第8話 涸れ谷の漁師と、忘れられた資源
第8話 涸れ谷の漁師と、忘れられた資源
静かに拳を握りしめた俺は、すぐに部屋を出て階段を下りた。
熱狂が嘘のように静まり返った食堂のカウンターに、バルガスが突っ伏している。その巨大な背中が、今はやけに小さく見えた。
「おい、バルガス」
俺が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。その目は虚ろで、昨日の輝きはどこにもない。
「……ナオキか。すまねえな、大口を叩いたくせに、このザマだ」
「失敗じゃない。データが取れただけだ」
「データ、だと?なんだ!それは?」
バルガスが怪訝な顔をする。俺はカウンターに残された売れ残りの粉の小袋を一つ、指でつまんだ。
「ああ。この粉の味は本物だ。需要もある。それは証明された。だが、鉄貨五枚では高すぎる。それもわかった」
「それが失敗って言うんじゃねえか。結局、一枚も売れなかったんだからよ」
「違う」
俺はきっぱりと首を振った。
「問題はこの粉の値段じゃない。この町の人々の、財布の中身だ」
バルガスの目が、わずかに俺の言葉を追う。
「どういうことだ?」
「売るだけじゃダメなんだ。商品を供給するだけじゃ、何も変わらない。俺たちがやるべきことは、この粉を売ることじゃない。この町全体を豊かにすることだ」
「……町を、豊かにする?」
バルガスが、オウム返しに呟く。その声には、まだ現実味がないという響きがあった。
「そうだ。あの修理工の爺さんを思い出せ。俺が売ったノミで仕事が捗って、孫の薬代を稼げた。あれと同じことを、この町全体でやるんだ」
俺はカウンターに身を乗り出し、バルガスの目をまっすぐに見た。
「この町の人々が、何で生計を立てて、何に困っているのか。それをまず知る。そして、彼らの生産性を上げるための『道具』を俺が供給する。そうすりゃ、みんなの稼ぎが増える。懐が温かくなる」
「……稼ぎが増えれば……」
「ああ。鉄貨五枚の粉が、安いもんだと思えるようになる。俺たちの『奇跡の粉』は、その時初めて本当の価値を持つ。これは遠回りじゃない。一番の近道だ」
俺の言葉に、バルガスの虚ろだった瞳に、再び思考の光が灯り始めた。彼はしばらく黙り込んでいたが、やがて、がしがしと自分の頭を掻いた。
「……ははっ。ははははっ!」
突然、バルガスは腹の底から豪快に笑い出した。
「とんでもねえな、お前! 俺はただ、美味い飯を食わせてやりてえってだけだったのに……お前は、この町全部を立て直そうってのか!」
「相棒なんだろ? やるならデカい方が面白い」
「……違えねえ!」
バルガスは力強く拳をカウンターに叩きつけた。その目には、先ほどまでの落胆の色はもうない。燃えるような闘志が宿っていた。
「わかった! 乗ってやるぜ、そのとんでもねえ話に! で、まず何から始めるんだ、相棒!」
「情報収集だ。俺はこの町のことを何も知らない。まずは、自分の足で歩いて、この目で見て回る」
俺の言葉に、バルガスはニヤリと笑うと、カウンターの裏から一枚の羊皮紙と炭を取り出した。
「だったら、俺がこの町の地図を描いてやる。どこに何があるか、誰がどんな仕事をしてるか、知ってる限り教えてやるよ」
バルガスが地図を書き上げるのを待つ間、俺は懐の鉄貨を一枚、指で弄んでいた。これが10円。銅貨なら100円。この世界の通貨を、どうやってマリエクは認識しているんだろうか。不思議なことだらけだ。
'まあ、今は考えても仕方ないか'
俺は思考を切り替えた。
「ほらよ、できたぜ相棒!」
バルガスの声に我に返る。目の前には、簡素だが要点の押さえられた地図が広がっていた。
「助かる、バルガス。行ってくる」
俺は地図を受け取ると、宿を出た。
* * *
バルガスが描いてくれた大雑把な地図を頼りに、俺は宿場町の外れへと足を運んだ。目的地は、町を囲むように流れている川だ。
'林業、農業、狩猟……そして漁業。まずは、一番わかりやすいところからだ'
