第10話 相棒への利益と、広がる需要
遠巻きに固唾を飲んで見守っていた漁師たちが、信じられないものを見る目で、一人、また一人と、おずおずと間合いを詰めてくる。彼らの視線は、俺ではなく、老人の足元で銀色に輝く魚の山と、その口に突き刺さった黒い釣り針に釘付けだ。
「じ、じいさん……そりゃあ、一体どうしたってんだ。夢でも見てるのか……」
一人が、かすれた声で尋ねる。他の者もゴクリと喉を鳴らすのが聞こえた。
「見ての通りじゃよ。……釣れたんじゃ」
老人はまだ夢見心地のまま、震える手で足元の魚を撫でながら、そう答えた。
「釣れたって……馬鹿な! こんな大物が、この涸れた川にまだいやがったのか!」
「ああ。わしにも信じられんがな。……全部、こいつのおかげじゃ」
老人が指さしたのは、俺の手の中にある、高強度カーボン製釣り針が入ったビニール袋だった。その瞬間、男たちの視線が一斉に俺に突き刺さる。熱を帯びた、渇望の色だ。
「旅の人! その……その不思議な針を、俺たちにも売ってくれねえか!」
一人が声を上げると、堰を切ったように他の漁師たちも懇願し始めた。
「頼む! 一つでいいんだ! それがあれば、家族に腹一杯食わせてやれる!」
「いくらだ? 鉄貨で買えるか? 持ってる銭、全部出す!」
欲望をむき出しにして詰め寄ってくる男たちの熱気に対し、俺は氷のように冷静に片手を上げて制した。その静かな動きに、なぜか男たちの喧騒がぴたりと止まる。
「待て。これはまだ試作品だ。そう簡単には渡せん」
'ここで安売りしてはダメだ。圧倒的な性能を見せつけ、飢餓感を煽る。価値をコントロールし、需要を最大化するんだ'
「そ、そんな……! じゃあ、いつになったら手に入るんだ! 教えてくれ!」
「さあな。だが、そう遠くはない」俺はわざとらしく間を置き、続けた。「準備ができたら、宿屋の『木陰亭』で知らせる。それまで待て」
俺がそう言うと、男たちは不満と焦燥に顔を歪ませながらも、それ以上は食い下がってこなかった。この町で宿屋は情報交換の唯一の拠点だ。そこで告知するというのなら、待つしかないと判断したのだろう。彼らは何度も魚の山と俺の顔を振り返りながら、散り散りになっていった。
俺は呆然と魚の山を見つめる老人に向き直った。
「爺さん。約束通り、少し分けてもらうぞ」
「おお、もちろんだとも! 好きなだけ持っていってくれ! あんたは命の恩人様だ!」
俺は魚籠の中から特に大きく、身の厚い魚を五、六匹選び、近くに生えていた丈夫な蔓で鰓をまとめる。ずしりとした重みが腕にかかる。これはいい収入源になりそうだ。
魚を手に立ち去ろうとする俺の背中に、老人の震える声がかかった。
「なあ、あんた。一つだけ……一つだけ教えてくれんか」
「なんだ?」
「こんなに釣れるなら、わしのこの竿じゃあ、すぐにへし折られちまう。針が良くても、竿が折れ、糸が切れちまうんだ。……あんたなら、そういうのも何とかできるのか?」
その言葉に、俺は思わず口元が緩むのを抑えられなかった。
'需要は、次の需要を生む。連鎖していくんだ'
「ああ。考えておく」
それだけ言い残し、俺は確かな手応えと共に『木陰亭』へと向かった。
* * *
「なっ……お、おい、ナオキ! なんだその化け物みてえな魚は!?」
宿屋に戻ると、カウンターを磨いていた布が手から滑り落ちるのも構わず、バルガスが素っ頓狂な声を上げた。
「どうだ。銀貨一枚の投資の成果だ」
俺が魚の束をカウンターにどさりと置くと、生臭い匂いがふわりと広がった。バルガスは目を丸くしたまま近づき、指で魚の鱗を恐る恐るつついた。
「おいおい、冗談だろ……? これ、全部あの川で釣ったのか? しかも、この大きさ……俺がガキの頃でも、こんなのは滅多にお目にかかれなかったぞ」
「ああ。俺の『道具』があれば、このくらいは朝飯前だ」
