第53話 豹変
俺は夜の闇にそびえ立つ、巨大な屋敷の城壁を見上げた。
奇襲をかける。その言葉の裏にある本当の意味を、仲間たちは即座に理解したのだろう。三者三様の緊張が、ぴりぴりと肌を刺す。
「正面から行く。だが、扉を叩いて名乗るほどお人好しじゃない」
俺はマリエクの検索ウィンドウに意識を集中させた。
'軍事知識パックで得た情報通りなら、一点に爆発の威力を集中させる指向性の爆薬があるはずだ。壁を破るには、それが一番効率的だ'
「マリエク、検索。『指向性爆薬、M5A1』」
[M5A1指向性爆薬パック。価格、金貨1枚(100,000円)]
[設置用粘着シート及び遠隔起爆装置セット。価格、金貨1枚(100,000円)]
[- 転送機能の失敗率 (ランクC: 10%)]
「……購入」
【残金720万円(貸付)】
[転送に失敗しました。]
「ちっ……! この一番大事な時に!」
’90%の期待値でも外れるってか...’
舌打ちし、俺はもう一度強く念じる。
「もう一度だ!購入!」
【残金700万円(貸付)】
また増える借金に一瞬眩暈がしたが、今は躊躇している場合ではない。
アイテムボックスから取り出したのは、粘土のような質感の爆薬ブロックと、小さな起爆装置だった。現代兵器の無機質な塊が、このファンタジー世界にはあまりにも不似合いだ。
「おい、ナオキ。そいつは……!?」
ヒルダが目を見開く。その横で、バルクもゴクリと喉を鳴らした。
「俺の特殊なスキルなんでな。派手な挨拶には、派手な花火が必要だろ?」
俺は城壁の分厚い石が組み合わさった、構造的に最も脆そうな一点に近づくと、手際よく爆薬を設置していく。仲間たちが周囲を警戒する中、作業は数分で終わった。
俺たちは壁から十分な距離を取り、物陰に身を潜める。
「全員、耳を塞いで口を開けろ。衝撃波が来るぞ」
俺は小さなリモコンのスイッチに指をかけた。
そして、躊躇なく押し込む。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、世界から音が消えた。空気がぎゅっと圧縮されるような圧迫感。遅れて、腹の底を揺さぶり、骨の髄まで震わせるような轟音が鼓膜を叩いた。
ズドオオオオオオオオンッ!
爆薬を設置した一点を中心に、堅牢だったはずの城壁が内側から弾け飛ぶように崩れ落ちる。土煙と石の破片が嵐のように吹き荒れ、直径数メートルの巨大な穴が、奈落へと続く黒い口を開けていた。
「よし、行くぞ! 突入だ!」
俺の号令を合図に、巨大な盾を構えたバルクを先頭にして穴の中へ駆け込む。
屋敷の庭は静まり返っていた。あれだけの爆音だ。警報が鳴り響き、護衛たちが四方八方から駆けつけてくるはずだった。
だが、何も起きない。まるで時が止まったかのように、不気味な静寂が広がっている。
「……静かすぎる」
セーラが短剣を構え、警戒しながら呟いた。その声は、張り詰めた空気に吸い込まれていく。
「ああ。罠の可能性が高い。気を抜くな」
俺たちは戦闘隊形を維持したまま、屋敷の玄関ホールへと慎重に歩を進める。
そこに広がっていたのは、予想だにしない光景だった。
「……なんだ、これは」
玄関の重厚な扉の前で、一人の警備兵が仰向けに倒れていた。
その喉は鋭利な刃物で一文字に切り裂かれ、床の豪華な大理石にはどす黒い血だまりが広がっている。
ヒルダが屈み込み、死体を素早く検分した。
「……一瞬だ。抵抗した跡が全くない。相手に気づく間もなく、喉を掻き切られてる。プロの仕事だ」
「奇襲か。だが、警報も鳴らさずにやられたのか?」
俺の疑問に、ヒルダは首を横に振った。
「それだけじゃない。妙だ。匂いが……この濃い血の匂い以外、何もかもが静かすぎる。まるで、死んだ街みたいだ」
その言葉が、俺たちの背筋を凍らせた。
これは、俺たちが想定していた戦闘ではない。
