第9話 相棒への投資と、最初の成果
口の端が吊り上がるのを止められなかった。
川底に広がる泥の山。それはこの死にかけた町を甦らせるための忘れられた宝であり、俺にとってはとてつもないビジネスチャンスそのものだった。
'だが、落ち着け。焦りは禁物だ'
陶器産業の復活はあまりに巨大なプロジェクトで、今の俺一人でどうこうできる話ではない。粘土を掘り出す技術も、加工する職人もいないのだ。
俺は目の前の現実に視線を戻す。
腰を曲げ、粗末な釣竿を握りしめる老人。その傍らには、哀れなほど中身の少ない魚籠。
'そうだ。順番が違う'
巨大な利益を夢想する前に、やるべきことがある。
この町の人々の生活を、まず足元から豊かにする。信頼を勝ち取り、購買力を生み出す。それが俺の計画の第一歩だ。
俺は意識を『マリエク』に集中させ、検索窓に文字を打ち込んだ。
'釣り針'
膨大なリストの中から、最もコストパフォーマンスの良さそうなものを選択する。
【検索結果:高強度カーボン製釣り針 10本セット】
【価格:1000円】
'……銀貨、一枚か'
一瞬、思考が止まる。銀貨一枚は鉄貨百枚分だ。
『マリエク』のウィンドウに表示された残高は、無慈悲にも『0円』を示している。鶏がらスープの素を買うために、バルガスから前借りした金はすべて使い果たしてしまったのだ。
「……くそっ」
宝の山を目の前にして、それを掘り出すための最初のツルハシさえ買えないとは。なんという皮肉だ。
老人は、俺に気づくこともなく、力なく水面を見つめている。その姿が、過去の自分と重なった。どうしようもない状況に、ただ無力に打ちひしがれるだけの自分と。
'……いや、違う'
今の俺は、無力じゃない。
スキルがある。そして、何より……俺には相棒がいる。
バルガスの、熊のような顔が脳裏に浮かんだ。俺たちの関係は、ただの宿の主人と客じゃない。共同事業者だ。
これは、賭けだ。俺という人間と、俺が描く未来のビジョンに、彼がどこまで賭けてくれるか。
「爺さん、あんたに最高の釣り針をやる。だから、少しだけ待っててくれ」
「……なに?」
怪訝な顔をする老人を一瞥し、俺は踵を返した。
もう迷いはない。俺は宿屋『木陰亭』へと、全力で走り出していた。
* * *
「はぁ……はぁ……バルガス!」
宿屋に転がり込むと、カウンターを片付けていたバルガスが驚いた顔でこちらを見た。
「どうした、ナオキ! そんなに慌てて。熊にでも追いかけられたか?」
「それよりタチが悪い……金欠だ」
息を整えながら言うと、バルガスはきょとんとした。俺はカウンターに両手をつき、身を乗り出す。
「単刀直入に言う。銀貨一枚、投資してくれ」
「……は? ぎ、銀貨一枚だと!?」
バルガスの声が裏返る。鉄貨百枚分。
この町は極端に貧しく、現金流通が少ない。
物々交換が主なグルフの街で、冗談ではないと悟ったのか、彼の顔から笑みが消えた。
「おいおい、相棒。銅貨四枚を貸したばっかりだぜ? それに、あの粉は一つも売れなかった。なのに、さらに銀貨一枚……正気か?」
「もちろん正気だ。だからこれは『投資』だと言ってる」
俺は地図を広げ、川を指さした。
「町の外れの川へ行ってきた。そこにいた漁師の爺さんと話したんだ」
「ああ、漁師の連中か。最近はさっぱりだとぼやいてたな」
「原因は道具だ。奴らが使ってる釣り針は、釘を曲げたみたいなガラクタだ。あれじゃあ、魚が釣れないのも当然だ」
俺は一息つき、バルガスの目をまっすぐに見た。
「俺が『本物の釣り針』を仕入れる。そうすりゃ、漁師たちの漁獲高は間違いなく数倍、いや数十倍に跳ね上がる」
「……なるほど。修理工の爺さんの時と同じってわけか」
バルガスは腕を組み、納得したように頷いた。
「理屈はわかる。だが、それでどうやって俺たちの利益に繋がるんだ? 漁師どもが儲けたって、俺たちに金が入るわけじゃねえだろ」
「直接はな。だが、町全体が豊かになれば話は別だ」
俺はカウンターに残っていた『奇跡の粉』の小袋を指さす。