「……すげえ。本当にやりやがったのか、相棒!」
バルガスは興奮した様子で俺の肩をバンバンと力任せに叩いた。その衝撃でよろめきそうになる。
「わかった、すぐに捌いてやる! こいつは祭りだ! 今夜は魚祭りにしようぜ!」
バルガスは子供のようにはしゃぎながら、巨大な魚の束を軽々と担いで厨房へ消えていった。すぐに、包丁がまな板を叩く小気味よい音と、じゅうじゅうと何かが焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
しばらくして、テーブルに並べられたのは、黄金色の焼き色がついたシンプルな塩焼きと、野菜と一緒に煮込んだ乳白色のスープだった。
「うっめえええ……!」
骨から身をほぐし、熱々のそれを頬張ったバルガスが、椅子から転げ落ちんばかりの勢いで叫んだ。「なんだこりゃ! ただ焼いただけだろ!? なのに、なんでこんなに味が濃いんだ!」
「ああ、うまいな」
俺も一口食べる。新鮮な白身魚の淡白ながらも深い旨味と、俺が提供した『極上の塩』のまろやかな塩味が、口の中で絶妙に絡み合う。この世界に来てから、一番まともな食事かもしれなかった。
食事をしながら、俺はバルガスに川辺での出来事を話した。漁師たちが釣り針を欲しがっていること、そして、竿や網といった新たな道具の需要が生まれていることも。
「なるほどな……。漁師どもが儲かれば、懐が温かくなって、この宿で一杯やるようになる。回り回って俺たちの宿も潤う。そういうことか」
バルガスは感心したように頷く。
「その通りだ。だから、これはお前への利益でもある」
俺はそう言って、カウンターに置いていた残りの魚を半分、彼の方へ押しやった。
「これは、投資してくれたあんたの取り分だ。売るなり、家族で食うなり、好きにしてくれ」
バルガスは、俺と魚の山を交互に見て、やがて腹の底から豪快に笑った。
「ははっ! そういうとこだよ、お前は! 律儀な野郎だな!」彼は力強く俺の背中を叩いた。「ただの儲け話じゃなく、ちゃんと『相棒』として見てくれてるってことだろ。わかった、その気持ち、ありがたく貰っとくぜ!」
その時だった。宿屋の扉が勢いよく開き、数人の男たちがなだれ込んできた。全員、魚の匂いを嗅ぎつけた獣のような目で、俺たちのテーブルの上の料理を凝視している。
「バルガス! 魚があるって本当か!」
「ああ、見ての通りだ。だが、残念ながらこれは……」
「いくらだ!? 頼む、鉄貨1枚で一切れ食わせてくれ!」
男の必死な言葉に、バルガスの顔が曇る。
「悪いが、そいつは無理な相談だ。この魚は貴重品で鉄貨1枚では売れないな……」
'奇跡の粉'の時と同じ光景。目の前にご馳走があっても、それを買う金がない。町全体の貧困という根本的な問題は、まだ何一つ解決していなかった。
人々が落胆し、諦めの溜息をついて帰ろうとした、その時。
群衆の中から一人の男が、俺の前に進み出た。彼は漁師ではない。そのごつごつした手には、刃こぼれのひどい斧が握られていた。
「なあ、あんたが、すげえ道具を配ってるっていう旅の人かい?」
「……だとしたら、なんだ?」
男はごくりと喉を鳴らし、俺をまっすぐに見つめた。彼の目は希望と絶望の狭間で揺れている。彼は震える手で、持っていた斧を俺の前に差し出した。見れば、刃は大きく欠け、木の柄はひび割れている。もはや木を切る道具ではなく、ただの重い鉄の塊だ。
「俺は木こりだ。森で木を切って、その日暮らしの銭を稼いでる。だが、こいつじゃもう……もう、仕事にならねえんだ。漁師の爺さんだけじゃねえ。俺にも……頼む! 俺にも、明日を生きるための『道具』を売ってくれ!」
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