第84話 怪物ではなく
クラウスの愉悦に満ちた声が、崩壊を始める地下空洞に響く。俺はその声を背に、水槽に浮かぶ巨大な人影――その苦痛に歪む赤い瞳を、ただ睨みつけていた。憎悪でも殺意でもない、深い苦悶の色。
「……なんだ? 攻撃してこないぞ」
ヒルダが剣を構え直しながら、訝しげに呟く。
予想に反して、影は襲い掛かってこなかった。それどころか、水槽の中でゆっくりと身じろぎしている。まるで激しい苦痛に耐えているかのように。ゴボゴボと泡を吐き出す動きは緩慢で、敵意よりも助けを求めるような弱々しさを感じさせた。
「様子が……おかしいわね。あれは、苦しんでいる……?」
セーラが青ざめた顔で言う。
俺は目の前の光景から目を離さず、思考を集中させた。こいつの正体は何だ?
'鑑定!'
水槽の中の巨大な影に向けてスキルを発動する。半透明のウィンドウが脳内に展開された。
[名称:重度変異体(試作段階)]
[状態:極度の肉体的・精神的苦痛、自我崩壊寸前、制御不能]
[元個体情報:人間(男性)あるいは獣人族(男性)の可能性。複数の個体を融合させた痕跡あり]
[特性:驚異的な再生能力、物理・魔術耐性(高)、精神汚染]
[解析:『適合化実験』の失敗作。遺物の力を無理やり肉体に定着させようとした結果、肉体と精神が耐えきれず暴走。現在は生命維持装置によってかろうじて原型を留めているが、完全な崩壊は時間の問題]
「……なんだと」
ウィンドウに表示された文字は、信じがたい事実を突きつけていた。
元は、人間か、獣人。複数の個体を、融合させた『失敗作』。
「ナオキ、どうした!? 何か分かったのか!?」
俺の反応に、ヒルダが声を荒らげる。俺は乾いた唇を舐め、仲間たちに鑑定結果を伝えた。
「……こいつは、元は人間か獣人らしい。何人も……無理やり一つに融合された実験の『失敗作』だ」
「なっ……!?」
セーラが息を呑み、ライアンは絶句した。バルクでさえ、その巨躯を強張らせている。
「……じゃあ、あれは怪物なんかじゃなくて……」
ヒルダの声が震えていた。そうだ。目の前にいるのは、倒すべき敵じゃない。帝国の非道な実験によって歪められた、哀れな被害者だ。
その時だった。
「……タ……ケ……テ……」
水槽の中から、微かに、しかし確かに、声が聞こえた。
* * *
「……タ……ケ……テ……」
水槽の青い液体と気泡の音に混じってかろうじて聞き取れる、か細い声。だが、その一言は、俺たちの心を深く抉るには十分すぎた。
「今……『助けて』って……」
セーラが信じられないといった表情で水槽を見つめる。
その言葉を最後に、変異体は再びぐったりと動きを止め、ただ苦しそうに巨大な体を震わせるだけになった。だが、もう俺たちの中に、あれを『怪物』として見る者はいなかった。
「……ふざけやがって」
ヒルダが吐き捨てた言葉には、怒りと共に、やり場のない悲しみが滲んでいた。
俺は踵を返し、クラウスを睨みつけた。
「おい、クラウス。これが『真実』の一端か? これが、お前たちの言う『調査』の結果かよ」
「ええ、その通りですよ」
クラウスは表情一つ変えずに答える。その冷徹さが、俺の怒りに油を注いだ。
「ですが、感傷に浸っている時間はありません。あれが完全に沈黙したのは、生命維持装置のおかげ。いつまた暴れ出すか分かりませんよ。あなた方が知りたいのは、こんな悲劇がなぜ起きたのか、でしょう?」
クラウスはそう言って、広大な研究室に散らばる無数の魔導記録板や、床に散乱した書類の山を顎で示した。
「答えは、全てここにあります。もっとも、それを見つけ出すだけの時間と能力が、あなた方にあればの話ですが」
挑発するようなクラウスの言葉に、俺は舌打ち一つで応える。'こいつの掌で踊らされるのは癪だが、今は情報を集めるのが先決だ。'
