第90話 本当の絶望
ライアンの震える声が、墓地の静寂に溶けていく。
「誰も俺の言葉を信じなかったことでも、『裏切り者』の烙印を押されたことでもない。本当の絶望は、もっと別のものだった」
彼の顔は苦痛に歪み、その瞳は再び、三年前のあの地獄へと引き戻されていた。
* * *
――どれほどの時間、砂漠を彷徨っただろうか。
ガイル隊長に突き飛ばされ、砂丘を転がり落ちた俺は、奇跡的に生きていた。だが、意識は朦朧とし、腹からは絶え間なく血が流れ続けている。
'死ぬ……'
灼熱の太陽が容赦なく肌を焼き、渇きが喉を裂く。仲間たちの無残な最期が、幻覚のように何度も脳裏をよぎった。
'……伝えろ……'
ガイル隊長の最後の言葉が、消えかけの命を繋ぎとめる唯一の楔だった。
俺は、死体同然の体を引きずり、ただひたすらに歩いた。そして、完全に意識を失う寸前、偶然通りかかった別の小さな商隊に発見された。
* * *
数日後、俺は最寄りの街の冒険者ギルドに担ぎ込まれた。
「おい、しっかりしろ! お前、一体何があったんだ!」
ギルド職員の怒声で、俺は現実へと引き戻される。簡易ベッドに寝かされたまま、俺は途切れ途切れに報告した。
「……大規模商隊が……全滅……」
「なんだと!?」
ギルド内が瞬時に騒然となる。
「場所は『嘆きの大砂漠』……正体不明の敵に……」
俺の報告に、その場にいた誰もが半信半疑の顔をしていた。だが、護衛隊長の名前を告げた瞬間、ギルドの空気が変わった。
「護衛隊長は……A級冒険者、”岩砦”のガイルさんだった……」
「ガイルが!? あのガイルが率いる部隊が全滅だと!?」
ギルドマスターが血相を変えて、俺のベッドのそばに駆け寄ってきた。恰幅のいい、普段は豪胆な彼が、狼狽を隠せずにいる。
「本当なんだな!? ライアン!」
「はい……ボルガンさんも……リーナさんも……皆……」
仲間たちの名を口にするたびに、胸が張り裂けそうだった。
A級冒険者を含む大規模な護衛隊の全滅。それは、ギルドの威信に関わる大事件だった。ギルドマスターは即座に判断を下した。
「緊急事態だ! すぐに大規模な調査隊を編成しろ! ベテランをかき集め、ヒーラーも複数名つけるんだ! 生存者がいるかもしれん!」
ギルド中が、慌ただしく動き出す。その様子を見ながら、俺の心にはわずかな安堵が芽生えていた。
'よかった……これで、真実がわかる'
調査隊が現場に行けば、残された戦闘の痕跡や、仲間たちの遺体が見つかるはずだ。そうすれば、俺の報告が真実であること、そして俺たちがどれほど理不尽な力によって蹂躙されたかが証明される。
'ガイルさん……あなたの最後の命令、俺は……'
俺は、仲間たちの無念を晴らすことだけを考え、治療を受けながら調査隊の帰りを待った。
それが、希望とは似ても似つかない、底なしの闇への入り口だとは、知る由もなかった。
* * *
調査隊が帰還したのは、それから五日後のことだった。俺は体の傷もまだ癒えないまま、ギルドの報告会場にいた。調査隊の帰還を待ちわびていたギルド職員や冒険者たちが、固唾を飲んで報告を待っている。
やがて、砂と埃にまみれた調査隊長が、重々しい足取りでギルドマスターの前に立った。
「……報告します」
調査隊長は疲労しきった顔で、静かに口を開いた。
「指定された座標を中心に、半径五十キロに渡って捜索を行いましたが……」
そこで一度、言葉が途切れる。俺は、息を詰めて彼の次の言葉を待った。
「商隊の痕跡、戦闘の跡、荷物、そして……遺体。そのいずれも、発見には至りませんでした」
「――な……!?」
俺は耳を疑った。
ギルド内が、水を打ったように静まり返る。
「馬鹿な! 何かの間違いだろう! あれだけの規模の商隊だぞ! 何か痕跡が残っているはずだ!」
俺は思わず叫んだ。だが、調査隊長は静かに首を横に振る。
「我々も信じられん。だが、事実だ。まるで……初めから何も無かったかのように、そこにはただ、静かな砂漠が広がっているだけだった」
その言葉が、俺の最後の希望を打ち砕いた。
「そんな……はずは……」
愕然とする俺を、周囲の冷たい視線が突き刺し始める。
「おいおい、どういうことだよ」
「痕跡が何もないって……本当に襲撃なんてあったのか?」
「A級冒険者がいたんだろ? そいつらが戦ったなら、砂漠がひっくり返るくらいの痕跡が残るはずだ」
最初はひそひそとした囁きだった。だが、それは次第に、明確な疑念の言葉となって俺に向けられた。
「もしかして、全部こいつの嘘なんじゃないか?」
「積荷をどこかに隠して、仲間を殺して……一人だけ戻ってきたとか」
「ありえるな。そうでなきゃ、説明がつかん」
'違う。俺は嘘なんかついていない。仲間たちは、確かに目の前で殺されたんだ。'
俺は必死に反論しようとした。だが、証拠が、何一つなかった。俺の言葉を裏付けるものが、この世界から綺麗さっぱり消え失せていた。
