第7話 最初の共同事業と、うま味の衝撃
翌朝、俺は眠気の残る頭で軋む階段を下りた。食堂にはすでに主人がいて、カウンターを布で拭いている。その背中に、俺は声をかけた。
「主人」
振り返った主人の熊のような顔に、一瞬緊張が走る。
「昨日の話、乗らせてもらう」
俺の言葉に、彼の目が見開かれ、次の瞬間、顔中に安堵と喜びが広がった。
「本当か! よかった……断られたらどうしようかと思ってたぜ!」
「ただし条件がある。利益は折半。五割だ」
俺がそう言うと、主人は待ってましたとばかりに力強く頷いた。
「おう、もちろん構わねえ! あんたは仕入れと供給、俺は販売と場所の提供だ。対等な共同事業、それでいこう!」
そのあまりに快い返事に、俺は逆に拍子抜けする。
「……あんた、名前は?」
「俺か? 俺はナオキだ。川田直樹」
「ナオキか! 俺はバルガスだ。この『木陰亭』の主人をやってる。よろしくな、相棒!」
バルガスはそう言って、丸太のように太い腕を差し出してきた。俺はそのゴツゴツした手を、ためらいがちに、だが強く握り返した。
'相棒、か……'
何年ぶりに聞いた言葉だろうか。人間不信の俺には、くすぐったすぎる響きだ。
「それで、具体的にどう売るんだ?」
「ああ、まずは味見だ。この宿のカウンターの一角に売り場を作って、町の人間にこの味を知ってもらうのさ」
バルガスの目は、すでに成功した未来を見ているかのように輝いていた。だが、俺の頭はもっと冷静だった。
'塩だけじゃ、インパクトが弱いかもしれないな……'
確かに、この世界の塩の質は低い。だが、それだけで「人生が変わる」ほどの衝撃を与えられるだろうか。もっと、こう……脳に直接突き刺さるような、圧倒的な「うま味」が必要だ。
「バルガス、一つ頼みがある。ただの塩じゃインパクトが弱い。特別な『粉』を仕入れるための元手として、銅貨を4枚、前金で貸してくれないか。もちろん、すぐに返す」
「銅貨4枚か! いいぜ、任せとけ! 成功すりゃあ、すぐに元が取れるからな!」
バルガスは気前よく銅貨を4枚、俺の手に握らせた。これでマリエクの残高は400円になる。俺は一度部屋に戻ると、すぐにスキルを起動した。
'確かあったはずだ。効果絶大な魔法の粉が……'
検索窓に打ち込む。
'鶏ガラスープの素'
【鶏ガラスープの素 100g:400円】
'……これだ!この鶏マークの赤いやつ!'
俺は迷わず購入した。懐の中に、ぽん、と軽い袋が現れる。俺はそれを、昨日手に入れた塩の袋に少しずつ混ぜていった。ただの塩じゃない。現代科学が生み出した、うま味の結晶だ。
* * *
その日の昼過ぎには、宿屋のカウンターの一角に、粗末ながらも売り場が完成した。
小さな木のテーブルの上に、俺が調合した「特製の粉」が入った小袋が積まれている。その横には、バルガスが墨で書いた『奇跡の粉! 飲めば人生が変わるぞ!』という看板。
「さて、どうなるかね」
「まあ見てろって。すぐに人が集まる」
バルガスの予言通り、物珍しそうに覗き込む人々が一人、また一人と集まり始めた。
彼は待ってましたとばかりに、俺が渡した粉をひとつまみ入れただけのシンプルなスープを振る舞い始める。
「さあさあ、飲んでみてくれ! ただの湯がご馳走になる瞬間だ!」
最初にスープを口にしたのは、日雇い仕事の帰りらしい痩せた男だった。彼は一口飲むと、ピタリと動きを止め、目をカッと見開いた。
「な……なんだこりゃあ! ただの塩味じゃねえ! 何か……とんでもなく深い味がするぞ!」
その驚きの声が、最高の宣伝文句になった。
噂は、火が付いたように瞬く間に町中に広まっていく。
「木陰亭で、どんな料理もご馳走に変える魔法の粉を売ってるらしい!」
「飲んだだけで腹が満たされるそうだ!」
尾ひれがついた噂を聞きつけて、人々が次から次へと宿屋に押し寄せてきた。あっという間に、カウンターの前には黒山の人だかりができ、店の外にまで行列が伸びるほどの大盛況だ。
「うめえ……!」「なんだこの複雑な味は! 毎日これを飲めたら、他に何もいらねえや……」
味見用のスープを飲んだ人々から、感嘆と溜息が漏れる。誰もがその顔に、今まで見たこともないような幸福な表情を浮かべていた。
「どうだ、ナオキ! 俺の言った通りだろ!」
バルガスが、興奮した様子で俺の肩をバンと叩く。
「ああ……これはいけるな」
俺も、目の前の熱狂的な光景に、思わず口元が緩むのを止められなかった。需要はある。この味を知れば、誰もが欲しがる。俺たちの計画は、完璧に成功するはずだった。
* * *
