第76話 蜘蛛の巣の中心へ
目の前で差し出された、美しい封蝋が施された招待状。俺はそれを睨みつけたまま、動けずにいた。使者の男は、完璧な笑みを崩さずに俺の返事を待っている。
「……ありがたく、お受けいたします」
沈黙を破り、俺はゆっくりと手を伸ばして招待状を受け取った。その声が自分でも驚くほど平坦に響いたことに、内心で安堵する。
「賢明なご判断です。では、明日の宵の刻、お迎えに上がらせていただきます」
使者はもう一度深く頭を下げると、音もなく去っていった。まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、静かに扉が閉まる。
残された部屋に、再び重い沈黙が落ちた。
「……行くのか、ナオキ?」
ヒルダが、信じられないという顔で俺を見る。
「ああ。行く」
「正気かよ!? どう考えたって罠だろ! 昨日『光を蓄える宝石』なんて嘘っぱちで揺さぶりをかけてきた奴らだぞ!」
「罠だろうな。だが、だからこそ行く価値がある」
俺は招待状をテーブルに置く。
「奴らは俺たちが部屋を調べられたことに気づいていると分かっている。その上で、こうして招待してきた。俺たちが混乱していることすら、計算の内だ」
「じゃあ、なんで……」
「相手の狙いが分からないまま、この街でじっとしていても状況は悪くなるだけだ。ネズミのように監視され、じわじわと追い詰められていくだけだぞ」
俺の言葉に、ライアンがこわばった表情で口を開いた。
「ナオキさんの言う通りです。危険は承知の上ですが、これは敵の懐に潜り込むまたとない機会でもあります。バルトリ伯爵……彼がクラウスとどういう関係なのか、あるいは対立しているのか。それを探るだけでも大きな収穫です」
「でも、貴族の晩餐会なんて……」
今度はセーラが不安げに眉を寄せた。
「柄じゃないわよ、あたしたちには。貴族の世界は戦場だって聞くわ。言葉一つ、マナー一つ間違えれば、それだけで社会的に殺される。ましてや、ここは敵地も同然の帝国よ」
「うむ。剣や魔法より、厄介な戦いになるかもしれんな」
バルクも静かに腕を組む。全員の不安はもっともだ。だが、俺の決意は変わらなかった。
「ああ、分かってる。だが、見てるだけじゃ何も見えてこない。蜘蛛の巣に絡め取られたなら、中心に行って、蜘蛛の顔を拝んでやるしかねえだろ」
俺は不敵に笑って見せた。その笑みが、仲間たちの不安を少しだけ振り払ったようだった。
「……分かったよ。ナオキが行くってんなら、あたしも付き合う。どんな蜘蛛野郎か知らねえが、いざとなったらあたしが叩き斬ってやる!」
ヒルダが威勢よく胸を叩く。
「まったく、脳筋なんだから……でも、行くしかないようね。足手まといにならないように、せいぜい頑張りなさいよ、あんたたち」
セーラもやれやれと肩をすくめながら、その瞳には覚悟の光が宿っていた。
「決まりだな。じゃあ、準備をするぞ」
【マリエク起動】
社交界用衣装セット
男性用:金貨3枚
女性用:金貨8枚
'お値段なかなかだな……'
しかし、これも必要経費だ!男性用3着と女性用2着を購入する。
送料合わせて252,000円
[現在のマリエク残高:13,686,000円]
晩餐会に向けて、俺たちはマリエクで取り寄せた正装に着替えることになった。
「うげぇ……何だよこれ! 窮屈で死んじまう!」
ヒルダが、体のラインにぴったりとフィットする深緑のドレスに身を包み、鏡の前で不満の声を上げる。
「我慢なさい、ヒルダ。これは戦闘服じゃなくて『社交服』なの」
セーラが慣れた手つきでヒルダの髪を整えながら、ため息をつく。
「ほら、ナオキ。どう?」
「……綺麗だと思う」
「へっ?」
ヒルダが固まる。
