第49話 絶望と蜘蛛の糸
「……え?」
セーラの口から、間の抜けた声が漏れる。
彼女は自分の胸から突き出た黒い切っ先を、信じられないという目で見つめていた。
「が、はっ……」
短剣が引き抜かれると同時に、セーラの体から力が抜け、糸が切れた人形のように崩れ落ちていく。
「セーラッ!」
俺は建物の影から飛び出した。怒りで目の前が真っ赤に染まる。
「てめえええっ!」
獣じみた咆哮を喉から迸らせていた。
その絶叫に弾かれたように、壁にめり込んでいたバルクが動いた。凄まじい力で自らを引き剥がし、巨大な盾を構え直すと、白い人影に再び突撃した。屋根の上からも、ヒルダが矢を雨のように降らせた。
だが、無意味だった。
バルクの突撃も、ヒルダの矢も、再び人影をすり抜けていく。
「くそっ! 当たらねえ!」
ヒルダの焦った声が響いた。
俺は崩れ落ちたセーラに駆け寄る。
「セーラ! しっかりしろ!」
「ナオ……キ……?」
セーラの顔は青白く、唇は紫色に変色し始めていた。傷口から流れる血はどす黒く、その周囲の皮膚は壊死したかのように黒ずんでいる。
'毒か……!'
鑑定するまでもない。即効性の、強力な毒だ。
「……さむ、い……」
セーラの手が、俺の服を弱々しく掴む。その指先から急速に体温が失われていくのが分かった。
「喋るな! すぐに手当を……」
「……逃げ、て……」
「馬鹿を言うな!」
俺たちの前で、白い人影がゆっくりとこちらに顔を向けた。小麦粉にまみれたその顔には、何の感情も浮かんでいない。ただ、次の獲物を見定めるかのように、冷たい視線を俺とセーラに注いでいる。
「邪魔だ」
バルクが盾を捨て、巨大な拳で殴りかかった。これもすり抜ける。だが、彼は構わず何度も何度も、幻影に向かって拳を振るい続ける。
「うおおおおおっ!」
その隙に、ヒルダが屋根から飛び降り、俺の肩を掴んだ。
「ナオキ、撤退するぞ! このままじゃ全滅だ!」
「だが、セーラが!」
「分かってる! だからこそ、一度引くんだ!」
ヒルダはセーラの腕を自分の肩に回し、無理やり立たせようとする。だが、セーラの足はだらりと垂れ下がるだけだった。
「……だめだ。力、が……」
セーラの意識が、急速に遠のいていく。
'どうする。どうすればいい。この化け物からどうやって逃げる? どうやってセーラを助ける?'
思考が焦りで絡みつく。
計画は、完璧に打ち砕かれた。俺の浅はかな作戦が、仲間を死地に追いやったのだ。
その時だった。
俺の視界の端に、白い人影の足元が映った。
バルクの攻撃を避けるためにわずかに動いたその足跡が、石畳の上に、べったりとした白い跡を残している。
小麦粉。俺がぶちまけた、小麦粉だ。
'……待てよ。なぜ、小麦粉が奴の体に付着している?'
透過するなら、小麦粉もすり抜けるはずだ。
だが、現に奴は白く染まっている。
それは、奴の体が完全な「無」ではない証拠。物理干渉をすり抜ける際、ごく微細な粒子だけが奴の存在にまとわりつく性質があるのかもしれない。
'ただの小麦粉ですら付着する。なら、もっと微細な粉末で、視界と呼吸を同時に奪い、奴の全身を覆い尽くせば……!'
思考が閃く。
火を消すための、あらゆる隙間に入り込む、あの白い粉。
'消火器だ!'
絶望の淵で見つけた、蜘蛛の糸よりも細い可能性だった。
「ヒルダ! バルク! 時間を稼げ! ほんの数秒でいい!」
「何をする気だ!」
「いいから!」
俺はマリエクを全力で起動した。脳が焼き切れそうなほど意識を集中させる。
'検索! ABC粉末消火器、業務用!'
[業務用ABC粉末消火器10型。価格、3,000円/本!]
'この粉末は、目に入れば失明の危険があり、吸い込めば呼吸器に深刻なダメージを与える!'
俺は一本、自分の手元に出現させた。真っ赤な消火器を掴むと同時に安全ピンを引き抜き、レバーを力任せに握りしめる。
プシュウウウッ!