行列の先頭にいた老婆が、興奮冷めやらぬ様子でバルガスに尋ねた。
「それで、この魔法の粉はいくらなんだい?」
俺は内心で素早く計算する。鶏ガラスープの素と塩、合わせて原価は銅貨5枚。これを小さな袋にいくつも分けたから、原価だけでも1袋あたり鉄貨1.5枚以上はかかっている。利益を乗せれば、鉄貨4枚が妥当なラインか。
俺が口を開くより先に、バルガスが胸を張って答えた。
「へへ、気に入っただろ? この小袋一つで……鉄貨5枚だ!」
バルガスが自信満々に値段を告げた瞬間、さっきまでの熱狂が、ピタリと凍りついた。
食堂に、水を打ったような静寂が落ちる。
「……てっか、ごまい?」
老婆の声が、信じられないといった響きでかすかに震えた。
「冗談きついぜ、バルガス……。鉄貨5枚だあ? それだけありゃあ、一家の二日分の食費になるぜ」
誰かがそう呟くと、人々は夢から覚めたように現実に引き戻された。
あれほど絶賛していた粉の小袋を、まるで手の届かない宝石でも見るかのような目で見始める。
「美味いのは認めるが、そんな贅沢品、俺たちに買えるわけがねえ」
「ああ、貴族様の食いもんだったってわけか。いい夢見させてもらったよ……」
人々は一人、また一人と、深い溜息をつきながら去っていく。あれほど長く伸びていた行列は、嘘のように消え去った。
カウンターには、山と積まれた粉の小袋と、俺たち二人だけが取り残される。
売れたのは、一つもなかった。
「……はは。そうか……そうだよな」
バルガスが、力なく笑った。
「美味いもんを食えば、みんな笑顔になる。そうすりゃ、この町も少しは活気づくって……俺は、夢を見すぎていたのかもしれねえな」
その大きな背中が、みるみるうちに小さくなっていく。期待が大きかった分、その落胆は計り知れないほど深いのだろう。俺は、かける言葉を見つけられなかった。
* * *
バルガスが肩を落として店の奥へ消えていくのを横目に、俺は一人、カウンターに残された粉の山を眺めていた。
'計画は間違っていなかったはずだ'
味はいい。需要もある。だが、致命的な一点を見落としていた。
この町の人々には、それを買う「金」がない。
問題は粉の値段じゃない。この町全体の、どうしようもない貧しさそのものだ。
'売るだけじゃダメなんだ。商品を供給するだけじゃ、何も変わらない'
俺は思考を切り替える。
彼らが鉄貨五枚を「高い」と感じなくなるくらい、豊かになればいい。
つまり、俺がやるべきことは、この粉を売ることじゃない。
'需要を……購買力を、俺が創り出すんだ'
その考えに至った瞬間、目の前が拓けるような感覚があった。
だが、すぐに新たな疑問が湧き上がる。
'どうやって?'
修理工の老人のように、高性能な道具を提供すれば、生産性は上がるだろう。
だが、この町の主要産業は何だ?
森が近いから林業か、狩猟か? 畑仕事をしている人間もいたから農業か? それとも、川があるなら漁業か?
'……俺は、この町のことを何も知らない'
ただ森を抜け、偶然たどり着いた寂れた宿場町。その程度の認識しかない。
闇雲に道具を仕入れても、需要がなければ意味がない。また同じ失敗を繰り返すだけだ。
俺は踵を返し、自分の部屋へと戻ると、すぐに『マリエク』を起動する。
仮説を検証するために、半透明のウィンドウにある言葉を打ち込んでみた。
'釣り針'
【検索結果:高強度カーボン製釣り針 10本セット 1000円】
'……銀貨一枚か。高いな'
安いどころか、銀貨一枚、日本円で千円。これはもう、この町では立派な「資本」だ。
これを仕入れるにしても元手が必要だし、そもそも漁師がいなければただの鉄くずに終わる。
俺は立て続けに検索を続けた。
'作物の種'
'丈夫な裁縫針'
次々と表示される、安価で高性能な品々。だが、どれもこれも元手が必要なものばかりだ。そして何より、それらを本当に必要としている人間が、この町にどれだけいるのかがわからない。
'そうか……俺がやるべきことは、まず……'
マリエクを操作することじゃない。
この町を知ることだ。
人々が何をして生計を立て、何に困り、何を必要としているのか。自分の足で歩き、自分の目で見て、確かめる。
粉を売るという小さな商売じゃない。
この死にかけた町の経済そのものを立て直し、豊かにする。
'そのためには、まず情報収集だ'
途方もなく大きな挑戦の、最初の一歩がようやく見えた。俺は、静かに拳を握りしめた。
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