第85話 帝国の墓標
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
施設全体が断末魔の悲鳴を上げる。俺がバルトリの署名が入った命令書を握りしめた、まさにその瞬間だった。天井の分厚い岩盤に亀裂が走り、巨大な影となって俺たちの頭上へと牙を剥いた。空気そのものが震え、死の予感が肌を刺す。
「うおっ!伏せろ!」
俺は叫びながら、咄嗟に近くの頑丈そうな机の下へと飛び込む。
「きゃあっ!」
「ナオキ!」
セーラとヒルダの悲鳴が、岩盤が床を砕く轟音にかき消された。
ドゴオオオオオオオオンッ!
鼓膜を突き破るような轟音。凄まじい衝撃と地響きが、内臓を直接揺さぶる。飛び込んだ机がガタガタと悲鳴を上げ、数瞬後、俺が先ほどまで立っていた場所が巨大な岩塊に飲み込まれた。砕けた岩片が弾丸のように飛び散り、俺の頬を掠めていく。
「ぐっ……!」
バルクが巨大な斧槍を地面に突き立て、自らが盾となって仲間たちを庇う。彼の背中に大小の瓦礫が叩きつけられ、鈍い音を立てるが、巨木のようなその体は微動だにしない。
「ちくしょう、キリがねえぞ!」
ヒルダが剣で頭上の小さな落石を弾きながら悪態をつく。施設の崩壊は雪崩のように加速していた。警報音はもはや悲鳴のように鳴り続け、天井の至る所から新たな瓦礫が雨のように降り注ぐ。
'この証拠だけは……!'
俺はぬるりとした水と泥に汚れ始めた羊皮紙の感触を最後に、アイテムボックスの中へと瞬時に転送した。胸の内で、わずかな安堵が広がる。これさえあれば、バルトリと帝国の非道を白日の下に晒せる。これだけは、絶対に失うわけにはいかない。
「こっちだ、ナオキさん! まだ崩れていない通路が!」
ライアンが、研究室の反対側を指さして叫んだ。
「よし、行くぞ!」
俺たちが再び走り出そうとした、その時。
グオオオオオオオッ!
研究室の中央で、鎖から解放された変異体が、憎悪に満ちた咆哮を上げた。その巨体はもはや俺たちに目もくれず、ただ目の前にあるもの全てを破壊する。巨大な拳が金属製の機材を紙屑のように捻り潰し、分厚い壁を殴りつける。その衝撃が、致命傷を負った施設の崩壊をさらに早めていた。
「あいつ、まだ暴れてやがるのか!」
「おかげで、こっちまで巻き添えだ!」
足元は、水槽から溢れ出した不気味な青い液体で、すでくるぶしまで浸水している。瓦礫と水とで、足場は最悪だった。
「セーラ、足元に気をつけろ!」
「わかってるわよ!」
俺たちは互いに声を掛け合いながら、ライアンが指し示した通路へと向かう。変異体の破壊によって偶然にも構造が歪み、そこだけが奇跡的に崩壊を免れていた。
* * *
俺たちがかろうじて通路に転がり込むと、背後で全てを押し流すような地響きと共に大規模な崩落が起きた。轟音を残し、俺たちがいた研究室への道は完全に塞がれた。
「はぁっ……はぁっ……」
「なんとか、助かったのか……?」
ヒルダが荒い息をつきながら壁に手をつく。だが、安心するには早すぎた。この通路もまた、いつ崩れてもおかしくない不気味な軋みを続けている。
俺たちは警戒しながら、通路の奥へと進む。すると、少し開けた空間の先、瓦礫の山の中に、見覚えのある巨大な影が横たわっているのが見えた。
「……あいつ……」
先ほどの変異体だった。崩落に巻き込まれたのか、その巨体は瓦礫に半ば埋もれ、もはや自力で動くことさえできないようだ。
「……!」
バルクが斧槍を構え直す。だが、俺は静かにそれを手で制した。
変異体の赤い瞳が、弱々しくこちらを向いた。あれほど燃え盛っていた憎悪や狂気の炎は消えかかっている。代わりに、体の奥底から滲み出すような深い苦痛と、そして……全てを悟ったかのような諦めの光が静かに宿っていた。
「……ム……ラ……ニ……」
瓦礫の隙間から、か細い声が漏れ聞こえる。
「……なんだ?」
俺が聞き返すと、声はさらに続く。
「……カア……サン……」
その言葉に、セーラがはっと息を呑んだ。ヒルダの眉が険しく寄せられる。
「……タスケ……テ……」
怪物の口から紡がれる、助けを求める声。
「……カエ……リ……タイ……」
断片的な言葉。だが、それは紛れもなく、かつて彼が人間、あるいは獣人であった頃の記憶の残滓だった。故郷の村。待っている母。そして、家に帰りたいという、あまりにも当たり前で、あまりにも悲痛な願い。
俺たちの間に、重い沈黙が落ちた。目の前にいるのは、怪物などではない。帝国によって全てを奪われ、歪められた、一人の被害者だ。
「もう……もう、やめてあげてよ……」
