第81話 赤き地下の檻
開かれた闇の向こうから、巨大な『何か』の影がゆっくりと姿を現した。地下に広がっていたのは、要塞でもなければ、ただの倉庫でもない。それは、悪夢そのものが肉体を得て地上に這い出してきたかのような、冒涜的な存在だった。
「グオオオオオオオオオオオオッ!」
鼓膜を突き破るような、地獄の底から響く咆哮。それは単なる音の奔流ではなく、明確な殺意と苦痛を宿した意思の塊となって、広場の空気を暴力的に震わせた。溢れ出した赤黒い光が、その巨体を不気味に照らし出す。それは、およそ生命の理を無視し、複数の獣を無理やり一つに縫い合わせたかのような、醜悪なキメラだった。太く歪み、それぞれが異なる形状を持つ何本もの腕。爬虫類の鱗と汚れた硬い毛皮がまだらに生えた胴体。そして、その肉塊の至る所に埋め込まれた、憎悪と苦痛に燃える無数の赤い眼が、ぎょろぎょろと無秩序に動き、周囲の全てを睨みつけていた。
「ひっ……!」
ついさっきまで俺たちを鉄の規律で包囲していたはずの私兵の一人が、喉を引きつらせて情けない悲鳴を上げた。これまで感情というものを削ぎ落としたかのように無表情だった彼らの顔に、初めて純粋な恐怖と、理解を超えたものに対する動揺が浮かぶ。武器を取り落とす者、その場にへたり込む者まで現れた。
「な、何を怯える! 持ち場を離れるな! 隊列を組め! 弓を構えろ!」
隊長格の男が裏返った声で怒鳴るが、その声すらも恐怖に震えていた。目の前の存在は、彼らが受けてきた訓練の想定を、そしてこの世界の常識という理を、遥かに超えていたのだ。
その一瞬の硬直を、怪物は見逃さなかった。影のように伸びた腕の一本が、まるで巨大な鞭のようにしなり、音速を超えて私兵の隊列を薙ぎ払う。
「ぐはっ!」「ぎゃあああっ!」
肉が断ち切られる鈍い音と、骨が砕ける乾いた音が響き渡る。彼らが身に纏っていた金属鎧など、まるで紙切れ同然だった。数人の兵士が、壊れた玩具のように宙を舞い、石造りの建物の壁に叩きつけられてグチャリと潰れ、おびただしい血飛沫を上げる。広場は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変わった。血の匂いが、鉄錆の匂いとなって鼻腔を刺す。
「くそっ、化け物め! 撃て、撃てぇ! 撃ち殺せ!」
隊長の半狂乱の絶叫を合図に、矢の雨が怪物に降り注ぐ。だが、ほとんどの矢は分厚く硬い外皮にカンカンと音を立てて弾かれるか、運良く突き刺さっても、その巨体にとっては爪楊枝ほどのダメージにもなっていない。怪物の動きを鈍らせるにさえ至らなかった。
「ナオキ! 今のうちだ! 奴らが引きつけられてる!」
ヒルダが俺の肩を掴んで叫ぶ。あれだけ完璧に見えた包囲網は、この怪物の出現によって完全に崩壊していた。
「いや、違う!」
俺は首を横に振った。
仲間たちが驚愕の顔で俺を見る。
「逃げるんじゃない! 行くぞ!」
俺は、破壊された鉄格子の向こう、怪物が現れた深淵の闇を指さした。
「正気か、ナオキ!? あの中へ入るってのか!?」
「奴らが一番隠したい場所だ! 俺たちが知るべき真実は、あの中にある! 行くぞ!」
「しかし! あまりにも危険すぎます!」
食い下がるライアンの肩を掴み、俺は彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「ライアン、お前の言うことは正しい。だが、正論だけじゃダメな時があるんだ! 奴らの狙いは地下の封鎖だ。俺たちがここにいる限り、いずれ増援に囲まれて終わりだ。だが、奴らもこの化け物に夢中で、まさか俺たちが敵地のど真ん中に飛び込むなんて夢にも思わねえ! 奴らの思考の裏をかく! 今が唯一のチャンスだ!」