猛烈な勢いで噴射された白い粉末が、人影に向かって殺到した。
「ごほっ、なんだこれは!?」
初めて、白い人影から焦りの声が漏れる。だが、一本では足りない。奴は後退し、粉の射程から逃れようとする。
「逃がすか!」
俺はさらに追加の消火器を、奴を取り囲むように路地中に出現させた。そして、一本を抱えたまま、出現した消火器に向かって突進する。
「全部食らいやがれぇ!」
俺は走りながら、次々と消火器の安全ピンを抜きレバーを握った。
プシュウウウウウウウッ!
俺の無茶苦茶な起動に応え、四方八方から白い粉末が時間差で噴射される。路地は一瞬にして、視界も呼吸も奪う化学物質の地獄へと変わった。
小麦粉とは比較にならない超微粒子が、逃げ場を失った奴の全身に付着し、その輪郭を白日の下に晒していく。
「やったぞ! あいつ、動けてねえ!」
ヒルダが息を呑んで叫ぶ。男は咳き込み、視界を奪われて体勢を崩している。
「今だ! マリエク、『ネットランチャー』!」
[対人用拘束ネットランチャー。価格、15,000円!]
俺が叫ぶと同時に、手元に捕獲用の網を発射する装置が出現した。躊躇なく引き金を引く。
バシュッ!
発射された網が、白い粉にまみれた男に完璧に絡みついた。
「捕らえたぞ!」
安堵が、俺たちの間に広がった。
だが、それは一瞬で打ち砕かれた。
「……面白い」
くぐもった声が、網の中から響く。
ブチブチブチッ!
耳障りな音を立てて、特殊繊維で編まれたはずの網が内側から引き千切られていく。
「まずい、拘束が破れる!」
「今だ! 叩き潰せ!」
ヒルダの叫びと同時に、バルクが今度こそ実体のある敵に向かって、捨てたはずの盾を拾い上げ、渾身の力で突進した。
「おおおおおっ!」
だが、その突進が命中するよりも早く、男の体から黒いオーラが爆発した。
絡みついた網の残骸と、体に付着した粉末を内側から粉々に吹き飛ばし、中から現れたのは、黒い戦闘服に身を包んだ一人の男だった。
これまで隠されていた素顔は、驚くほど若く、整っている。だが、その瞳には、もはや人間的な感情は一切なかった。
あるのは、獲物を前にした捕食者の、冷たく燃える殺意だけだ。
「貴様らのような玩具に、ここまで楽しませてもらうのは久しぶりだ」
男――『幽霊』は、ゆっくりと首を鳴らす。
ゴキッ、と骨の音がやけに大きく響いた。
「礼を言おう。おかげで、ようやく本気で遊べる」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男の姿が消えた。
「――どこへ!?」
ヒルダが叫ぶ。
「上だ!」
俺が叫んだ時には、男はすでにバルクの頭上にいた。
バルクの突進の勢いを、肩を軽く踏むだけで利用し、高く跳躍していたのだ。
「遅い」
空中から放たれた回し蹴りが、バルクの構える大盾に叩き込まれる。
ゴオオオオン!
教会の鐘を内側から叩き割るような、凄まじい轟音が響き渡った。
バルクの巨体が、いとも簡単に数メートルも吹き飛ばされる。大盾には、ブーツの形をした明確な亀裂が刻まれていた。
「バルク!」
「ぐっ……、化け物、め……!」
瓦礫に叩きつけられたバルクが、苦悶の声を上げる。
実体化した『幽霊』の身体能力は、俺たちの予測を、絶望的なまでに上回っていた。
男は猫のようにしなやかに着地すると、次の標的を定めた。
屋根の上のヒルダだ。
彼は一瞬屈んだかと思うと、壁を垂直に駆け上がり始めた。重力を無視したかのような、ありえない機動。
「させるか!」
ヒルダが矢を番えるより早く、俺はマリエクで次の手を打つ。
「『粘着シート』! 足元に!」
男の進路上に、ネズミ捕りのような巨大な粘着シートが出現する。
だが、男は壁を蹴る角度をわずかに変えただけで、それを容易く回避した。
「小賢しい!」
彼は屋根の縁に手をかけると、そのまま体を持ち上げ、ヒルダの懐に一瞬で潜り込む。
「しまっ――!」
ヒルダの反応は、間に合わなかった。
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