第4話 予期せぬ感謝と心の揺らぎ
・2026/04/08 内容修正しました
第4話 予期せぬ感謝と心の揺らぎ
夜の帳が下り、安宿の一室が冷たい薄闇に沈んでいく。俺は軋むベッドに腰掛けたまま、木枠の窓から見える、活気のない町並みをぼんやりと眺めていた。
昼間の取引は、完璧な成功だった。
修理工の老人から受け取った銅貨は四枚。俺のスキル『マリエク』によれば、それは日本円で四百円の価値を持つ。そこから仕入れ値であるノミの価格、百円を差し引く。純利益は三百円。それに加えて、ガラクタ同然とはいえ鉄くず一式も手に入れた。
数字の上では、文句のつけようがない成果だ。
'なのに、どうしてだ……'
胸に広がるのは、達成感ではない。むしろ、得体の知れない空虚さが渦巻いていた。老人の最後の呟きが、耳の奥で不快に反響する。
『あんた、一体何者なんだ……』
何者でもない。ただの、通りすがりの男だ。俺は自分の利益のために行動しただけで、そこに他人の感情が入り込む余地などない。
'少し夜風に当たって散歩でもしよう...'
俺は思考を振り払い、静かに立ち上がった。軋む床板に体重をかけないよう、忍び足で部屋を出る。今夜、確かめなければならないことがある。このスキルが、本当に俺だけの、誰にも汚されない『聖域』であることを。
ひんやりとした夜気が、火照った肌を撫でる。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った町を、俺は足早に宿屋の中庭へと向かった。石畳を蹴る自分の足音だけが、やけに大きく響く。
'これはビジネスだ'
何度も、何度も自分に言い聞かせる。呪文のように、心の中で繰り返す。
あの老人にノミを売ったのは、善意じゃない。金のためだ。
俺のスキルは、誰かを助けるための力じゃない。俺が、誰にも頼らず、誰とも関わらず、このクソみたいな世界で静かに生きていくための力だ。
'そうだ。人助けなんて、まっぴらごめんだ'
期待は裏切りの始まりだ。善意は利用されるための弱さだ。会社で、家庭で、俺が学んだ唯一の真理。もう二度と、あの絶望を味わうわけにはいかない。
だから、非情に徹する。感情を殺す。このスキルだけが、俺を裏切らない唯一の相棒なのだから。
中庭の隅、枯れ木がうら寂しく枝を伸ばすその根元に、目的の物を見つけた。
ビニールに包まれた、見慣れた円筒形のスナック菓子。昼間、マリエクの残高から十円だけを使い、実験のために転送しておいたものだ。
「……あった」
震える手でそれを拾い上げる。
元の世界では見向きもしなかった駄菓子が、今はこの世のどんな宝よりも輝いて見えた。これで、俺の計画は完璧になる。異世界のどこにいようと、通貨さえあれば、俺は飢えることなく生きていける。
* * *
安堵と満足感を胸に、俺は宿屋への帰路についた。
その時だった。
道の向こうから、見覚えのある人影が、小さな影を連れて歩いてくるのが見えた。
'……あのじいさんか'
修理工の老人だ。
その隣には、小さな女の子が手をつないで歩いている。昨日、彼の作業場では見かけなかった顔だ。
ばつの悪い思いがこみ上げ、咄嗟に路地の物陰に隠れようとしたが、間に合わなかった。老人の目が、まっすぐに俺を捉える。
「おお……あんた!」
老人は驚いたように目を見開き、俺の方へ駆け寄ってきた。その皺だらけの顔は、昨日見た疲労と焦りの色ではなく、純粋な喜びに満ちている。
「よかった、また会えるとは……!」
「……どうしたんだ、そんなに慌てて」
努めて冷静に返すが、心臓が嫌な音を立てていた。
「どうしたもこうしたもねえ! あんたのおかげなんだよ!」
老人は興奮した様子で、俺の両肩をがっしりと掴んだ。骨張った指が食い込む。その力強さに、思わずたじろいだ。
「あんたが売ってくれた、あのノミ……ありゃあ、本物の『逸品』だ! おかげで、頼まれていた仕事が嘘みてえに早く終わってな! 孫の薬代を、稼ぐことができたんだ!」
老人は涙ぐみながら、隣に立つ少女の頭を優しく撫でた。
少女は不思議そうな顔で、俺と祖父を交互に見上げている。昨日聞いた「孫の薬代」という言葉が、頭の中で警鐘のように鳴り響いた。
'まさか……偶然だ。俺には関係ない'
「見てくれ! この通り、すっかり元気になった!」
老人が自慢げに言う。
少女は、痩せてはいるが血色の良い顔で、こてんと首を傾げた。その黒曜石のような瞳には、この町の他の住人にはない、子供らしい好奇の光が宿っている。
俺は、意図せず人の命を救ってしまったという事実に、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
'違う……俺はただ、商品を売っただけだ'
'ビジネスだ。これは、ただの取引だったはずだ……!'
必死に自分に言い聞かせる。これは計算外の出来事だ。俺の計画には、こんな要素は含まれていない。だが、目の前の現実が、俺が築き上げたはずの理屈を無慈悲にぐらつかせる。
* * *
「じいじ、このおじちゃんが?」
少女が、老人の擦り切れた服の袖をくいっと引っ張った。
「ああ、そうだ。このお方が、わしらを助けてくれた恩人様だ」
「恩人なんかじゃ……」
俺が何か言う前に、少女は老人から離れ、てくてくと俺の目の前までやってきた。そして、小さな両手でおずおずと何かを差し出す。
「……?」
戸惑う俺に、少女ははにかみながら言った。
「おじちゃん、ありがとう」
その小さな手の中に握られていたのは、道端にでも咲いていたのだろう、一輪の小さな白い花だった。夜露に濡れ、淡く光っているように見える。
少女はそれを、そっと俺の手に握らせた。
「…………」
思考が、完全に停止した。
手のひらに伝わる、か細い茎の感触と、少女の指先の微かな温もり。
金銭のやり取りではない。打算も、計算もない。ただ、純粋で、混じり気のない感謝だけが、そこにあった。
'……なんだ、これ'
今まで築き上げてきた、人間不信という名の分厚い氷の壁に、鋭い杭が打ち込まれたような、鈍い衝撃。パキリ、と微かな亀裂が入る音が、頭の奥で響いた気がした。
* * *
「さあ、行こう。恩人様も、お引き止めしては申し訳ない」
老人は名残惜しそうに何度も頭を下げると、孫娘の手を引いて去っていく。
少女は何度もこちらを振り返り、小さく手を振っていた。
俺は、その場から一歩も動けずに立ち尽くす。
周囲の音が遠のき、世界から切り離されたような感覚に陥った。
'……ビジネスだ'
そう呟こうとしたが、喉が張り付いて声にならなかった。
代わりに、胸の奥から熱い何かが込み上げてくる。
それは、怒りでも、悲しみでもない。元の世界で妻と息子を失い、心を殺したあの日から、一度も感じたことのない、戸惑いを伴う温かい感情だった。
ふと、自分の手の中にあるものに気づく。
少女がくれた、一輪の白い花。
頼りなく、今にも萎れてしまいそうなその小さな花が、鉛のように重く感じられた。
人間は信じない。関わりたくもない。
俺を裏切らないのは、このスキルだけだ。
そう固く誓ったはずなのに。
手渡された一輪の花を、俺は無意識に強く握りしめていた。
花の柔らかな感触が、凍りついた俺の心を乱していく。
俺の「ビジネス」という冷徹な信念が、予期せぬ感謝によって、その根底から静かに、だが確実に揺さぶられていた。
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