第88話 墓標の前で
ライアンが去った扉が、ぎしりと重い音を立てて閉まる。後に残されたのは、気まずい沈黙と、テーブルの上に無造作に転がる数枚の銀貨だけだった。酒場中の視線が、好奇と侮蔑のナイフとなって俺たちのテーブルに突き刺さる。ひそひそと交わされる囁き声が、まるで羽虫のように耳元で不快にざわめいた。
「おい、ナオキ……ライアンの奴、どういうことだよ……?」
ヒルダが、絞り出すような声で俺に尋ねた。彼女の顔には、怒りと戸惑いが色濃く浮かんでいる。
「本当に……仲間を見捨てたっていうの……?」
セーラも信じられないといった表情で、固く閉ざされた扉を見つめている。無理もない。俺たちが知っているライアンは、常に冷静で、分析力に優れ、何よりもパーティー全体のことを考えて行動する男だった。そんな彼が『裏切り者』と呼ばれている。その事実と俺たちの知る姿とのギャップに、誰もが混乱していた。
「やっぱりあいつが『裏切り者のライアン』だったか」
「よくもまあ、のうのうとこの街に顔を出せたもんだ」
俺は周囲の心ない声を無視し、テーブルに残された銀貨を一つ、指で弾いた。カラン、と乾いた音が、やけに大きく酒場に響く。
「……バルク、お前はどう思う?」
俺が静かに尋ねると、壁際に仁王立ちしていたバルクが重々しく口を開いた。
「あの男の目。あれは、嘘をつく者の目ではなかった」
「だよな」
俺は短く応じる。
「ナオキ? あんた、本気でライアンを庇う気?」
ヒルダが、いら立ちを隠せない声で食ってかかる。
「庇うんじゃない。事実を確認するだけだ」
俺は立ち上がり、ライアンを糾弾した冒険者たちのテーブルへと迷いなく向かった。ぎょっとした顔で俺を見る男たち。俺は無言で銀貨を数枚、彼らのテーブルに叩きつけるように置いた。
「話を聞かせてくれないか?ライアンの……あんたたちが言う『事件』について、知っていること全てをだ」
* * *
「なんだと? 俺たちが嘘を言ってるってのか?」
最初にライアンを指さした男が、喧嘩腰で立ち上がった。酒場の空気が一触即発の緊張に包まれる。
「そうは言っていない。ただ、あんたたちが知っていることを、ありのまま聞きたい。これはその情報料だ」
俺はテーブルの銀貨を顎でしゃくった。男たちは顔を見合わせ、やがて一番年長らしき、顔に深い傷跡のある男が渋々口を開いた。
「……まあ、いいだろう。だがな、俺たちも人から聞いた話だ。確証はねえぞ」
「構わん」
男はエールを一口呷り、忌々しげに話し始めた。
「ありゃ、確か三年ほど前の話だ。この街道を通っていたそこそこ大きな商隊が、一夜にして全滅した。積荷も、護衛の死体も、何もかもが綺麗さっぱり消えちまったらしい」
「生き残りが一人だけだった、と」
「ああ。それが、さっきの眼鏡の兄ちゃんだ。奴は襲撃の生き残りらしい」
「生き残り?」
「そうだ。だが、あいつの話じゃ、襲撃者の正体は分からなかったらしい」
「分からなかった?」
俺が眉をひそめると、男は肩を竦めた。
「A級冒険者までいた護衛隊が壊滅したんだぞ? そんな話、誰が信じる」
「それに、生き残ったのはライアン一人だけだ」
別の男が口を挟む。
「敵の姿も分からない、何に襲われたのかも分からない、じゃ話にならねえ」
「だから皆、あいつが何か隠してると思ったんだ」
「……ライアンが仲間を見捨てたと断定する理由は?」
俺が尋ねる。
「そりゃ、あいつだけが生き残ったからだ。仲間が死ぬ気で戦ってる間に逃げたんじゃないかってな」
「無傷だったと、誰が確認した?」
俺が鋭く突っ込むと、男は言葉に詰まった。
「そ、それは……そういう噂だ」
「じゃあ襲撃者の正体は?」
「さあな。腕の立つ山賊って話もあれば、もっとヤバい魔物だったって話もある。結局、誰も真相は知らねえのさ。ただ、『裏切り者のライアン』が一人だけ生き残ったって事実だけが、酒の肴として残ったってわけだ」
男はそう言って、肩をすくめた。
やはり、全ては伝聞と憶測。確たる証拠は何一つない。
それにしては、あまりにも『裏切り者』という不名誉なレッテルだけが、独り歩きしすぎている。
……何かがおかしい。
