第93話 挑発
俺の「断る」という一言が、熱気に満ちたギルドの空気を切り裂いた。全ての喧騒が嘘のように止み、全ての視線が俺たちに突き刺さる。酒場の陽気な音楽も、冒険者たちの談笑も、全てがピタリと止まった。
カイトの顔から、自信に満ちた笑みが初めて消えた。驚き、困惑、そしてやがて、侮蔑と怒りがその端正な顔に浮かび上がる。
「……なんだと?」
地を這うような低い声が、静寂を破った。
「聞こえなかったか?断ると言ったんだ」
俺は表情一つ変えずに繰り返す。
「てめえ、誰に向かって口利いてるか分かってんのか?こいつは俺の元仲間だ。俺が誘って何が悪い」
「元、仲間だろ?なら、もうお前に関係ない」
俺の冷静な返答に、カイトは一瞬言葉を失い、すぐに嘲りの笑みを浮かべた。
「ハッ、なるほどな。リーダー気取りか。セーラも見る目がねえな。そんなパッとしない男にくっついていくとは」
「リーダーがどうとか、そんな話はしていない」
俺はカイトの挑発を意にも介さず、一歩踏み出した。
「一つ、確認したいことがある。お前たちがセーラを見捨てたというダンジョンでの話だ」
俺の言葉に、カイトの眉がぴくりと動く。彼の後ろにいた仲間たちも、それぞれ不快そうな表情を浮かべた。
「ああ?昔の話を蒸し返して何になる」
「何があったのか、詳しく聞かせてもらおうか」
まるで尋問のような俺の口調に、カイトの表情から完全に笑みが消えた。代わりに、苛立ちが色濃く滲み出る。
「しつこい野郎だな。お前には関係ないことだ」
「関係なくはない。俺の仲間が、お前たちのせいで心に傷を負っている」
俺は背後にいるセーラを庇うように立ち、カイトを真っ直ぐに見据えた。
「ダンジョンの深層で、未知の魔物に遭遇した。そうだな?」
俺の問いかけは、確信に満ちていた。その言葉が引き金となり、セーラの脳裏に、あの日の悪夢が鮮やかに蘇る。
* * *
――その日、私たちは誰も足を踏み入れたことのないダンジョンの深層にいた。
薄暗く、湿った通路。壁からは絶えず水が滴り、不気味な静寂が支配していた。
「おい、本当にこっちで合ってるのかよ、マルコ」
盗賊のジンが、苛立ったように神官のマルコに尋ねる。
「ええ、神託ではこちらの方向だと……。もう少しのはずですが……」
マルコが自信なさげに答えた、その時だった。
ザリ、ザリザリ……。
通路の奥から、何か硬いものが地面を擦る、不快な音が聞こえてきた。
「……っ、何か来るわ!」
私が叫ぶと同時に、闇の向こうから巨大な影が姿を現した。それは、今まで見たこともない、おぞましい姿の魔物だった。巨大なムカデのような体に、無数の足、そして甲殻に覆われた頭部には、爛々と光る複眼がいくつも並んでいる。粘つくような悪臭が鼻を突き、キチン質が擦れ合う生理的な嫌悪感を催す音が、鼓膜を震わせた。
「ひっ……!なんだ、こいつは!?」
魔法使いのリナが悲鳴を上げた。
「くそっ!構えろ!」
リーダーのカイトが叫ぶ。だが、パーティは完全に不意を突かれ、混乱に陥っていた。魔物は甲高い奇声を発しながら、凄まじい速度でこちらへ突進してくる。
「セーラ!」
カイトが、恐怖に引きつった顔で私を振り返った。
「お前が時間を稼げ!前衛はお前一人だ!」
「え……?」
「俺たちが体勢を立て直すまで、なんとか持ちこたえろ!いいな!」
それは命令だった。前衛である私が、一人で敵を引きつけ、仲間が逃げる時間を稼げという命令。
私は一瞬躊躇した。それでも、仲間を信じて剣を握り直した。
「……わかったわ!必ず、戻ってきて!」
私は剣を抜き、一人、巨大な魔物へと向かって駆け出した。
――必ず戻ってきて。その言葉が、彼らに届いていたと、その時の私は信じて疑わなかった。
* * *
セーラの短い回想が途切れる。ギルドの喧騒の中、彼女の呼吸だけが浅く、速くなっていた。
俺はそんな彼女の様子を横目に、再びカイトへと視線を戻した。
「……セーラは、お前たちのために一人で魔物と戦った」
俺の静かな声が、ギルドに響く。
「お前たちは体勢を立て直す時間があったはずだ。……で、その後どうした?ちゃんと、彼女を迎えに戻ったんだろうな?」
俺の問いは、静かだが逃げ場のない刃のように、彼らの喉元に突きつけられた。
カイトの顔から、余裕という名の仮面が完全に剥がれ落ちた。彼の仲間たちも、気まずそうに視線を逸らす。その反応が、全ての答えを物語っていた。
* * *
「……あれは、仕方なかったんだ」
