第87話 裏切り者のライアン
東の空が、静かに白み始めている。俺たちはその光を背に、打ち捨てられた倉庫から静かに出た。
「行こうか。帝都へ」
俺の短い言葉に、仲間たちは無言で頷く。シルドの街を抜ける道は、ライアンが選んだ。大通りを避け、裏路地を縫うように進む。夜明け前の薄闇が、泥と煤にまみれた俺たちの姿を都合よく隠してくれた。
やがて街を抜け、帝都へと続く街道に出る。あの忌まわしい地下施設での死闘と、淀んだ空気に比べれば、新鮮な朝の空気は肺の隅々まで満たすように心地よかった。
「しかし、帝都ねえ。ただでさえ面倒な場所なのに、とんでもない化け物の巣だったとは」
セーラがこわばった体を伸ばしながら、呆れたように言った。
「ああ。正面から乗り込むのは自殺行為だ。どうやって潜り込むか…」
俺が思案していると、横からヒルダが口を挟む。
「その前に、この泥だらけの姿をどうにかしないとな。これじゃあ、帝都の門をくぐる前に衛兵に捕まるのがオチだ」
「確かに。どこかで体を洗い、服も着替えないとね」
「その点については、問題ありません」
不意に、先頭を歩いていたライアンが振り返らずに言った。
「この先、半日ほど歩いたところに、旅人用の小さな温泉宿がある集落があります。そこで身なりを整え、食料を補給しましょう。帝都へ向かう商隊も立ち寄る場所なので、うまくすれば情報を集められるかもしれません」
ライアンは懐から取り出した地図を広げ、指でルートをなぞりながら淡々と説明する。その手際の良さに、俺は改めて感心させられた。
「この街道は帝都へ向かう主要街道です。大きな宿場町や補給地点は事前に調べてあります」
「調べてあります?」
ヒルダが首を傾げた。
「帝都へ向かうことは予想していましたから。できる範囲で情報は集めていました」
「へえ、大したもんだ」
こいつがいなければ、俺たちは地下施設にたどり着くことすらできなかっただろう。情報収集、分析、作戦立案。そのどれもが、今の俺たちのパーティーには不可欠な能力だ。
「というか、あんたたち、少しは静かに歩けないの? 追手がいないとも限らないのよ」
セーラが呆れたように言う。
「なんだと? お前が一番うるさいじゃないか!」
「なんですって!?」
「まあまあ、二人とも。その辺にしておけ」
俺が割って入ると、二人は不満そうにそっぽを向いた。その背後で、バルクが静かに周囲を警戒している。まるで巨大な守護神のように、彼は常に俺たちの死角をカバーしていた。
'頼もしい仲間たちだ。'
俺は、そんな彼らの背中を見ながら、ふと思う。過去のトラウマから、誰かを心の底から信用することを避けてきた。だが、この数日、こいつらとは何度も死線を共に潜り抜けてきた。
'ん?そういえば、俺がこの世界へ来た当初に比べると随分変わったな......これも仲間達のお陰だな。......ありがとう。'
そんな考えが、不意に頭をよぎったが、すぐに打ち消した。
* * *
ライアンの言った通り、半日ほど歩くと、小さな宿場町が見えてきた。硫黄の匂いが微かに漂い、街道沿いにはいくつかの宿や酒場が軒を連ねている。シルドのような物々しい雰囲気はなく、旅人たちでそれなりに賑わっていた。
「まずは宿を確保しましょう。その後、装備の点検と情報収集を」
ライアンが手際よく指示を出す。
「いや、その前に酒だ、酒! あんな目に遭ったんだ、景気づけに一杯くらい飲まなくちゃやってられないだろ!」
ヒルダが一番大きな酒場の看板を指さして叫んだ。
「賛成! 冷たいエールが飲みたいわ!」
セーラも目を輝かせる。
「……お前らなあ」
俺は呆れつつも、反対はしなかった。確かに、張り詰めた緊張を一度ほぐす時間は必要だろう。
「わかった。だが、飲みすぎるなよ。情報収集が目的だってことを忘れるな」
「おう!」
「わかってるわよ!」
俺たちは、一番賑わっているように見える『岩猪の咆哮亭』という名の酒場に足を踏み入れた。木の温もりが感じられる造りで、昼間だというのに多くの冒険者や商人たちの笑い声や食器の音でごった返している。
俺たちは奥のテーブル席に陣取った。
「助かったよ。お前が事前に調べてくれてなかったら、宿探しで苦労してたかもしれないな」
俺がエールを一口飲みながら言う。
ライアンは小さく笑った。
「旅の準備も仕事のうちですから」
「そういえば、お前と会った時も、あんまり自分のこと話さなかったよな」
何気ない俺の言葉に、ライアンの手がジョッキを持ったままピタリと止まった。
