第5話 一輪の花と塩の味
宿の部屋に戻っても、俺はまだ手のひらに残る微かな感触を引きずっていた。
少女がくれた、一輪の白い花。
もう萎れかけているそれを、ゴミ箱に放り込むことができなかった。
'馬鹿なことを……'
こんなもの、持っていても腹の足しにもならない。ビジネスの邪魔になるだけだ。
そう頭では分かっているのに、少女の「ありがとう」という声と、屈託のない笑顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
俺はため息と共に、部屋の隅にあった汚れた木製のコップを手に取った。水差しからなみなみと水を注ぎ、その中にそっと花を挿す。
白い花びらが、濁った水の中で力なく揺れた。
'俺は、何をやっているんだ'
壁に立てかけたコップを眺めながら、自分に問いかける。
人間は信じない。誰とも関わらない。そう決めたはずなのに。
この胸に広がる、温かいような、それでいて落ち着かない感情はなんだ。それは、かつて失ったものを思い出させる、危険な感覚だった。
'感傷に浸るな。これはビジネスだ'
俺は壁を拳で軽く叩き、無理やり思考を切り替える。
このままではいけない。感情に流されれば、また同じ過ちを繰り返す。裏切られ、利用され、すべてを失う。
非情に徹しろ。利益だけを追求しろ。それだけが、俺がこの世界で生き抜くための唯一の道だ。
俺はベッドに腰を下ろし、『マリエク』に意識を集中させた。
次の商材は決まっている。生活必需品だ。
あの修理工の老人を見て確信した。この町には、まともな道具だけでなく、日々の生活を豊かにする物資が圧倒的に不足している。
'そうだ……塩だ'
料理の基本。だが、この寂れた町では貴重品に違いない。
俺はマリエクで『塩』を検索する。
【食卓塩 200g:100円】
手頃な値段だ。だが、致命的な問題があった。
【残高:40円】
'……金が、足りない'
昨日のパンと水、そして実験で使ったスナック菓子で、残高は底をつきかけていた。
まずは元手を作らなければ。
俺は立ち上がり、宿の主人がいる一階のカウンターへと向かった。
* * *
「主人。ちょっと面白いもんがあるんだが、興味ないか?」
カウンターで帳簿らしきものをつけていた主人は、俺の声に顔を上げた。
「……またガラクタか?」
熊のような巨漢の主人は、あからさまに面倒くさそうな顔をしている。
「いや、食いもんだ。保存もきく」
俺は懐から、昼間に中庭で回収しておいた『うみゃい棒』を取り出した。主人は訝しげにそれを受け取ると、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。コーンポタージュの香ばしい匂いが、彼の眉をわずかに動かす。
「……変なもんじゃねえだろうな」
「毒見なら俺がしてやってもいいが、それなら倍額もらうぞ」
俺のふてぶてしい態度に、主人はフンと鼻を鳴らした。
「ふざけやがって。……鉄貨十枚は高い。五枚だ。それが嫌なら話は終わりだ」
「……足元見やがって」
俺は悪態をつきながらも、差し出された鉄貨五枚を受け取った。懐に入れると同時に、マリエクの残高が更新される。
【残高:40円 → 90円】
'よし……! あと十円……!'
