第54話 黒幕
謁見の間に広がるのは、ねっとりとした鉄錆の臭いと、おびただしい量の血。豪華絢爛だったはずの広間は、狂気の画家がぶちまけた赤黒い絵の具で汚されていた。
その中央、大理石の床に転がるアッシュベルク侯爵の亡骸。そして、その傍らに、一人の男が血の海に佇んでいた。
その顔に、見覚えはなかった。
'誰だ、こいつは……'
俺は反射的に鑑定スキルを発動する。目の前に半透明のウィンドウが浮かび上がった。
[名前:レナード]
[レベル:???]
[ステータス:???]
[鑑定不可]
「……ッ!」
思わず息を呑む。名前以外の全てが文字化けしたかのように表示されない。どういう事だ......!?
だが、表示された名前に俺は戦慄した。
侯爵から逃げ出したはずの、あの小心者と噂された会計監査官。レナード。
その臆病なイメージと、目の前で悪魔のように笑う男の姿が、どうしても一致しなかった。
「……レナード?」
俺は口から、絞り出すような声が漏れた。
そうだ、レナードだ。鑑定の結果がそう示している。最強の切り札である『幽霊』が戻らないことに絶望し、侯爵から逃げ出したはずの男。
だが、目の前の男は、俺たちの知る臆病だと思えるレナードではなかった。血の海の中に立ち、侯爵の亡骸を足元に転がし、まるで主役の登場を待ちわびていた舞台役者のように、静かに俺たちを見つめている。
「……はて」
レナードは芝居がかった仕草で小さく首を傾げた。
「何やらクローウェル子爵の勢力が動いていると小耳に聞きましたが、これは驚きました。まさか、あなた方がここまで辿り着くとは。私の計算を上回る、素晴らしい働きです」
その声には、かつての気弱さなど微塵も感じられない。冷たく、底知れない響きを帯びていた。
「どういうことだ、レナード! てめえ、侯爵から逃げたんじゃなかったのか!」
ヒルダが怒声と共に構える。その全身から放たれる殺気は、謁見の間の空気をビリビリと震わせた。
「逃げる? 私が、この男から?」
レナードは心底おかしそうに肩をすくめ、足元の死体をまるで道端の石ころでも見るかのような目で見下ろした。
「冗談はやめてください。この男は、私の操り人形に過ぎませんよ。私が与えた筋書き通りに、強欲な領主を演じていただけの、哀れな道化です」
「……なんだと?」
'操り人形…だと? 侯爵が?'
今まで起きてきた全て、この男の掌の上だったというのか。
「文字通りの意味ですよ。あなた方が追い詰めたと思っていたこの男は、ただ私の指示通りに動いていただけ。……まあ、少々欲を出しすぎて、私の計画の邪魔になりましたので、処分させてもらいましたが」
その言葉に、俺たちは息を呑んだ。
恐怖に怯える小心な会計士。その姿は、全てが演技だったというのか。俺たちは最初から、この男の脚本通りに踊らされていたに過ぎない。
「ええ、その通りです、ナオキさん」
レナードはうっとりとした表情で、俺を見つめた。まるで心の中を読んだかのように。
「あなた方が私の筋書き通りに動いてくれたおかげで、実にスムーズに事が運びました。何より、あの『幽霊』……侯爵が最強の切り札と信じていたあの玩具を、あなた方が見事に始末してくれた。おかげで、後始末が本当に楽に済みましたよ」
レナードの視線が、俺の全てを正確に見透かしているかのように、俺の存在そのものを貫く。
「全ては、我がガルーダ帝国の偉大なる計画のため。このアッシュブルクは、その足掛かりに過ぎません」
「ガルーダ帝国……だと?」
ヒルダが目を見開く。それは、この国の東に位置する、領土拡大の野心を隠さない強大な軍事国家の名だった。
「さて」
レナードは血に濡れた短剣の切っ先を指で弄びながら、ゆっくりと続けた。
「あなた方には、二つの選択肢を与えましょう。一つは、ここで私に忠誠を誓い、帝国の下で新たな栄光を掴むこと。あなた方のその力、特にナオキさん、あなたの未知なる力は、帝国にとって大いに利用価値がある」
それは、甘く、毒に満ちた悪魔の誘いだった。
「……もう一つは?」
俺の問いに、レナードは三日月のように口の端を吊り上げた。