「漁師が儲かれば、その金で美味いものが食いたくなる。酒だって飲みたくなるだろう。そうなれば、この粉が売れる。あんたの宿の飯も、酒も売れる。違うか?」
「…………」
「それに、これは始まりに過ぎない。漁業が立て直せれば、次は農業だ。林業だ。そして……」
俺は声を潜め、決定的な一言を告げた。
「あの川の底には、かつてこの町を支えた陶器の原料になる、極上の粘土が眠ってる」
「なんだと!?」
バルガスが目を見開く。
「その粘土を掘り出し、陶器を復活させる。そうなれば、この町には王都からも商人がやってくる。涸れ谷のグルフは、昔のような活気を取り戻す。いや、それ以上になる。俺たちは、その中心にいるんだ」
熱に浮かされたように、一気にまくし立てた。
食堂に、沈黙が落ちる。バルガスは、俺の顔と、地図と、粉の小袋を交互に見つめ、何かを必死に計算しているようだった。やがて、彼は重い溜息をついた。
「……お前の話は、あまりにデカすぎる。まるで夢物語だ」
「夢じゃない。俺には、そのための具体的な道筋が見えてる」
「だが、失敗したらどうする。銀貨一枚は、この店にとっても大金なんだぞ!」
「その時は、俺がこの宿で一生タダ働きしてやる」
俺が真顔で言うと、バルガスはフッと鼻で笑った。
「馬鹿野郎。お前みたいなガリガリの男を一生こき使ったって、元は取れねえよ」
彼はそう言うと、カウンターの奥の金庫に手を伸ばし、重々しい手つきで一枚の銀貨を取り出す。そして、それを俺の目の前のカウンターに、ことりと置いた。
「……いいぜ。賭けてやるよ、相棒」
「バルガス……」
「勘違いするな。お前の夢物語に賭けるんじゃねえ。俺は、お前のその目に賭けるんだ。この町を本気で変えようとしてる、その狂気じみた目にな」
バルガスはニヤリと笑った。
俺は黙って銀貨を握りしめる。ずしりとした重みが、俺たちの未来の重さのように感じられた。
* * *
銀貨一枚をマリエクに投入し、残高は一気に千円を超えた。俺は迷わず『高強度カーボン製釣り針 10本セット』を購入し、急いで川辺へと戻る。
老人は、俺が去った時と全く同じ姿で、そこにいた。
「爺さん、待たせたな」
「……おお、あんたか。わしに何か用じゃったかな」
まるで俺のことなど忘れてしまったかのような口ぶりだ。俺は何も言わず、ビニール袋に入った真新しい釣り針を彼の前に差し出した。
「これを。約束の品だ」
老人は、袋の中の黒く艶光りする、精巧な釣り針を見て目を見開いた。
「こ、これは……なんじゃ……。昔、鍛冶屋が打っていた針よりも、ずっと……」
「いいから使ってみろよ。代金はいらねえ。その代わり、釣れた魚を少しだけ分けてくれ」
老人は半信半疑のまま、震える手で釣り針を一つ受け取ると、自分の粗末な釣り糸に結びつけた。そして、おずおずと川へと糸を垂らす。
変化は、すぐに訪れた。
ほんの数分後、それまでピクリともしなかった竿先が、ぐんっ、と大きくしなった。
「なっ……! き、来た! でかいぞ、こいつは!」
老人が慌てて竿を立てる。しなりのないただの木の枝が、みしみしと軋む音を立てた。だが、糸の先の釣り針は、獲物を決して離さない。
しばらくの格闘の末、水面を割って現れたのは、これまで魚籠に入っていた小魚とは比べ物にならないほど大きな、尺を超える見事な魚だった。
「おお……おおぉ……!」
陸に引き上げられた魚を前に、老人は言葉を失い、ただ打ち震えている。
「信じられん……こんな大物が、まだこの川におったとは……」
だが、驚きはそれで終わらない。
一度コツを掴んだ老人は、その後、面白いように次から次へと魚を釣り上げていく。一時間もしないうちに、あれほど空っぽだった魚籠は、溢れんばかりの魚で満杯になった。
「夢か……これは夢じゃないのか……」
老人は、自分の釣果を前に呆然と呟く。その背後で、噂を聞きつけたのか、他の漁師たちが何人か、信じられないものを見るような目でこちらを遠巻きにしているのが見えた。
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