「……そうか。話はわかった」
俺は席を立ち、仲間たちの元へ戻った。
「どうだった、ナオキ?」
心配そうに見つめるセーラが尋ねる。
「思った通りだ。確かな証拠は何一つ出てこなかった」
俺の言葉に、ヒルダとセーラは顔を見合わせた。
「だとしたら、ライアンは……」
「ああ。何か、裏がある」
「行こう。ライアンから話を聞く。」
俺がそう言うと、ヒルダもセーラも、今度は黙って力強く頷いた。テーブルに置かれたエールには、もう誰も手をつけようとはしなかった。
* * *
酒場を出て、宿場町の通りを歩く。夕闇が迫り、家々の窓から温かな光が漏れ始めていた。
「追えるか?」
俺が尋ねると、ヒルダは小さく頷いた。
「任せろ」
そう言ってライアンが出て行った扉の前にしゃがみ込む。
「匂いはまだ残ってるな」
ヒルダは鼻をひくつかせながら町外れへ視線を向けた。
「こっちだ」
俺は壁に掛けられた案内図へ目を向ける。
「町の外れか……」
指で辿っていくと、一か所だけ心当たりのある場所があった。
「墓地だな」
「墓地?」
セーラが首を傾げる。
「ああ。一人になりたい人間が向かう場所としては自然だ」
俺たちはヒルダの後を追い、町外れへ向かった。
古びた墓石が、夕暮れの物悲しい光の中に静かに佇んでいる。
その一番奥。名前も彫られていない、粗末な木の十字架の前に、見慣れた背中があった。
ライアンだった。
「……ライアン」
ヒルダが小さく呟いた。
いつもの軽口はない。怒りも、疑念も消えていた。
ただ、目の前の背中を見て、どう声をかければいいのか分からない――そんな顔をしていた。
セーラも唇を噛み締めている。
「……あんな顔、初めて見る」
その声は、ひどく小さかった。
俺たちは、物陰から彼の様子を窺った。夕闇に沈むその背中は、俺たちが知る冷静な分析官の姿とは似ても似つかないほど小さく、頼りなく見えた。彼は十字架の前に膝をつき、何かを懺悔するように頭を垂れている。その足元には、道端で摘んだのであろう、一輪の白い野花が供えられていた。
やがて、彼の震える唇から、苦痛に満ちた声が漏れ聞こえてきた。
「……すまない」
それは、心の底からの懺悔の言葉だった。
「すまない……俺が、もっと強ければ……俺に、勇気があれば……!」
彼は墓標に額をこすりつけ、嗚咽を漏らす。その背中は、俺たちが知る彼の姿からは想像もできないほど、深い後悔と癒えない傷を負った、一人の弱い男の姿を物語っていた。
* * *
俺は、彼の慟哭が少し収まるのを待ってから、静かに一歩、足を踏み出した。砂利を踏む音に、ライアンの肩がびくりと跳ねる。
彼は嗚咽を止め、顔を上げた。だが、こちらを振り返ろうとはしない。
気まずい沈黙が、墓地に落ちる。遠くで、夜鳴き鳥の悲しげな声がした。
やがて、ライアンが背を向けたまま、絞り出すような声で言った。
「……お前たちも、俺を裏切り者だと思うか?」
その声は、ひどく震えていた。全てを諦めたような響きの中に、ほんのわずかな、助けを求めるような響きが混じっていた。
俺は即答しなかった。一拍置き、静かに告げる。
「さあな。だが、お前と一緒にいて感じたのは、裏切り者のする行動じゃなかった」
ライアンの背中が、微かに揺れた。
俺は続ける。
「俺は、酒場の噂なんぞ信じない。この目で見たものと、仲間だけを信じる。……だから、確かめに来た。ライアンの口から、真実をな」
俺の言葉が、彼の心の奥に届いたのか。
長い沈黙の後、彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらを振り返った。
その顔は涙と泥で汚れ、目は赤く腫れ上がっている。だが、その瞳の奥には……俺の知る理知的な光とは違う、もっと生々しい、剥き出しの感情が渦巻いていた。
驚き、疑念、そして――長い闇の中に差し込んだ一筋の光を見つけたかのような、かすかな希望。
ライアンは震える唇を開き、拳を強く握り締めた。
「……あの日、俺は――」
そこで言葉が途切れた。
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