「この場で死に、侯爵殺しの大罪人として歴史に名を残すことです」
レナードは芝居がかった仕草で両腕を広げた。
「もうすぐ衛兵たちが駆けつけてきます。彼らが見るのは、血の海に倒れる敬愛すべき領主の亡骸と、血塗れの武器を手に立ち尽くす、あなた方の姿。どちらを選ぶかは、あなた方次第ですよ」
「……ふざけるな」
俺の隣で、ヒルダが静かに、しかし燃えるような怒りを込めて弓を番えた。キリリ、と矢筈が弦に噛み合う、乾いた音が響く。
「ナオキが、お前みたいな奴に付くわけないだろ!」
セーラが叫ぶ。
そうだ。俺はもう一人じゃない。
この仲間たちを、非道に堕ちてでも守り抜くと決めたんだ。
「……断る。お前の思い通りには、させない」
俺はレナードを真っ直ぐに睨みつけ、言い放った。
「そうか。それは、残念だ」
レナードの顔から、笑みが消えた。
残ったのは、温度のない、無機質な殺意だけだった。
「ならば……ここで死ね」
その言葉と同時に、レナードの姿が陽炎のように揺らぎ、掻き消えた。
* * *
「どこへ行った!?」
ヒルダが叫ぶ。俺たち全員が、全方位に神経を集中させる。
純粋な速度。だが、その速さは『幽霊』とはまた違う。鍛え上げられた武技の極致。無駄のない、殺意に満ちた動きだ。
「バルク、前だ!」
俺が叫んだ瞬間、レナードは既にバルクの目の前に出現していた。
「遅い!」
レナードの短剣が、バルクの巨大な盾の隙間を蛇のように縫って、その喉元へと突き込まれる。
キンッ、と甲高い金属音が響いた。バルクが咄嗟に兜の頤当てで受け止めた音だった。
「ちいっ!」
バルクは即座に盾を振るい、レナードを薙ぎ払おうとする。だが、レナードは蝶のように舞い、軽々とその剛腕を回避した。
彼の目的は、俺たちを殺すことではない。時間稼ぎだ。衛兵が到着するまでの。
「小賢しい真似を!」
レナードは忌々しげに舌打ちすると、次の標的をヒルダに定めた。彼は壁を蹴り、三角飛びで重力を無視したかのように一気に距離を詰める。
「させるか!」
ヒルダが矢を放つが、レナードはそれを短剣で弾き落としながら、さらに加速した。レベル35にまで上がったヒルダの動体視力ですら、その動きを完全に捉えきれていない。
'罠だ! こいつは逃げる気だ!'
仲間たちの猛攻が、逆に奴に逃げるための隙を与えている。
俺は咄嗟にマリエクを起動した。
「『粘着ネット弾』購入!」
[1発 50,000円]
【残金695万円(貸付)】
ヒルダに肉薄するレナードの進路上に、粘着性の網を発射する装置を出現させ、即座に引き金を引いた。
バシュッ!
圧縮空気が弾ける音と共に、発射された網がレナードを絡め取らんと迫る。
「ほう……面白い玩具だ!」
レナードは空中で体勢を変え、網を蹴り飛ばすと、その勢いを利用して謁見の間の椅子の裏へと着地した。
「なっ……!?」
俺たちが椅子に注意を向けた、その一瞬の隙。
ゴゴゴゴ……。
重い石が擦れる音が響き、椅子の背後の壁が静かに横へスライドしていく。
「しまった……隠し通路か!」
「では、諸君。良き終焉を」
レナードは闇の向こうへ消える直前、嘲るような笑みをこちらに向けた。
「追え!」
バルクが突進しようとするが、もう遅い。
隠し通路は、彼が飛び込んだ直後に轟音と共に完全に閉ざされた。
その瞬間だった。
遠くから、複数の角笛の音と、武装した兵士たちの怒声が急速に近づいてくるのが聞こえた。
「待て、この音は……!」
ヒルダが絶望的な声を上げる。
「衛兵だ! もうここまで来やがった!」
俺たちの背後で、謁見の間の巨大な両開きの扉が、凄まじい音を立てて乱暴に蹴り破られた。
「侯爵閣下を殺した賊はここか! 全員、武器を捨てて投降しろ!」
雪崩れ込んできたのは、完全武装の衛兵たち。
彼らの目に映るのは、血の海に沈む領主の亡骸と、その中心で武器を構えたまま立ち尽くす、俺たち四人の姿だった。
'……完璧な、罠だ'
残金695万円(貸付金1,000万円、期限:残り6日)
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