「いや、服がな!」
「言い直すなー!!」
真っ赤になったヒルダが、誤魔化すように拳を振り上げる。
「……単純ね」
セーラが呆れたように笑った。
こういうところは、本当に分かりやすい奴だ。
俺はそんなやり取りに苦笑しつつ、自分も用意した衣服に袖を通す。硬い襟、無駄に多い装飾。
'くそ……胃が痛くなってきた'
慣れない服装と、これから向かう戦場のことを思うと、本当に胃がキリキリと痛み始めた。
* * *
翌日の宵の刻。迎えに来たのは、昨日までの使者ではなく、黒塗りの豪奢な馬車だった。紋章は入っていない。どこまでも正体を隠す、という意思表示か。
馬車に乗り込むと、シルドの街を滑るように走り出した。賑やかな市場や職人街を抜け、明らかに区画が変わる。石畳は磨き上げられ、建物の意匠は複雑で華美になり、道行く人々の服装も上質なものばかりになった。市場の喧騒は消え、代わりに静かな豪邸街が続く。
同じ街とは思えなかった。
やがて馬車は、ひときわ巨大な屋敷の前で止まった。高い塀がどこまでも続き、その上には等間隔で武装した警備兵が立っている。その動きには一切の無駄がなく、俺たちが国境で見た兵士たちと同じ、冷たい空気を放っていた。
「……なんつー物々しさだよ。本当にただの伯爵の屋敷か?」
ヒルダが窓の外を見ながら、呆れたように呟く。
門が開かれ、馬車は広大な庭園を抜けて玄関ポーチへと着いた。俺たちが馬車を降りると、そこには完璧な礼装に身を包んだ執事と、ずらりと並んだ使用人たちが、深々と頭を下げていた。
「ようこそお越しくださいました、ナオキ様御一行。主人がお待ちかねでございます」
執事の丁寧な言葉とは裏腹に、俺たちは突き刺すような視線の集中砲火を浴びていた。使用人たちは、頭を下げたまま、その瞳だけで俺たちを頭のてっぺんから爪先まで、まるで品定めするかのように舐め回している。
歓迎の空気など、どこにもない。これは、査定だ。俺たちがこの場にふさわしい存在か、どれほどの価値があるのかを、値踏みされている。
息が詰まるような豪華絢爛な廊下を、俺たちは執事に案内されて進む。床に敷かれた分厚い絨毯が足音を完全に吸い込み、自分たちの存在だけがこの異質な空間に浮いているような感覚に陥った。壁には高価そうな絵画や骨董品が飾られ、磨き上げられた大理石の柱がシャンデリアの光を乱反射している。
'落ち着け。呑まれるな'
俺は自分に言い聞かせる。隣を歩く仲間たちも、皆、顔を強張らせていた。俺たちは、歓迎された客ではない。検査台に乗せられた、実験動物だ。
* * *
案内されたのは、天井がやけに高い、広大な晩餐室だった。長いテーブルの中央に、俺たちのための席が五つだけ用意されている。テーブルの上には、見たこともない豪華な料理が並べられているが、湯気一つ立っていない。まるで作り物のようだ。
俺たちが席に着くと、部屋の奥の扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、穏やかな笑みを浮かべた、初老の男だった。豪華だが華美すぎない上質な衣服に身を包み、その物腰は柔らかい。だが、その双眸には、長年、権力の中枢で生きてきた者だけが持つ、鋭い知性の光が宿っていた。
「ようこそ、バルトリの館へ。私がこのシルドを預かる者、バルトリ・フォン・シルドだ」
男――バルトリ伯爵は、芝居がかった仕草で一礼する。
「ナオキ殿。貴殿らの噂は、かねがね。遠い東の国から、奇跡の品々をもたらした商人一座、と」
「噂が広まるのは早いものですな、伯爵閣下」
俺も席から立ち、貴族流の挨拶を返す。
晩餐が始まったが、それは食事とは名ばかりの尋問だった。