もっと別の、底知れぬ何かが、この屋敷で既に起きていたのだ。
* * *
屋敷の内部は、ヒルダの言葉を裏付けるかのように、死の静寂に満ちていた。
そして、鼻を突き、思考を麻痺させるほどの濃密な血の匂いが立ち込めていた。
「……ひどい」
セーラが口元を覆う。
豪華な絨毯が敷かれた廊下を進むと、そこには警備兵たちの死体が折り重なるように転がっていた。誰もが、玄関の兵士と同じように、喉を切り裂かれている。ある者は壁にもたれかかったまま、ある者は助けを求めるように手を伸ばしたまま絶命していた。
壁には無数の血しぶきが飛び散り、まるで狂気の画家が描いた悪趣味な抽象画のようだ。
「一方的な……虐殺だ」
バルクが、苦々しい声で吐き捨てた。
彼の言う通りだった。どの死体にも、まともに戦った形跡がない。武器を抜く間もなかったのか、あるいは、抜いたところで意味がなかったのか。
「こんなの……戦いじゃない。ただ殺されてるだけじゃないか……」
セーラの声が震えている。彼女も多くの死線を超えてきたはずだが、この異常な光景には精神が揺さぶられているようだった。
'誰がやった?'
『幽霊』がやられた後、侯爵がこれほどの使い手を他に隠し持っていたとは考えにくい。
外部からの侵入者か? だとしたら、目的は何だ? レナードの裏帳簿か? いや、それならこんな大掛かりな虐殺は必要ない。
「ナオキ、こっちだ」
ヒルダの声に、俺は思考を中断した。彼女は獣のように鼻をひくつかせながら、二階へと続く大階段を指差していた。
「血の匂いは、上から来てる。一番濃いのは……主が座る、謁見の間だ」
「……そうか」
全ての惨劇の終着点。
俺たちは無言で頷き合い、血で滑る床に注意しながら階段を上り始めた。
一歩進むごとに、鉄錆のような血の匂いが濃くなっていく。
俺たちの足音だけが、不気味に静まり返った屋敷に響き渡っていた。
やがて、巨大で豪奢な両開きの扉の前にたどり着く。
謁見の間だ。
扉の隙間から、濃密な死の匂いが粘つく空気となって漏れ出していた。
「……行くぞ」
俺が短く告げると、バルクが頷き、巨大な扉に手をかけた。
ギィィィ……と、錆びついた鉄が擦れるような重い音を立てて扉が開かれていく。
そして俺たちは、その部屋の中心で起きた、惨劇の結末を目の当たりにした。
* * *
広大な謁見の間。
その中央に鎮座する、華美な装飾が施された主の座。
そこに、一人の男が深く腰掛けていた。
アッシュベルク侯爵、その人だ。
だが、彼はもう動かない。
その首はありえない角度に折れ曲がり、着ている豪華な衣服は自らの血で赤黒く染まっていた。虚ろな目が、天井の一点を呆然と見つめている。
「侯爵……」
誰かが、か細い声で呟いた。
牙を抜かれた獅子は、俺たちが手を下すまでもなく、既に息絶えていた。
だが、俺たちの視線は、その亡骸に釘付けになったのではない。
その椅子の傍らに、静かに佇む一人の人影。
血の海の中に、まるで何事もなかったかのように、その男は立っていた。
'まさか……'
そこにいたのは、小柄で貧相な背中をした男だった。
「……お前は誰だ」
俺の口から、訝しむ声が漏れた。
「なぜ、こんな場所にいる」
俺たちの問いかけにも、男は背を向けたまま答えない。ただ、足元に転がる侯爵の亡骸を無感動に見下ろしているだけだ。一体、誰なんだ、こいつは。
俺の声に、男がゆっくりとこちらへ振り返る。
その顔は、侯爵のものと思われる返り血でまだらに濡れていた。
その手には、血に濡れて鈍く光る短剣が握られている。
そして、その口元が、歪んだ。
三日月のように、冷たく、残忍な笑みが浮かび上がった。
そして、その顔は底知れぬ悪意に満ちた笑みだった。
残金700万円(貸付金1,000万円、期限:残り6日)
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