第6話 温かいスープと心の天秤
木の器から立ち上る湯気が、鼻先をくすぐる。鶏ガラだろうか、優しい出汁の香りに、思わず腹が鳴った。俺が握りしめる器の中で、黄金色の温かいスープが揺れている。
食堂に響く子供たちのはしゃいだ声。それを満足げに見守る主人と、忙しなく立ち働く妻の姿。そのすべてが、俺が必死に築いてきた心の壁を、静かに、だが確実に溶かしていくようだった。
「……うまいな、このスープ」
沈黙を破ったのは、主人だった。熊のような顔に、深い満足の色が浮かんでいる。
「そうだろ、父ちゃん! 今までで一番おいしいよ!」
「もっとおかわり!」
子供たちが空になった器を差し出す。その屈託のない光景が、やけに眩しく見えた。
主人は妻に目配せして子供たちのおかわりを促すと、再び俺に向き直った。その目は、先ほどまでの値踏みするような光とは違う、真剣な色を帯びていた。
「おい、あんた」
不意に、真剣な声で呼ばれ、俺はスープから顔を上げた。
「あんたが持ってきたこの塩だが……今回きりか? それとも、まだ手に入るアテがあるのか?」
「……さあ、どうでしょうね」
俺が肩をすくめてはぐらかすと、主人はぐっと身を乗り出してきた。
「頼む。もしアテがあるなら、俺と組んで商売しないか? この塩を、うちの店で扱わせてほしいんだ」
'……来たか'
俺は内心で身構え、すぐさま思考を切り替える。ビジネスの話だ。感傷は不要。これは交渉だ。
「面白いご提案ですが、俺に何のメリットが?」
冷静さを装い、努めてビジネスライクな口調で返す。
主人は俺の態度を意に介さず、指を一本立てた。
「まず、あんたの寝床と食事は、俺が保証する。この宿にいる限り、金は取らねえ」
「……ほう」
「それから、塩の売上だ。売値からあんたの仕入れ値を引いた純利益の三割を、あんたに渡す。どうだ?」
破格の条件だった。何もしなくても、安全な寝床と食事が保証され、さらに利益まで入ってくる。この寂れた町で、これ以上の好条件はないだろう。
だが、うますぎる話には裏がある。それが、俺が元の世界で骨の髄まで叩き込まれた教訓だ。
「利益が三割……ですか。ずいぶんと太っ腹ですね」
「不満か? なら四割だ。いや、五割でもいい!」
「……は?」
予想外の返答に、俺は言葉を失った。主人は前のめりになって続ける。
「この塩がありゃあ、俺の宿の飯目当てに、わざわざこの町に立ち寄る旅人も出てくるかもしれねえ! そうすりゃ、この寂れた町も少しは活気が戻る! これは、ただの塩の取引じゃねえ。この町への投資でもあるんだ!」
熱っぽく語る主人を、俺は少し呆れたような目で見ていた。
'お人好しなのか、それとも俺をいいように使おうって腹か…'
疑念が渦巻く中、警戒心がつい言葉になってしまった。
「ありがたい話ですが……そんなに簡単に信用していいんですか? 俺みたいな、どこから来たかもわからない男を。もし俺が塩を持ってこなくなったら、どうするつもりで?」
矢継ぎ早に問いかける俺に、主人は意外にも、がははと豪快に笑ってみせた。
* * *
「心配性だな、あんたは! 確かに、あんたがどこの誰だか、俺は知らねえ。明日には消えちまうかもしれん」
主人はそう言うと、カウンターに肘をつき、俺の目をじっと見据えた。
「だがな、俺は自分の勘を信じてる。それに……このガキどもの顔を見ろよ。あんなに美味そうに飯を食ってる。この顔を見ちまったら、賭けてみる価値はあると思わねえか?」
彼の視線の先では、子供たちが夢中でスープのおかわりを頬張っている。
「それに、あんたはただの商人じゃないだろ」
「……っ」
核心を突かれ、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
俺が言葉に詰まっていると、主人はニヤリと笑う。