川に近づくとせせらぎが聞こえ、水は驚くほど澄んでいた。川底の石まではっきりと見える。
その川辺に、腰を曲げた一人の老人が、じっと水面を見つめていた。手には、粗末な釣竿らしきものを持っている。
「……釣れますかい」
俺が声をかけると、老人はゆっくりとこちらを振り返った。深い皺の刻まれた顔だ。
「……ああ、あんたは旅の人か。まあ、見ての通りさ。腹の足しにでもなればと、粘ってはいるんじゃがな」
老人はそう言って、傍らに置かれた魚籠を顎でしゃくった。中には、手のひらサイズの小魚が二、三匹、力なく横たわっているだけだった。
「昔はもっと獲れたもんじゃよ。この川は豊かでな。腕のいい漁師なら、これの十倍は軽く獲れたもんじゃ」
「今は、そうもいかないと?」
「ああ。魚が減ったのもあるが……道具がな」
老人はため息をつき、手の中の釣竿を見せた。それは、しなりのないただの木の枝だ。蔓のようなもので作られた釣り糸の先には、歪な形をした釣り針が結ばれている。
「見せていただけますか」
俺が言うと、老人は無言で釣り針を差し出した。
それは、釘を無理やり曲げたか、あるいは動物の骨でも削ったものだろうか。針先は鈍く、魚がかかってもすぐに口から外れてしまいそうだ。
'これは……ひどいな'
修理工のノミを見た時と同じ、あるいはそれ以上の衝撃があった。
「昔は町に腕のいい鍛冶屋がいてな。そいつが打つ釣り針は、軽くて丈夫で、魚が面白いように釣れたもんじゃ。……だが、そいつももうおらん。今じゃ、こんなガラクタでやるしかないんじゃよ。大物がかかっても、すぐに針が伸びて逃げられちまう」
老人の言葉が、俺の確信を裏付ける。
やはりだ。この町に足りないのは食料や金じゃない。日々の生産性を支える、まともな『道具』そのものだ。俺のスキルなら……この問題を根底から解決できる。
* * *
「魚を捕る以外に、この町には何かなかったんですかい?」
俺は、さらに情報を引き出すために尋ねた。
「魚のほかに、か……」
老人は遠い目をして、川の流れを見つめた。
「ああ、そうじゃな。わしがまだ若かった頃は、この町にも腕のいい陶器職人がおったんじゃよ」
「陶器、ですか」
「うむ。この川の土は粘りが良くてな。そいつが焼く壺や皿は、それは見事なもんで、王都の商人まで買い付けに来るほどじゃった」
その言葉に、俺は思わず川底に目をやった。
澄んだ水の下、滑らかな泥が堆積しているのが見える。
「だが、いつからかのう……質の良い土が、ぱったりと採れなくなってしまってな。職人たちも、良い土を求めて、みんな町を出て行ってしもうた」
老人は寂しそうに呟いた。
俺は、その言葉に引っかかりを覚えた。
'質の良い土が採れなくなった?'
目の前の川底には、素人目にも大量の粘土が広がっている。
俺は川辺に膝をつき、水の中に手を入れた。ひんやりとした水が心地よい。指先に、ねっとりとした粘土の感触が伝わる。
俺はその一塊を掴むと、立ち上がった。
'この粘土……'
俺はそれを太陽にかざしてみる。不純物が少なく、きめ細かい純白の粘土。現代日本で少しだけかじった陶芸の知識を思い出す。高価な陶石の粉に、質感が似ている気がした。
'質の良い土が採れなくなった、と老人は言っていた。だが、目の前にはこれだけの粘土がある。職人たちがいた頃は、もっと扱いやすい場所から採っていたのかもしれない。そして、そこが枯渇した後は、この川底の泥には誰も見向きもしなかった……?'
もしそうなら、この川底に眠っているのは、ただの泥じゃない。忘れられた「資源」「宝の山」の可能性がある。
'確証はない。だが……'
漁業用の釣り針。農業用の鍬。そして、陶器産業の復活。
点と点が、線で結ばれていく。
俺は、川底に広がる泥の山を見つめた。
死にかけた町を救う希望。そして、俺にとっての……巨大なビジネスチャンスになるかもしれない、未知の可能性。
俺は、口の端が自然と吊り上がるのを感じた。
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