「……全員、手分けして調べるぞ! 何か記録が残ってるはずだ! こいつらが何をしたのか、洗いざらい暴き出してやる!」
俺の号令で、仲間たちは即座に行動を開始した。ライアンは中央魔導記録板らしき装置に駆け寄り、セーラとヒルダは床に散らばった羊皮紙の束をかき集め始めた。バルクは、水槽の変異体と俺たちの間に立ち、万が一に備えて斧槍を構えている。
俺も、近くの机に散らばる書類の束を手に取った。その内容は、俺の想像を遥かに超えておぞましいものだった。
『実験体ファイル No.112:アッシュベルク領出身、獣人族(狼種)、男性、推定17歳。古代遺物との適合実験を開始。拒絶反応激しく、四肢が溶解。意識混濁状態にて『処分』』
『実験体ファイル No.134:所属不明、人間、女性、推定20代。複数個体融合実験のコア素体として使用。精神崩壊後、他の素体に取り込まれ同化。経過は良好』
『報告書:新規素体の確保について。『獣人国』からの供給分は抵抗が激しく消耗が大きいため、今後はより従順な辺境の村落を対象とすることを推奨。特に、家族を人質に取ることが有効と判断』
書類をめくるたびに、腹の底から黒い怒りがせり上がる。'これは実験記録などではない。虐殺の記録だ。人間を『材料』としか見ていない。'
「ナオキさん、こちらを……」
ライアンが、震える声で俺を呼んだ。彼が調べていた魔導記録板には、一つの映像記録が再生されていた。そこに映し出されていたのは、まだ変異体になる前の、一人の若い獣人族の青年だった。檻の中で怯えながらも、必死に何かを訴えている。
『やめろ……! 俺の村に、母さんに手を出さないでくれ! 何でもするから!』
だが、彼の懇願は無視され、白衣の男たちが注射器を片手に檻へと入っていく。青年は必死に抵抗するが、数人がかりで押さえつけられ、首筋に禍々しい紫色の液体が注入された。
『ぐあああああああああっ!』
青年の絶叫が響き渡る。彼の体は痙攣し、筋肉が異常に隆起し、骨が軋む音を立てて変形していく。その目は憎悪と苦痛に赤く染まり、理性は瞬く間に消え失せ、ただの獣の咆哮だけが残った。映像はそこで途切れていた。
「……これが、あの怪物の」
言葉を失った。
「最低だ……」
隣で見ていたヒルダが、骨が軋むほど強く拳を握りしめている。その瞳には、もはや隠しようもない殺意の炎が燃え盛っていた。
俺は静かに目を閉じ、深く息を吸った。'怒りで我を忘れるな。だが、この感情だけは忘れるな。帝国も、バルトリも、この実験に関わった全ての人間を、俺は絶対に許さない。'
* * *
俺たちの間に、重く冷たい沈黙が落ちる。帝国の非道な行いに対する、言葉にならない怒りの共有だった。
「……こんなことが、許されていいはずがない」
ライアンが、絞り出すような声で言った。彼の顔からは血の気が失せ、魔導記録板を睨む目には深い絶望と怒りに入り混じっていた。
俺は、床に散らばる別の報告書を手に取った。実験の進捗をまとめたものらしい。
『……融合個体の制御に難航。複数の意識が混濁し、命令系統に混乱。精神汚染の進行が予測より早く、このままでは完全な『兵器』としての運用は困難』
『提案:より強力な精神支配系の古代遺物を使用し、中枢となる意識を強制的に上書きすることで、制御問題を解決する案を上申。対象として、現在バルトリ伯爵が管理する『傀儡の杖』が最適と判断……』
'バルトリ……!'
またしても、その名が出てきた。'やはり、奴はこの計画の根幹に関わっている。俺の怒りが、静かに沸点へと達していくのを感じた。'
その時だった。
「ヤ……メ……ロ……」
巨大な水槽の中から、再び声が響いた。今度は、先ほどよりも明確な意思が込められている。苦痛に満ちた、悲痛な叫びだった。
ゴウンッ!