俺の言葉に、仲間たちの目に覚悟の光が宿る。恐怖は消えない。だが、それを上回る決意が、彼らの顔つきを変えた。
「……面白え! 地獄へまっしぐらだな。上等だ!」
ヒルダが獰猛に笑う。
「決まりだな! バルク、先陣を切れ! 道を開けろ!」
「承知!」
バルクは短く応えると、獣のような咆哮を上げ、怪物と私兵たちの戦場と化した広場を一直線に突っ切る。その巨躯と圧倒的な圧力が、混沌とした戦場に一瞬の亀裂を生んだ。俺たちもそれに続いた。背後で繰り広げられる死闘の悲鳴と咆哮を横目に、俺たちは燃え盛る地獄の門へと、自らその身を投じた。
* * *
地下へ続く石の階段を駆け下りると、先ほどまでの喧騒と熱気が嘘のように、ひやりとした墓場のような静寂が俺たちを包んだ。通路は人工的なものだった。綺麗に切り出された石で組まれ、壁には一定間隔で魔力を帯びた石が埋め込まれ、青白い光で闇を照らしている。空気は重く、湿っている。
「……古代遺跡、じゃないわね。造りが新しい」
セーラが壁をそっと撫でながら呟く。
「ええ」
ライアンが壁の一部を指さした。そこには、明らかに新しい補修の跡があった。
「見てください、このモルタル。ここ数年以内に塗られたものです。この施設は、今も現役で使われています。それも、かなり頻繁に」
通路は迷路のように入り組んでいたが、今は一本道が続いている。俺たちは最大限に警戒しながら、慎重に奥へと進む。やがて、通路の脇にいくつもの鉄格子のはまった小部屋が並んでいる区画に出た。
「……牢獄か?」
ヒルダが眉をひそめる。その一つの部屋を覗き込み、俺たちは息を呑んだ。
壁には、巨大な鉄の枷が何本も打ち付けられていた。明らかに人間用ではない。その大きさは、巨大な獣、あるいは……それ以上の何かを拘束するためのものだ。床には黒ずんだ染みがこびりつき、得体のしれない悪臭が漂っている。
「ここで……何かを飼っていたのか」
俺の言葉に、セーラが壁に無数に刻まれた引っ掻き傷に気づいた。彼女は指でそっと傷をなぞり、その顔を蒼白にさせる。
「これ……獣人族の古い言葉よ。『呪われろ』『殺してやる』『母さん』……罵詈雑言もあれば、助けを求めるような言葉も刻まれてる」
セーラの震える声が、この施設の異常性を決定づけた。ここはただの牢獄ではない。獣人族を監禁し、何かを強いるための場所。
「う……うぅ……」
不意に、セーラに背負われた運び屋の男が、苦しげに呻いた。
「かご……におい……みんな……」
「! しっかりしろ! 檻がどうしたんだ!」
俺が揺さぶるが、男は短い言葉を最後に再び意識を失ってしまった。
「ナオキさん、これは……」
「ああ。帝国の、極秘の収容施設。あるいは……非人道的な実験場だ」
俺たちが足を踏み入れた場所の正体に、背筋が凍る思いだった。
* * *
さらに奥へと進むと、通路は開けた空間に出た。そこは、資材や工具が雑然と置かれた作業区画のようだった。俺たちは物陰に身を潜め、息を殺す。
ザッ、ザッと複数の足音が近づいてきた。慌てて資材の影に隠れると、松明を持った数人の私兵が通り過ぎていく。
「ちくしょう、あの『失敗作』が暴れおって! おかげでこっちの計画が台無しだ!」
「拘束具が壊れたんだ! 遺物制御まで止まりやがって……!」
「上はカンカンだぞ。『獣の国から調達した新規分はどうなってる』ってな。またあの獣人の村からか?」
「知るかよ! それより、『例の遺物』の方は大丈夫なんだろうな? あれまで失ったら、俺たちの首が飛ぶじゃすまねえ」