「あの修理工のじいさんの話、聞いたぜ。あんたが『逸品』のノミを売ったそうじゃねえか。おかげで孫の薬が買えたって、泣いて喜んでたぞ」
「……偶然だ。俺はただ、商品を売っただけだ」
「へっ。偶然ねえ。じゃあ、この塩はどうだ? 金儲けだけが目的なら、もっとやり方があったはずだ。わざわざ手付金なんざ要求して、俺たちの目の前でこんな『極上の塩』を出す必要はなかった。違うか?」
主人の言葉が、俺が築き上げたはずの「ビジネス」という名の鎧を一枚一枚剥がしていく。
「正直に言ってみろ、あんた。この寂れた町で、何を見てる? このガキどもの顔を見て、本当に金のことしか頭になかったのか?」
俺は何も答えられなかった。
子供たちの笑顔。修理工の老人の涙。少女がくれた、一輪の花。
金銭のやり取りでは決して得られない、温かい何かが、確かに俺の心を揺さぶっていた。
「……話は、それだけですか。少し、考えさせてください」
俺はそれだけ言うのがやっとだった。スープの残りを一気に飲み干し、席を立つ。背中に突き刺さる主人の視線を感じながらも、俺は努めてゆっくりと階段を上った。逃げていると思われたくはなかった。
* * *
軋む床を踏みしめ、部屋に戻る。
扉を閉めた瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。壁に寄りかかるのではなく、ベッドにどさりと腰を下ろす。
'あんたは、ただの商人じゃないだろ'
主人の言葉が、頭の中でリピートされる。
'金儲けだけが目的なら、もっとやり方があったはずだ'
否定したいのに、できなかった。修理工の老人の涙、子供たちの笑顔、そして部屋の隅でコップに挿された一輪の白い花。どれも俺の「ビジネス」の計画にはなかったものばかりだ。
'面倒なことになったな……'
俺は頭をガシガシと掻いた。人間不信。誰とも関わらない。それが俺なりの処世術だったはずが、たった数日で揺らいでいる。
スープの温かさが、まだ腹の底に残っている気がした。
ふと、かつての食卓が脳裏をよぎる。妻が作ったシチューを頬張る息子の顔。
「パパ、おいしいね!」
あの笑顔も、こんなふうに輝いていたな、と。
胸に込み上げてきたのは、激しい痛みや後悔ではなかった。
ただ、懐かしさ。そして、温かいものを失ったという、静かな喪失感。
'……ああ、そうか。俺は、もう一度傷つくのが怖くて、思い出に蓋をしていただけなのかもしれないな'
ため息が一つ、口から漏れた。
涙は出なかった。だが、凍りついていたはずの心が、じわりと熱を持ち始めるのを感じる。それは不快でありながら、どこか心地よくもある、奇妙な感覚だった。
俺はベッドからゆっくりと体を起こした。
天井の染みをぼんやりと眺める。
主人の申し出。寝床と食事の保証、そして利益の分配。破格の条件だ。
だが、それを受け入れるということは、この町と、この町の人々と、深く関わることを意味する。
'また裏切られたら? またすべてを失ったら?'
過去の痛みが、冷たい鎖のように心に絡みつく。もう誰も信じない。そう誓ったはずだ。
だが、このまま誰も信じずに一人で生きていくのも……。
視線を部屋の隅のコップに向ける。一輪の白い花が、静かにこちらを見ていた。
'……よし'
決意は、驚くほど静かに固まった。
'この町で、もう一度だけ……賭けてみるか'
この温かいスープの味と、あの子供たちの笑顔を。
俺は目を閉じた。
明日、主人に伝えよう。この話、受けると。
久しぶりに、獣の気配に怯えることなく眠れる夜だ。この世界に来て初めて、明日が来るのが少しだけ待ち遠しいと思った。
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