セーラが目に涙を浮かべ、顔を覆った。彼女の肩が小さく震えている。耐えがたい光景だった。
「帝国め……獣人族の誇りを……命をなんだと思ってやがる……!」
ヒルダが、骨が軋むほど強く拳を握りしめ、壁を殴りつけた。その瞳から、静かな涙が一筋流れ落ちる。
ライアンは唇を噛みしめ、何も言えずにただ立ち尽くしている。彼もまた、この帝国の非道さに言葉を失っていた。
俺はゆっくりと変異体に近づいた。彼の赤い瞳が、俺の姿をじっと捉える。
'……ああ。お前の声は、確かに聞こえた。'
俺は心の中で静かに誓った。拳を固く握りしめる。
'お前の無念は、この命に代えても、俺が必ず晴らす'
* * *
俺が決意を固めた、その時。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
今までで最大級の振動が、足元から突き上げた。施設全体の崩壊が、ついに限界点を超えたのだ。
「もうダメだ! この通路も崩れるぞ!」
ライアンの絶叫が響く。
背後の壁が崩れ落ち、瓦礫の津波が俺たちに迫る。そして、前方の通路もまた、巨大な岩盤が落下し、完全に塞がれてしまった。
「くそっ! 行き止まりだ!」
「挟み撃ちかよ!」
完全に逃げ場を失い、俺たちは狭い空間に閉じ込められた。もはや、万事休すか。
その、絶望が俺たちの心を支配しかけた瞬間だった。
「グルオオオオオオオオオオオオオオッ!」
瓦礫に埋もれていた変異体が、最後の生命を燃やすかのように、天を衝くほどの絶叫を上げた。彼は残された全ての力を振り絞り、瓦礫の中から巨大な腕を引き抜くと、この施設の中枢炉へと、その拳を叩きつけた。
ドゴオオオオオオオオオオンッ!
凄まじい衝撃音と共に、中枢炉が砕け散る。刹那、世界から音が消えた。
次の瞬間、青白い光と禍々しい赤い光が渦を巻きながら混じり合い、全てを白く染め上げる強烈な閃光となって俺たちの視界を焼いた。
「うわあああああああっ!」
凄まじいエネルギーの奔流が、大爆発となって地下空洞全体を飲み込んでいく。熱波が背中を焼き、俺たちがいた通路の壁が、まるで紙切れのように吹き飛んだ。
爆風に吹き飛ばされながら、俺は見た。
舞い上がる粉塵の向こう、吹き飛んだ壁の先に、地上へと続く古びた螺旋階段が闇の奥へと伸びているのが、奇跡のように見えた。
「脱出までの道が……できた!?偶然か?」
ヒルダが信じられないといった声で叫ぶ。
爆心地にいた変異体は、自らが引き起こした破壊の奔流に、その巨体を飲み込まれていく。瓦礫と光の中に消えていく彼の赤い瞳には、もう苦悶の色はなかった。まるで全てから解放されたかのような、穏やかな光が一瞬だけ宿ったように、俺には見えた。
「行けええええっ!」
俺は仲間たちに向かって、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
* * *
俺たちは、吹き飛んだ壁の先に現れた螺旋階段を、俺無我夢中で駆け上がった。
螺旋階段は古く、足を踏み出すたびに崩れ落ちそうだったが、今はそんなことを構っていられない。
どれだけ駆け上がっただろうか。不意に、淀んだ地下の空気とは違う、ひやりとした新鮮な夜気が頬を撫でた。
出口だ。
ボロボロになった体を引きずるようにして、俺たちはついに地上へと転がり出た。
「はぁ……はぁっ……生きて、る……?」
セーラが地面に倒れ込んだまま、呆然と夜空を見上げている。シルドの街はまだ混乱の最中にあったが、ここは少し外れの、打ち捨てられた区画のようだった。
俺は腰のあたりに手を当て、アイテムボックスに納めた証拠の、幻の感触を確かめる。
'……ある。'
冷たい夜風が、俺の決意をさらに固めさせた。まさにその直後だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ! ドゴオオオオオオオンッ!
足元から、世界がひっくり返るかのような激しい地響き。振り返ると、俺たちが脱出してきた地下施設があった場所が、巨大なクレーターのように轟音と共に陥没していくのが見えた。
全てを飲み込み、全てを終わらせる、圧倒的な崩壊。
俺は、帝国の闇が作り出した巨大な墓穴を背に、静かに夜空を睨みつけた。
「バルトリ……帝国……待ってろよ」
その声は、怒りと、そして悲しいまでに静かな決意に満ちていた。
「こんなことをしておいて、許されると思うなよ」
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