「……話せるようなことでもありませんから」
ライアンは苦笑した。
彼はすぐに平静を取り繕ったが、その一瞬の動揺を俺は見逃さなかった。
ふと、グルフで聞いた噂を思い出す。
『ライアンは、昔、山賊に襲われた商隊の護衛で……仲間を見捨てて一人で逃げ帰ってきた。それ以来、臆病風に吹かれちまって、まともに剣も握れねえ。町じゃ『裏切り者のライアン』って呼ばれてる』
確か、バルガスはそう言っていた。
そんな陰口を叩かれていた男が、今、目の前で俺たちのために的確な分析をし、次の行動を計画している。そのギャップに、俺は言い知れぬ違和感を覚えた。
'人間、見かけによらないということか。それとも、あの噂はただのデマだったのか。'
俺がそんなことを考えていると、隣のテーブルから聞こえてくる会話が、不意に俺の耳を捉えた。
* * *
「それにしても、最近この街道も物騒になったもんだ」
隣のテーブルに座っていた、ベテランらしき屈強な冒険者たちが、エールを飲みながら声を潜めて話している。
「ああ。なんでも、数年前にこの街道で全滅した護衛隊の亡霊が出るって噂だ」
「馬鹿言え、亡霊なんているもんか。だが、あの事件は確かにきな臭かったな」
「腕利きの護衛たちがついていたっていうのに、商隊ごと一晩で消えちまったんだろ?生き残りはたった一人だったとか」
「ああ。しかも、そいつは護衛仲間を見捨てて一人だけ逃げ帰った。ゴブリンの襲撃なんてのは、そいつがでっち上げた嘘っぱちだってな」
その会話が聞こえた瞬間、ライアンの顔からサッと血の気が引いた。彼はエールのジョッキを握りしめたまま、微動だにしない。その目は、何か遠い過去の悪夢を見ているかのように、虚空を彷徨っていた。
俺は思わずライアンへ視線を向けた。
随分と顔色が悪い。
「ひでえ話だよな。今頃どこかでぬくぬくと暮らしてやがるんだろうぜ」
「全くだ。俺がその『裏切り者』に会ったら、顔に唾でも吐きかけてやるよ」
冒険者たちが下卑た笑い声を上げる。
その時だった。
冒険者の一人が、ふと俺たちのテーブルに目を向けた。そして、ライアンの顔を見た瞬間、彼は驚愕に目を見開いた。
「……おい、お前……」
男はゆっくりと立ち上がり、震える指でライアンを指さした。
「見覚えがあると思ったら……まさか……」
酒場中の視線が、一斉に俺たちのテーブルに集まる。ヒルダとセーラも、何事かと怪訝な顔で男を見ていた。
男は、確信を得たように声を張り上げた。
「間違いない!
てめえ、あの時の生き残りだな!
仲間を見捨てて一人だけ逃げ延びたっていう、『裏切り者のライアン』か!」
その言葉が、爆弾のように酒場に炸裂した。
シン、と。
あれほど騒がしかった酒場の喧騒が、嘘のように静まり返る。全ての客の視線が、侮蔑と好奇の色を帯びて、ただ一点、ライアンに突き刺さっていた。
* * *
凍り付くような沈黙が、酒場を支配する。誰もが息を殺し、糾弾された男――ライアンの反応を待っていた。
「おい、ライアン、どういうことだ……?」
ヒルダが、困惑した声で尋ねる。セーラも、信じられないといった表情でライアンと冒険者を交互に見ている。
だが、ライアンは何も答えなかった。
彼は、指弾した冒険者を見返すでもなく、ただ静かに、ゆっくりと立ち上がった。
「おい、ライアン!」
俺が声をかける。だが、その声は彼に届いていないかのようだった。
彼はテーブルの上に、勘定分の銀貨を数枚、カチャリと音を立てて置いた。その表情は、まるで能面のように感情が抜け落ちている。
そして、一言も発せずに、俺たちに背を向けた。
「待てよ、ライアン!」
ヒルダが立ち上がろうとするのを、俺は無言で手で制した。
'今は、何を言っても無駄だ。'
ライアンは、よろめくような足取りで、酒場の出口へと向かっていく。
その背中は、俺たちが今まで見てきた頼れる分析官のものではなかった。
それは長い間、誰にも打ち明けられない傷を抱え続けてきた男の背中だった。
彼は一度も振り返ることなく、ぎしり、と音を立てて酒場の扉を開け、宿場町の夕闇の中へと消えていった。
残されたのは、気まずい沈黙と、好奇の視線、そしてテーブルの上に置かれた数枚の銀貨だけだった。
'……あいつの過去に、一体何があったんだ?'
俺は、ライアンが消えた扉の向こうを見つめながら、胸の内に燻る疑問を押し殺すように、固く拳を握りしめた。
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