怒りが限界に達し、剣の柄に手をかけた。俺は踏み出そうとする彼女の肩を、無言で掴んで制する。
「ナオキ、離せ! あんなクズ、あたしが……!」
「やめろ。ここでやり合っても、こいつらの思う壺だ」
俺は冷静に告げる。セーラの震える肩が、視界の端に入った。彼女の精神状態が最優先だ。これ以上、この場所に彼女を置いておくわけにはいかない。
「……ナオキさんの言う通りです、ヒルダさん」
いつの間にか隣にいたライアンが、新しい眼鏡の位置を静かに直しながら言った。
「挑発に乗って手を出せば、ギルド内での私闘と見なされます。そうなれば、我々も罰則を受けることになる。それを彼らは狙っている」
ヒルダは悔しそうに歯を食いしばりながらも、柄から手を離した。
バルクは、いつの間にかセーラとカイトたちの間に仁王立ちしていた。その巨大な背中が、何よりも雄弁に彼女を守る意志を示している。カイトの仲間たちが、その威圧感に気圧されて一歩後ずさった。
「……行くぞ」
俺はセーラの耳元で静かに告げた。彼女は虚ろな瞳で俺を見つめ、こくりと小さく頷く。その顔から血の気が完全に失せている。
俺はカイトに一瞥もくれず、セーラの肩を抱いて踵を返した。
「おい、逃げるのか!?」
背後からカイトの嘲笑が飛んでくる。
「やっぱり口だけの腰抜けか! せいぜい、お似合いの女とおままごとでもしてな!」
その下劣な言葉に、俺の足が止まりかけた。だが、今はセーラを守ることが全てだ。俺は振り返らなかった。
俺たちは、ギルド中の侮蔑と憐憫が入り混じった視線を背中に受けながら、黙ってその場を後にした。
* * *
アルテナの街は、夕暮れのオレンジ色に染まり始めていた。活気のある大通りを、俺たちは重い沈黙に包まれて歩く。ギルドでの出来事が、鉛のように全員の足取りを重くしていた。
誰も、セーラに話しかけない。何を言っても、今の彼女には慰めにならないと皆が分かっていたからだ。
不意に、隣を歩いていたヒルダが、ギリ、と拳を握りしめた。
「……っ、ムカつく」
吐き捨てるような声だった。
「なんであいつらが、あんなデカい顔してんだよ。セーラは……あんなに苦しんでるってのによ……!」
今にも駆け出してカイトを殴りつけに行きそうな勢いのヒルダ。その腕を、後ろから来たバルクがそっと掴んだ。
「……今は、セーラが先だ」
バルクの短い言葉に、ヒルダはハッとしたようにセーラを見た。そして、悔しそうに唇を噛み締めると、何も言わずに腕を下ろす。
そんな俺たちの様子に気づいたのか、セーラがふと顔を上げた。その顔には、無理に作った笑顔が張り付いている。
「……ごめんなさい。私のせいで、みんなに嫌な思いさせちゃって」
声がか細く震えている。
無理に笑顔を作ろうとしているのが、かえって痛々しかった。
胸の奥で、俺は静かに呟いた。彼女の瞳は笑っていない。深い傷を隠そうとして、ただ痛々しく揺れているだけだ。
「お前のせいじゃない」
俺は少しだけ歩幅を緩めた。すると、セーラは震える手で、そっと俺の服の裾を掴んだ。
何も言わない。言葉はいらなかった。
ただ、一人ではない。それだけが今の彼女には必要だった。
俺は、前を向いたまま短く言った。
「……え?」
「お前は何も悪くない。悪いのは、全部あいつらだ」
俺のぶっきらぼうな言葉に、セーラは少しだけ目を見開いた。
「そうだぜ、セーラ。お前が謝ることなんて何一つねえ」
ヒルダも、ぶっきらぼうに付け加える。
「……うん」
セーラはそれだけ言うと、また俯いてしまった。だが、その横顔に浮かぶ苦悩の色は、少しだけ和らいだように見えた。
俺たちは宿屋『風鳥の羽亭』にたどり着く。宿の温かな光が、疲れた体を迎えてくれた。
* * *
共有スペースのテーブルに着いても、重苦しい空気は晴れない。
「……少し、一人にさせてくれる?」
セーラがか細い声で言った。
「部屋で……頭を冷やしたいの」
「ああ、わかった」
俺が頷くと、彼女は力なく立ち上がり、自分の部屋へと消えていった。残された俺たちは、顔を見合わせる。
「……どうします、ナオキさん」
ライアンが深刻な表情で俺に尋ねた。
「あの依頼、受けるべきではないと思います。少なくとも、善意で誘っているとは考えられません」
「わかってる。だが……」
俺が何かを言いかけた時、隣のセーラの部屋から、くぐもった声が聞こえてきた。
「……っ!」
それは、悪夢にうなされているかのような、苦痛に満ちた声だった。
ベッドの上で、セーラが苦しげに身を捩っている。冷や汗が額に浮かび、その表情は恐怖に歪んでいた。彼女の脳裏に、あの日の悪夢が蘇っているのだ。
――薄暗く、湿った坑道。壁から滴る水の音。
ザリ、ザリ……。何かが擦れる、生理的な嫌悪感を催す音。
闇の奥から、巨大なムカデのような魔物が姿を現す。爛々と光る無数の複眼が、こちらを捉えていた。
『セーラ! お前が時間を稼げ!』
『必ず、戻ってきて!』
遠ざかる松明の灯。
複数の足音。
『待って……!』
『カイト! マルコ! リナ……!』
返事はない。
『助けて……』
目の前に、巨大な顎が迫る――。
「いやあああっ!」
セーラはベッドから跳ね起きた。荒い呼吸を繰り返し、全身がびっしょりと汗で濡れている。その瞳は、まだ悪夢の恐怖から抜け出せていなかった。
「はぁ……はぁ……っ……」
彼女は震える手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。三年間、彼女を苛み続けてきた悪夢。その傷は、決して癒えてなどいなかったのだ。
* * *
セーラの部屋から漏れ聞こえてくる苦しげな声に、共有スペースの空気はさらに重くなった。
「セーラ……」
ヒルダが、いてもたってもいられないというように立ち上がる。
「今は、そっとしておこう」
俺は静かに彼女を制した。
「無理に声を掛けても、今は苦しめるだけだ」
俺の言葉に、ヒルダは悔しそうに拳を握りしめ、再び椅子に腰を下ろした。
ライアンは唇を固く結び、バルクは壁に寄りかかったまま、じっと目を閉じている。誰もが、セーラの苦しみを自分のことのように感じ、そして、何もできない自分たちに無力感を覚えていた。
'仲間を盾にして、それを正当化するクズどもが……'
俺の中で、カイトたちへの静かな怒りが黒い炎のように燃え上がっていく。セーラのあの苦しみは、俺たちがこれから進む上で、決して無視できない楔だ。あの過去を清算しなければ、俺たちのパーティは本当の意味で一つにはなれない。
俺は懐から、一枚の依頼書を取り出した。ギルドを出る直前、受付で受け取っていたものだ。
それを、静かにテーブルの上に置く。
仲間たちの視線が、一斉にその依頼書に集まった。
【依頼:『呪われた坑道』深層調査およびボス個体討伐】
「ナオキ……あんた、まさか……」
ヒルダが、信じられないという顔で俺を見る。
ライアンは依頼書へ静かに視線を落とした。
俺は、仲間たちの顔を一人一人見回し、そして、静かに、しかし揺るぎない決意を込めて言った。
「……この依頼、俺たちが受けよう」
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