長い沈黙を破ったのは、神官のマルコだった。彼は人の良さそうな顔に、悲劇の当事者であるかのような苦渋の表情を浮かべている。
「あのままじゃ、僕たち全員が死んでいた。リーダーの判断は正しかったんだよ」
「そうよ!」
魔法使いのリナが、甲高い声で同調する。
「セーラだって、パーティのためなら理解してくれるって、私たちは信じてたわ!彼女はそういう子だもの!」
「そうだ。リーダーとして、パーティ全体の生存を最優先した。それだけだ。時には非情な判断も必要になる。それが分からねえなら、冒険者なんてやめちまえ」
カイトは開き直ったように、そう言い放った。彼の言葉には、罪悪感など微塵も感じられない。ただ、自分たちの行動を正当化するための、薄っぺらい理屈だけが並べられていた。
その無慈悲な言葉の一つ一つが、セーラの心に突き刺さる。そして、再びあの日の絶望が、彼女の意識を支配した。
* * *
――どれくらい戦い続けたのか。
剣はボロボロになり、鎧は砕け、全身から流れる血が足元の水溜まりを赤黒く染めていく。肺が焼けつくように痛み、鉄の味を帯びた呼気が漏れた。それでも、目の前の魔物もまた、私の必死の抵抗で夥しい傷を負っていた。
'あと、少し……!'
'みんなが戻ってくれば、勝てる……!'
その希望だけを頼りに、私は折れそうな心を必死で奮い立たせた。
だが、いくら待っても、仲間たちが戻ってくる気配はない。
ふと、通路の奥に目をやった。仲間たちが逃げていった方向。そこに、微かに揺れていた松明の光が、もう見えなくなっていることに気づいた。
「……え?」
心臓が、氷水に浸されたように冷たくなっていく。
'まさか。'
'そんなはずはない。'
'私たちは仲間だ。'
「……うそ……」
だが、現実は非情だった。どれだけ耳を澄ませても、聞こえてくるのは魔物の不気味な呼吸音と、自分の絶望的な心臓の音だけ。
「ああ……あ……」
膝から、力が抜けていく。
'見捨てられた'
その事実を悟った瞬間、私の世界から、音が消えた。信じていた絆が、まるで砂の城のように、あっけなく崩れ去った。張り詰めていた糸が切れ、体の奥から力が抜けていく。ただ、底なしの絶望だけが、私を飲み込んでいった。
* * *
「……そう」
回想から戻ったセーラの唇から、氷のように冷たい声が漏れた。彼女の顔からは表情が消え、その瞳は、底なしの闇を湛えている。
「仕方なかった、のね」
彼女の全身から放たれる、静かだが圧倒的な怒りのオーラに、カイトたちが思わず後ずさった。
「な、なんだよ、その目は……」
「あんたたちのおかげで、一つだけ分かったことがあるわ」
セーラは、ゆっくりとカイトに歩み寄る。
「私は、目が覚めたから。信じるって、簡単なことじゃないって思い知ったわ」
その言葉は、カイトたちへの決別の言葉であると同時に、彼女自身が三年間、抱え続けてきた呪いそのものだった。
* * *
「つまり、こういうことか」
俺は、静かに怒りを燃やすセーラと、狼狽するカイトたちの間に割って入った。
「お前たちは、仲間を盾にして逃げ出し、一度も助けに戻らなかった。セーラが生きていたのは、単なる幸運に過ぎない。違うか?」
俺の言葉に、周囲の冒険者たちがざわめき始める。彼らがカイトたちに向ける視線は、もはや好奇ではなく、明確な侮蔑の色を帯びていた。
「う、うるせえ!終わったことだと言ってるだろうが!」
完全に追い詰められたカイトが、獣のように吠えた。だが次の瞬間、彼は何かを思い出したように口元を歪める。
「……ちょうどいい」
カイトは懐から、すでに剥がしていた一枚の依頼書を取り出した。
「さっき言っただろ。面倒な依頼があるってな」
「この依頼、俺たち『蒼き流星』が受ける」
そう言って、カイトは依頼書をカウンターへ叩きつけた。
受付嬢は依頼書を見るなり表情を曇らせる。
「その依頼ですか……。『呪われた坑道』深層調査およびボス個体討伐……。最近被害が増えているんです。」
「こちらの依頼は危険度上昇に伴い、複数パーティでの受注をお願いしております。」
カイトはニヤリと笑った。
「聞いただろ?」
「最初から分かってたんだよ。この依頼は一組じゃ受けられねぇ。」
彼は依頼書を指先で軽く叩く。
「だから、お前らも来い。セーラを見捨てたって言うなら、その目で最後まで見届けろ。」
「証明してやるよ。」
「俺たちの判断は、間違ってなかったってな。」
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