第86話 帝都の影
背後には、帝国の闇を飲み込んだ巨大な陥没穴が静かに口を開けている。遠くからシルドの街の喧騒が風に乗って届く。
「……行くぞ」
俺は短く告げ、まだ地面にへたり込んでいる仲間たちに声をかけた。
「いつまでもここにいるわけにはいかない。まずは安全な場所を確保する」
俺の言葉に、セーラがゆっくりと身を起こす。彼女の顔は泥と煤で汚れ、肩まで伸びた赤茶色の髪も埃まみれになっていた。
「安全な場所って……どこに」
「この街の地理には、以前調査した私がいちばん詳しいはずです」
ライアンが、片方のレンズが割れた眼鏡をかけ直しながら立ち上がった。彼は街の方向をじっと見つめる。
「港の近くに、今は使われていない古い倉庫街があります。そこなら、人目につかずに隠れられるはずです」
「決まりだな。案内を頼む、ライアン」
「はい」
俺たちは、互いの体を支え合うようにして、夜の闇へと再び歩き出した。鉛のように重い足を引きずりながらも、誰一人として弱音を吐く者はいなかった。全員の胸には、地下で見た光景に対する静かな怒りが燃えていた。
* * *
ライアンの案内でたどり着いたのは、潮の香りが漂う、打ち捨てられた石造りの倉庫だった。扉は錆びつき、中は埃っぽかったが、雨風をしのぎ、追手の目から逃れるには十分すぎる場所だ。
俺たちは、ろくに言葉も交わさず、倉庫の奥でそれぞれが手近な木箱や麻袋に腰を下ろした。アドレナリンが切れ、全身を殴られたような倦怠感が一気に襲ってくる。
倉庫の中には重い沈黙が満ちる。誰もが、まぶたの裏に焼き付いた地下施設の光景を振り払えずにいた。
「……ったく」
最初に沈黙を破ったのは、ヒルダだった。彼女は自分の服についた泥を払いながら、忌々しげに吐き捨てる。
「こんな泥だらけじゃ、せっかくの女っぷりが台無しじゃないか。どうしてくれるんだ、まったく」
その場違いな悪態に、俺は思わず顔を上げた。
「あら、ヒルダは元からじゃない? 泥がついてもつかなくても、大して変わらないと思うけど」
セーラが、疲労を隠せない声色ながらも、すかさず軽口で返す。
「なんだと! セーラこそ、その赤茶色の髪が埃まみれじゃないか!」
「なんですって!?」
二人が睨み合う。だが、そのやり取りにはいつものような剣呑さはなく、互いの無事を確かめ合うような響きがあった。
「二人とも、まだ元気があるな」
壁に寄りかかっていたバルクが、静かに、だがどこか安堵したように言った。彼の巨体にも無数の擦り傷が見える。
「……生きてるだけで、御の字ですよ」
ライアンが、震える手で水筒の水を飲みながら、か細い声で呟いた。彼の言葉が、俺たち全員の気持ちを代弁していた。
そうだ。俺たちは生きている。あの地獄から生還した。
俺はマリエクから、人数分のクリームパンと牛乳を購入した。
【クリームパン 100円/個×5個=500円】
【林永乳業 200ml:100円/個×5個=500円】
送料2000円
合計3000円
[現在のマリエク残高:13,608,500円]
「まずは腹ごしらえだ。食えるときに食っておけ」
「こんな状況でも、美味しいパンとミルクが飲めるなんて、ありがたいわね。」
セーラが口ずさむ。
配られたパンを、皆、ゆっくりと口に運ぶ。甘いクリームの味が、疲弊しきった体に染み渡った。俺は仲間たちの顔を一人一人見回す。誰もがボロボロで、疲れ果てている。だが、その瞳の奥には、絶望ではない、確かな光が宿っていた。共に死線を潜り抜けたことで、俺たちの間には言葉以上の何かが生まれている。そう感じた。
* * *
束の間の休息の後、倉庫の中央にランタンの灯りを置き、俺たちは再び向き合った。俺はアイテムボックスから、あの地下施設で回収した羊皮紙の束を取り出す。水に濡れて滲んだものも多いが、幸いなことに、ほとんどの文字は判読可能だった。
「……始めるぞ」
俺の静かな声に、仲間たちの表情が引き締まる。
「ライアン、頼む」
「はい」
ライアンが中心となり、資料の分析が始まった。彼は一枚一枚、羊皮紙に目を通し、その内容を分類していく。セーラも横で手伝い、ヒルダとバルクは倉庫の入り口で外の警戒にあたっている。
「……これは、実験に使われた薬品や金属の納品リストです。見たこともない名前ばかりですが……問題は、納入元です」
ライアンが数枚の羊皮紙を指し示す。
「シルドだけでなく、帝国の複数の主要都市……それも、軍の管理下にある工房や研究所の名前が記載されています」
「資金の流れも異常だ」
俺は別の帳簿に目を落とした。
「ん?」
そこに記されていた地名に見覚えがあった。
「グルフ……?」
ライアンも眉をひそめる。
「どうかしましたか?」
ライアンが顔を上げる。
「どうかしたも何も、そのグルフだよ」
俺は帳簿を指差した。
「カオリンの違法採掘があっただろ?」
ライアンの表情が険しくなる。
「……なるほど」
俺は以前、グルフ近郊で起きていた違法採掘の件を思い出した。
「あの時はただの金儲けだと思っていたが……」
ライアンは静かに帳簿を見つめた。
「偶然とは思えませんね」
帳簿には、グルフから大量のカオリンが定期的に運び込まれていた記録が残されていた。
俺は別の書類を手に取った。そこには、天文学的な数字が並んでいた。