水槽が、内側から激しく揺さぶられる。変異体が、ゆっくりと腕を上げた。
「おい、どうしたんだ!?」
ヒルダが叫ぶ。
「ヤメロォォォォッ!」
絶叫と共に、変異体の巨大な拳が、水槽の強化ガラスを内側から叩きつけた。
ドゴオオオオオン!
地響きと共に、施設全体が揺れる。水槽の表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
「まずい! あいつ、暴走し始めたぞ!」
俺が叫ぶのと、クラウスが「おや」と面白そうに呟くのは、ほぼ同時だった。
「おや」
クラウスが興味深そうに目を細める。
「まだ意識が残っていたとは」
'ふざけたことを。'
「バルク、構えろ!」
「承知!」
バルクが斧槍を固く握り直し、一歩前に出る。
だが、変異体の怒りは俺たちに向いていなかった。その赤い瞳は、憎しみを込めて、この研究施設そのものを睨みつけている。
「コワセ……! コンナ場所……!」
ドガン! ドガアアアン!
立て続けに叩きつけられる拳が、水槽の亀裂をさらに広げていく。ミシミシと、ガラスが悲鳴を上げる音が空洞に響き渡った。
そして、ついに。
バキィィィィィィィィンッ!
耳をつんざく破壊音と共に、巨大水槽の側面に、巨大な穴が開いた。
* * *
床の魔法陣が乱れた。
青白い光が明滅し、空気そのものが震える。
耳鳴りのような低い唸りが地下空間に響き始めた。
穴から滝のように青い液体が溢れ出し、凄まじい勢いで床に叩きつけられ、研究室全体に広がっていく。
「うわっ!? 浸水してくるぞ!」
「こっちもだ! 逃げ場が!」
仲間たちの焦った声が飛ぶ。あっという間に、床は足首まで不気味な青い液体に浸された。
グオオオオオオッ!
水槽から解放された変異体が、苦痛に満ちた咆哮を上げる。だが、その巨体は俺たちを無視し、手当たり次第に周囲の機材や檻を破壊し始めた。
「まずい! ここも崩れるぞ! 脱出する!」
俺は叫び、クラウスがやってきた隠し通路へと視線を向けた。だが、入り口は既に溢れ出した水で塞がれつつある。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
空洞全体に、けたたましい警報音が鳴り響き、赤い警告灯が明滅を始めた。
『警告。中枢炉の魔力循環、停止。封印機構、崩壊寸前。全職員は直ちに退避せよ』
無機質なアナウンスが、俺たちに最終的な絶望を告げる。
「崩壊寸前ですって!? なんなのよ、もう!」
セーラが半狂乱で叫ぶ。
「時間がない! クラウス、他に逃げ道は!?」
俺は怒鳴るが、クラウスはただ肩をすくめるだけだ。
「私が案内できるのはここまでです。健闘を祈りますよ、ナオキさん」
そう言うと、銀髪の男は煙のように姿を消した。
「あの野郎……!」
悪態をつく暇もない。水に濡れていく書類の中から、必死で決定的な証拠を探す。
その時、一枚の羊皮紙が目に留まった。他の書類とは違う、上質な紙に書かれた命令書だ。水に濡れ、インクが滲み始めている。
俺はそれをひったくるように拾い上げた。
『……上記計画の最高責任者として、私、ガルダ帝国伯爵バルトリの名において、これを承認する。全ての責任は私が負うものとし、帝国への忠誠を誓う諸君らの尽力に期待する』
そこには、紛れもないバルトリ伯爵の署名と、帝国の紋章が刻まれた蝋印が押されていた。
「見つけたぞ……証拠を」
俺が証拠を握りしめた、その瞬間。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
施設全体が断末魔のような軋みを上げ、天井の岩盤が、巨大な塊となって俺たちの頭上へと崩れ落ちてきた。
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