「最深部の扉は、閣下の紋章で封印されている。いくらあの化け物でも、あれは破れんさ。問題は俺たちの責任問題だ」
私兵たちは、そんな断片的な会話を交わしながら、慌ただしく地上の方向へと去っていった。
'失敗作……獣の国……例の遺物……'
キーワードが、頭の中でパズルのピースのように組み合わさっていく。
奴らが去ったのを確認し、俺たちは作業区画を調べ始めた。そこには、空になった檻が何十と並んでいた。そのほとんどが、内側から凄まじい力で破壊されたかのように、扉が歪み、ひしゃげている。
その中で、一つだけ、まだかろうじて原形を留めている檻があった。
俺がそれに近づこうとすると、ヒルダが「待て」と低く制した。檻の中には、何かが残されている。
それは、一房の艶やかな黒い獣毛だった。そして、その横には……革製の首輪が、無残に引きちぎられて落ちていた。バックルは力ずくで破壊され、使い古された革には、乾いて黒ずんだ血痕がべっとりと付着している。
「……なんてことを」
セーラが口元を押さえる。言葉にしなくても、全員が理解していた。この檻の中で、一体何が行われていたのか。運び屋の男が言っていた『地下の何か』。私兵たちが口にした『失敗作』。その全てが、この血塗られた首輪に繋がっていた。捕らえられた獣人族が、ここで何らかの実験を施され、あの怪物になった――そんな最悪の想像が頭をよぎった。
「……許せねえ」
ヒルダが、骨が軋むほど強く拳を握りしめていた。その瞳には、静かだが、全てを焼き尽くさんばかりの燃え盛る怒りの炎が宿っていた。
* * *
私兵たちが話していた『最深部』を目指し、俺たちはさらに地下深くへと進んだ。空気はさらに冷たく、重くなっていく。やがて、通路は行き止まり、俺たちの目の前に巨大な扉が立ちはだかった。
高さは10メートル以上あるだろうか。表面には複雑怪奇な魔術的な文様が刻まれ、中央にはガルダ帝国の紋章が堂々と鎮座している。私兵が言っていた通り、この扉からは尋常ではない圧力が放たれており、物理的に破壊するのは不可能だと直感した。
「これが……最深部か」
ライアンがゴクリと喉を鳴らす。
「『例の遺物』は、この中にあるってことか……」
俺は扉に刻まれた帝国の紋章を睨みつけた。バルトリ伯爵、そしてこのシルドの街の闇の全てが、この扉の向こうにある。
だが、その時、俺は巨大扉の中央に刻まれた帝国紋章の下に、さらに幾重にも重ねられた刻印があることに気づいた。
古いもの。新しいもの。削り取られたもの。
まるで、この場所そのものが、長い年月をかけて何度も塗り潰され、継ぎ足されてきたかのようだった。
「……なんだ、これ」
近づいて見ても分からない。ただ、一つだけ確かなことがあった。
この施設は最近作られたものじゃない。
そして、バルトリ伯爵一人で作れる規模でもない。
俺は巨大扉を見上げた。
バルトリ伯爵。地下施設。獣人。失敗作。例の遺物。
頭の中で、今まで見てきた情報が少しずつ繋がり始める。
そして、一つだけ理解した。
俺たちが追っていたのは、シルドの裏社会なんかじゃない。
この街そのものでもない。
帝国だ。
この巨大な地下施設は、シルドの闇ではない。帝国の闇、その入口だった。
その時だった。
――ゴン。
巨大扉の向こう側から、低く重い音が響く。
全員が反射的に息を止めた。
扉の向こうには、まだ何かいる。
そう理解した瞬間、背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
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