「この金額は、バルトリ伯爵領の年間予算の十倍は超えている。個人の財産でどうにかなる額じゃない。金の出所も、複数の偽名口座を経由していて追えない。だが、これだけの金を動かせるのは……」
「……国家規模の組織、ということですか」
ライアンが、ゴクリと喉を鳴らした。
さらに、人員に関する記録が出てきたことで、その疑いは確信へと変わった。
「見てください、この研究者たちの名簿を」
セーラが震える声で一枚の書類を指さした。
「ここに名前がある者の何人かは、表向きは『帝都中央研究院』に所属していることになっています。私も名前くらいは聞いたことがある……まさか、彼らがこんな非道な実験に」
「兵士たちも同様だ。ここに記されている部隊は、帝国軍の中でも極秘任務を扱う特殊部隊だ。それが、バルトリの私兵として動いていたとはな……」
ヒルダが、忌々しげに呟く。
全ての証拠が、一つの事実を指し示していた。
「バルトリは、ただの実行役に過ぎない」
俺は断言した。
「この実験は、バルトリ個人の暴走なんかじゃない。背後には、もっと巨大な組織が存在する。帝国そのものが関与している国家規模の計画かもしれない。」
倉庫の中に、冷たい沈黙が落ちる。敵の途方もない大きさに、誰もが言葉を失っていた。俺たちが暴いたのは、地方領主の不正などという生易しいものではない。ガルダ帝国そのものの、最も暗く醜悪な部分だった。
* * *
「だとしたら……あたしたちは、とんでもないものに首を突っ込んじまったってことかよ」
ヒルダが、頭をガシガシとかきながら言った。その声には、怒りと共に、途方もない相手への苛立ちが滲んでいる。
「……かもしれないな」
俺は帳簿から顔を上げた。
「アルフレッド王やルミナ王女が危惧していたのも、こういうことだったのかもしれない」
帝国が何かを企んでいる。
それは聞いていた。
だが、まさか人体実験まで行われているとは思わなかった。
俺は無意識に拳を握り締める。
「あの人たちの予想より、事態はもっと悪かったのかもしれないな......」
「ええ。ですが、ここで引き返すわけにはいきません」
ライアンが、割れた眼鏡の奥から、強い意志を宿した瞳で俺たちを見回した。
「ここまで知ってしまった以上、見なかったことにはできません。それに、依頼内容でもありますからね。」
彼の言葉に、誰も反論しなかった。そうだ。あの地下で見た光景、犠牲者たちの最後の声を、見過ごすことなどできるはずがない。
「……調査を続けよう。敵の正体が何であれ、まずはその尻尾を完全に掴む」
俺の言葉に、全員が再び資料へと向き直った。怒りが、憎しみが、俺たちの疲労を忘れさせていた。
そして、数時間が経過した頃だった。
「……ナオキ!」
それまで黙々と羊皮紙を調べていたセーラが、悲鳴に近い声を上げた。俺たちが一斉に彼女の方を向く。彼女の手には、一枚の命令書が握られていた。それは、実験の進捗を報告する定型文書のようだったが、問題はその末尾に記された一文だった。
「これ……!」
セーラが指し示した箇所を、ランタンの光で照らし出す。そこには、インクが掠れながらも、確かにこう記されていた。
『最重要事項:全実験記録の写し及び、半期ごとの最終報告書は帝都中央研究院へ直送のこと』
「……帝都」
俺が呟いた言葉に、全員の視線が一点に集まる。
別の書類からも、同様の記述が見つかった。
『帝都居住区における対象者選定案』
『『失敗作』の最終処分場として、帝都地下の廃棄区画を利用する件について』
全ての道が、一つの場所へと繋がっていた。
ガルダ帝国の心臓部、帝都。
「……そういうことか」
俺は静かに呟いた。シルドの街は、巨大な実験プラントの一つに過ぎなかった。本当の司令塔、この地獄を生み出した元凶は、帝都にいる。
シルドでの調査は、これで終わりだ。俺たちは、ついに敵の本拠地を突き止めた。
* * *
俺は、散らばった羊皮紙を静かに見下ろした。一枚一枚が、犠牲者たちの血と涙で書かれているように思える。脳裏に、瓦礫の中で助けを求めていた変異体の姿が、あの苦悶に満ちた赤い瞳が、焼き付いて離れない。
'……カエリタイ……'
その最後の願いを、俺は叶えてやることができなかった。
だが。
'お前の無念は、俺が必ず晴らしてやるよ......'
地下での記憶が、胸の中で熱く蘇る。
俺はゆっくりと顔を上げ、仲間たちを見回した。セーラ、ヒルダ、バルク、ライアン。全員が、固い表情で俺を見つめている。言葉はなくても、覚悟は同じだった。
「……帝都か」
俺は静かに呟いた。
「行くしかないな」
その声は、自分でも驚くほど、静かで、そして揺るぎなかった。
「面白くなってきたじゃないか。帝国のど真ん中で大暴れってわけだ」
ヒルダが、獰猛な笑みを浮かべて剣の柄を叩いた。
「ええ。ここで終わらせるわけにはいかないもの」
セーラが静かに、しかし強く頷く。
「相手がどれだけ大きな組織でも、痕跡は残ります。資料の分析は私に任せてください」
ライアンが眼鏡を押し上げ、その瞳に知性の光を宿した。
「どこまでも」
バルクが、ただ一言、短く応える。その一言に、彼の揺るぎない忠誠の全てが込められていた。
俺は、そんな頼もしい仲間たちの顔をもう一度見渡し、そして、夜が明け始めた倉庫の窓の外へと視線を向けた。
東の空が、静かに白み始めている。
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