「いやはや、実に見事なドレスだ。我が帝国の職人たちも、これには舌を巻くでしょうな」
「恐縮です。我々が懇意にしている職人の、秘伝の技でして」
「なるほど。ですが、見事なのは衣装だけではありますまい」
伯爵の視線が、セーラとヒルダへ向く。
「お嬢様方も、ドレスに負けず劣らず実にお美しい。これでは、使用人たちが落ち着かないのも無理はない」
「ふ、ふん……当然だろ」
ヒルダが照れ隠しのように鼻を鳴らし、セーラは営業用の笑みを浮かべる。
「いやはや。美しい品には、美しい器も必要ということですかな」
伯爵はワイングラスを揺らしながら、穏やかに続けた。
「そして秘伝。その『光を蓄える宝石』とやらも、その職人の手によるものかな? 完成が実に待ち遠しいですな」
伯爵は、にこやかな笑みを崩さぬまま、巧みに言葉の刃を差し込んでくる。一つ一つは当たり障りのない質問だが、その全てが俺たちの正体を探るためのものだ。
一通り俺たちの『商品』に関する探りを入れた後、伯爵はふと、ワイングラスを傾けながら呟いた。
「この帝国も、盤石に見えて、内側では様々な思惑が渦巻いておりますのでな。私のように、ただ古き伝統を守らんとする者もいれば、クラウス殿のように、新しい力……古代の遺物などに強い関心を持つ者もいる」
'クラウス!'
俺は内心の動揺を押し殺す。伯爵は、俺たちがクラウスに接触されていることを知っている。
「彼は有能な男だ。帝国への忠誠心も厚い。だが、いささか……急進的すぎるきらいがある」
伯爵は俺の目を真っ直ぐに見据える。その目は、笑ってはいなかった。
「ナオキ殿。一つ、覚えておくとよろしい。この帝国では、価値ある者ほど、多くの者から『観察』される。そして、その価値の使い方を誤れば……あっという間に喰い尽くされる」
それは警告か、それとも助言か。あるいは、新たな勢力からの誘いか。
「……肝に銘じておきましょう」
俺がそう答えるのが、精一杯だった。
* * *
屋敷からの帰り道。馬車の中は、行きとは違う意味で重い空気が漂っていた。
「……疲れた。飯食った気がしねえ」
ヒルダがぐったりと背もたれに寄りかかる。
「当然よ。あれは食事じゃないわ。言葉の戦争よ」
セーラも深いため息をついた。
直接的な危険はなかった。だが、精神的な消耗は激しかった。俺もわずかな安堵感を覚えながら、窓の外を流れるシルドの夜景を眺めていた。
だが、その時だった。
「……ナオキさん」
ライアンが、絞り出すような声で俺を呼んだ。彼の顔は、安堵とは程遠い、深い疑念に満ちている。
「どうした、ライアン?」
「……おかしいのです。あの屋敷……」
ライアンは一度言葉を切り、慎重に続ける。
「使用人の数が、あまりにも多すぎました。あの規模の屋敷だとしても、異常な数です。そして……」
彼の目が鋭く光る。
「彼らの足運びです。すれ違う者、廊下の隅に立つ者、その全員が、寸分違わぬ歩幅で、音もなく移動していました。あれは、ただの従僕にできる動きではありません」
ライアンの言葉に、俺たちの背筋を冷たいものが走った。
「あれは……高度な集団訓練を受けた兵士の動きです。我々は、もしかしたら……」
ライアンの指摘が、脳内で霧散していた違和感の数々を一つに繋ぎ合わせる。物々しい警備。値踏みする視線。そして、完璧に統率された使用人たち。
「……あの屋敷は、貴族の館じゃない」
俺は呟いた。
「あれは、砦だ。あるいは、軍事施設と言った方が近い」
蜘蛛の巣の中心だと思っていた場所は、まだ巣のほんの入り口に過ぎなかったのかもしれない。俺たちは、一体、どこへ足を踏み入れてしまったんだ?
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