まだ足りない。俺は内心で舌打ちし、この無愛想な主人からさらに金を引き出すための策を練る。
「で、話はそれだけか?」
「いや、ここからが本番だ」
俺はカウンターに身を乗り出した。
「この町じゃ、まともな塩は手に入らないだろ?」
主人の目が、スッと細められた。
「……それがどうした」
「俺が『極上の塩』を調達できる。どうだ、あんたの店の食事の質が格段に上がるぞ」
「ほう。で、その極上の塩とやらはどこにある。見せてみろ」
「まだ無い。取り寄せるのに、わずかだが手付金がいる」
「手付金だと? ふざけるな、詐欺師め」
主人の声に険が混じる。だが、ここで引くわけにはいかない。
「鉄貨一枚。たった一枚でいい。それをくれれば、あんたに『本物の味』を見せてやる。もし味が気に入らなきゃ、さっきの菓子の代金、鉄貨五枚はそっくり返してやる。どうだ?」
俺は全財産を賭けた。主人は腕を組み、疑わしげに俺を睨みつける。その時だった。
* * *
「あなた、お客さん?」
カウンターの奥から、痩せた女性が顔を出した。主人の妻だろうか。その手には、子供用の小さな木の器が二つ握られている。彼女の後ろから、小さな子供が二人、ひょっこりと顔をのぞかせた。
「ああ。……食事の時間か」
主人がぶっきらぼうに答える。
妻は無言で頷くと、テーブルに器を並べ始めた。中身は、野菜の切れ端が申し訳程度に浮いているだけの、色の薄いスープ。そして、石のように硬そうな黒パンが一切れ。
子供たちは無表情で席に着き、その味気ないスープをスプーンでかき混ぜている。
その光景に、俺は息を呑んだ。
失った食卓の光景が、目の前の親子に重なる。
'……違う。関係ない'
胸の奥が、ズキリと痛む。
必死に首を振り、目の前の現実に意識を戻す。俺はビジネスをしに来たんだ。
主人が、味気ないスープと俺の顔を交互に見て、やがて腹を括ったように息を吐いた。
「……ちっ。わかったよ。鉄貨一枚だ。だが、もしインチキだったら、お前の骨も残らねえと思え」
主人はカウンターに、一枚の鉄貨を叩きつけるように置いた。
俺はそれを拾い上げ、懐に入れる。
【残高:90円 → 100円】
'……やった!'
俺は主人に背を向け、懐を探るふりをしながらマリエクを操作した。
【食卓塩 200g:100円】
【購入しますか? YES】
【残高:100円 → 0円】
ポン、という軽い音と共に、懐の中にずしりとした重みが生まれる。
俺は振り返り、お馴染みの赤色文字で書かれたビニール袋に入った、真っ白な塩をカウンターに置いた。
「ほらよ。約束の『極上の塩』だ」
「……これが。随分と量があるじゃねえか。味見用じゃなかったのか」
「ああ、味見用だ。存分に試すがいい。先行投資だよ。この町の人間がまともな塩の味を知れば、高くても売れる。その最初の客にあんたを選んでやったんだ」
ビジネスライクな口調で、心の動揺を隠す。これは商売だ、と自分に言い聞かせながら。
主人はしばらく俺を睨んでいたが、やがてニヤリと口の端を上げた。
「面白い。その話、乗った」
主人が妻に目配せすると、彼女は恐る恐る塩の袋を受け取り、厨房へと消えていった。
しばらくして、先ほどとは比べ物にならないほど豊かな香りが漂ってくる。
食卓に戻されたスープを、子供たちが一口飲む。
次の瞬間、今まで無表情だった顔が、ぱあっと輝いた。
「おいしい!」
その弾けるような声が、薄暗い食堂に響く。
その光景から、俺は目を逸らすことができなかった。
不意に、目の前に木の器が差し出される。主人が、無言で俺の分のスープをよそってくれたのだ。
俺は黙ってそれを受け取り、一口、口に運んだ。
口の中に、まともな塩味がじんわりと広がる。
ただの野菜クズのスープが、信じられないほど深く、温かい味に感じられた。
そして、その味と共に、胸の奥から再び、あの拒絶したいはずの温かい感情が込み上げてくる。
'馬鹿な……俺は、一体、何をやっているんだ……'
自己嫌悪と、否定しきれない微かな満足感。
これは明日からの儲けのための先行投資だ、と必死に理屈を組み立てる心が、目の前の家族の笑顔と、温かいスープの味によって、静かに侵食されていく。
俺はただ、その矛盾した感情の渦の中で、温かいスープの器を握りしめることしかできなかった。
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