俺の報告は、「信憑性なし」として扱われた。重傷を負った俺への同情的な視線は、いつしか侮蔑と猜疑の色に変わっていた。
昨日まで「よくやった」と肩を叩いてくれたギルドの仲間たちは、俺と目が合うと気まずそうに逸らし、距離を置くようになった。
俺は、ギルドという居場所の中で、たった一人、完全に孤立した。
* * *
本当の絶望は、静かに、だが確実に俺の足元を固めていった。
まず、依頼主だった商会の行方が分からなくなった。ギルドが何度も連絡を試みたが、商会があったはずの場所はもぬけの殻。まるで、神隠しにでもあったかのように、忽然と姿を消していた。
「依頼主と連絡が取れんことには、報酬の支払いもできんな」
ギルドマスターは、事務的な口調でそう告げた。
そして、決定打が訪れた。
「ライアン、すまないが……君が受けたという依頼の契約書が、見当たらないんだ」
ギルドの書庫を管理している職員が、申し訳なさそうに俺に告げた。
「なんだと!? そんなはずはない! 俺は確かにここでサインした!」
「もちろん、探したさ。だが、どこにもないんだ。まるで、最初からそんな依頼は存在しなかったみたいに……」
全身の血が凍り付くのを感じた。
依頼主の失踪。契約書の消失。そして、現場から消えた全ての痕跡。
'偶然にしては、出来すぎている。これは……意図的に仕組まれたことだ。何者かが、この事件の全てを「無かったこと」にしようとしている。'
その事実に気づいた時、俺は恐怖よりも先に、底なしの無力感に襲われた。
噂は、あっという間に街中に広がった。
『仲間を売って積荷を独り占めした裏切り者』
俺は弁明することをやめた。何を言っても、証拠のない俺の言葉を信じる者など、もうどこにもいなかったからだ。ギルドにいることも耐え難くなり、俺は安酒場で一人、酒を煽るだけの毎日を送るようになった。
そんなある夜のことだった。
薄暗い路地裏を千鳥足で歩いていると、不意に背後から声をかけられた。
「……ライアン・ラグナーだな?」
振り返ると、そこにいたのは、ごく平凡な身なりの、何の変哲もない男だった。だが、その目だけが、蛇のように冷たい光を放っていた。
「誰だ、お前は……」
「忠告しに来た」
男は静かに、だが有無を言わせぬ圧力で言った。
「お前は、少し知りすぎた。だが、幸運にも生き残った。その幸運を、無駄にするな」
「……何が言いたい」
「あの砂漠で何があったか、もう思い出すな。誰かに話そうとも思うな。全て忘れろ。そうすれば、お前はこれからも生きていける」
男はそれだけ言うと、闇の中へとすっと消えていった。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
俺は、その場に立ち尽くした。
ぞわり、と背筋を悪寒が駆け上る。
'あれは、脅迫だ。'
'もし俺が真実を追おうとすれば、次は消される、と。'
その瞬間、俺は全てを悟った。
'ガイルさんたちが戦った相手。俺たちを襲った『何か』。そして、この事件を闇に葬ろうとしている巨大な組織。それら全てが、一つの線で繋がった。'
'俺は殺されなかったんじゃない。生かされたんだ。'
'『裏切り者』という、誰にも信じてもらえないレッテルを貼られた、無力な生き証人として。真実を語っても、誰にも相手にされない道化として。'
'仲間たちは無残に殺され、その死は無意味なものとして闇に葬られた。そして、生き残った俺は、彼らを裏切った卑劣漢として、一生その汚名を背負って生きていかなければならない。'
'これ以上に、残酷な絶望があるだろうか。'
* * *
「……それが、俺の言った『本当の絶望』だ」
回想を終えたライアンの声が、夕闇に沈む墓地に虚しく響いた。彼の告白を聞き終えた俺たちは、誰も言葉を発することができなかった。あまりにも巨大で、あまりにも悪質な闇の存在に、ただ打ちのめされていた。
「……ひでえ」
最初に沈黙を破ったのは、ヒルダだった。その声は、怒りに震えている。
「そんなのって……あんまりじゃないか……」
セーラも、目に涙を浮かべて唇を噛み締めている。バルクは、地響きがするほど強く拳を握りしめていた。
ライアンは、そんな俺たちを見て、力なく笑った。だが、その瞳には、もう諦めの色だけではなかった。三年前にはなかった、確かな闘志の炎が宿っていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、俺たちに向き直る。
「だから、分かったんだ。俺たちがあの地下施設で見たものは、三年前の事件と繋がっている」
彼の言葉に、俺は息を呑んだ。
「俺たちを襲った連中だけが、敵じゃない」
ライアンは、決意を込めた目で、俺をまっすぐに見つめた。
「本当の敵は、その背後で全てを操り、自分たちの都合の悪い真実を力ずくで隠蔽する――ガルダ帝国そのものなんだ」
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