第48話 幽霊狩りの策謀
ザハルの目は、俺たちが本気だと悟ると、抜け目のない老獪な商人のそれに戻っていた。
「……『幽霊』か。厄介な相手だ」
「何か知っているんだな?」
「噂だけだ。奴に近づいた者は、朝には冷たくなっている。だが、一つだけ確かなことがある」
ザハルは人差し指を一本立てた。
「会計監査官レナードは、筋金入りの臆病者だ。毎日、決まった時間に、決まった道順で、寸分違わず屋敷と執務室を往復する。奴にとって、それが唯一の心の平穏を保つ儀式だからな」
「そのルートを教えろ」
「よかろう。だが、忠告はしたぞ。幽霊狩りなんぞ、正気の沙汰じゃない」
ザハルは羊皮紙に簡単な地図を走り描き、俺に渡した。その目には、死地へ向かう者への哀れみと、結末を見届けたいという好奇が混じり合っていた。
* * *
俺たちは地下市場を後にし、アッシュブルクに確保した安宿の一室に戻った。ランプの頼りない光が、テーブルに広げた地図と、俺たちの真剣な顔をぼんやりと照らしている。
「ザハルの情報通りなら、レナードはこの裏通りを必ず通る」
俺は地図の一点を指差した。人通りが少なく、両側を高い建物に挟まれた薄暗い路地だ。
「ここで仕掛ける。だが、本当のターゲットはレナードじゃない」
俺は仲間たちの顔を順に見回した。
「狙うのは、その護衛、『幽霊』だ」
「……正気か?」
ヒルダが、呆れたような、それでいて面白そうな声で言った。
「護衛だけを先に引き剥がすってこと? そんな危険な……」
セーラの声には、隠しきれない不安が滲んでいる。バルクは黙って俺の次の言葉を待っていた。
「ああ、危険だ。だが、一番確実な方法でもある。幽霊がいる限り、レナードには近づけない。帳簿も奪えない。なら、先に邪魔者を排除するしかない」
「しかし、相手は姿が見えないんだろ? どうやって戦うつもりだ?」
ヒルダの問いに、俺は口の端を吊り上げた。
「見えないなら、見えるようにすればいい」
俺は作戦の骨子を説明し始めた。
まず、セーラが襲撃者を装ってレナードの馬車を襲う。ただし、本気でやる必要はない。あくまで隙だらけの、素人じみた襲撃を演じる。
「相手がプロの暗殺者なら、その隙を必ず突いてくるはずだ。セーラを仕留めようとな」
「あたしが、おとりに……」
「そうだ。だが、お前はやられない。バルクが守るからな」
俺は壁際に立つ巨漢に視線を送った。
「バルクの『守護領域』は、範囲内の味方への物理ダメージを20%軽減する。幽霊の一撃がたとえ致命傷レベルでも、この領域内なら耐えられる可能性がある」
バルクが重々しく頷く。
「……必ず守る」
「幽霊がセーラを攻撃した瞬間、奴は位置を特定される。ヒルダ、あんたの鼻でな」
「なるほど」とヒルダが頷く。「殺気と血の匂い。一瞬でも攻撃に移れば、匂いで場所が割れる」
「ヒルダが位置を特定したら、俺が『見える』ようにする。そして、動きを止めたところを全員で叩く。これが『幽霊狩り』の全貌だ」
部屋に重い沈黙が落ちる。
あまりにも綱渡りな計画だ。一つでも歯車が狂えば、誰かが死ぬ。
「……分かった。やるよ」
沈黙を破ったのはセーラだった。
「ナオキがそこまで考えてくれたなら、あたしは信じる。おとり役、やってやる」
俺は、そんな彼女をまっすぐに見つめた。
「セーラ。辛い役目を頼むことになる。……仲間を信じるのが、どれだけ怖いことか、俺には分かるつもりだ」
俺の言葉に、セーラの肩がかすかに揺れる。
「だが、約束する。俺たちは、絶対にお前を見捨てない」
セーラは一瞬目を見開いたが、すぐにふっと笑みを浮かべた。それは、迷いが晴れたような、とても綺麗な笑顔だった。
「うん。……知ってる。だから、信じられるんだよ、ナオキのこと」
その瞳には、もう不安の色はなかった。覚悟が決まっていた。
「面白くなってきたじゃないか」
ヒルダが不敵に笑う。
「見えない暗殺者狩りか。斥候稼業の血が騒ぐぜ」
俺たちは頷き合い、決戦に向けて静かに準備を整えた。
* * *
夕暮れ時。
レナードが通るという裏路地に、俺たちは息を潜めていた。
建物の屋根にヒルダ、路地の角にバルクとセーラ。俺は、いつでもマリエクを起動できるよう、向かいの建物の影に身を隠している。
'心臓の音がやけにうるさい'
冷たい石壁に背を預けながら、俺は深く息を吸った。
失敗は許されない。一度きりのチャンスだ。
屋根の上で、ヒルダの鼻先が微かにひくついているのが見えた。彼女のユニークスキルが、この淀んだ街の空気から、獲物の匂いを嗅ぎ分けようとしている。
バルクは巨大な盾を背負ったまま、石像のように微動だにしない。だが、その全身から放たれる圧が、彼の『守護領域』がいつでも展開できる状態にあることを示していた。
やがて、遠くから馬車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてきた。
一台だけだ。
護衛の兵士を連れていない、簡素な馬車。
'……来たか'
屋根の上のヒルダが、音もなく手で合図を送る。
間違いない。レナードの馬車だ。
緊張が極限まで高まる。
俺はマリエクの検索画面を脳裏に浮かべ、目的のアイテムをいつでも取り出せるように意識を集中させた。
馬車が、ゆっくりと路地に入ってくる。
御者以外、誰も乗っていないように見える。
だが、いる。
ザハルの言葉と、この場の肌を刺すような緊張感が、見えない脅威の存在を告げていた。
セーラが短剣を握る手に力を込めたのが分かった。
バルクの肩が、わずかに動く。
馬車が、俺たちの定めたキルゾーンの中央に差し掛かった、その瞬間。
「――今だ!」
俺の小声の合図と同時に、セーラが路地の角から飛び出した!
* * *
「はあっ!」
セーラは馬車の前に躍り出て、わざと大振りな動きで御者席に斬りかかる。誰が見ても分かる、隙だらけの襲撃だ。
「な、なんだ貴様は!」
御者が驚き、手綱を引く。馬がいななき、その場に停止した。
その瞬間だった。
キィン!
何もない空間から、甲高い金属音が響いた。セーラの短剣が、見えない何かを弾いた音だ。
「くっ……!」
セーラの手が痺れ、体勢がわずかに崩れる。
予測通りの攻撃。だが、その速さと重さは想像を遥かに超えていた。
'どこだ!'
俺が視線を巡らせるより早く、屋根の上のヒルダが叫んだ。
「右! 馬車の影の中だ!」
その声と同時に、俺はマリエクを起動した。
「マリエク! 『業務用小麦粉25kg』と『小型CO2ボンベ』!――食らえ!」
俺の目の前に出現した巨大な紙袋と金属ボンベ。俺は躊躇なくボンベのバルブを捻り、ノズルを小麦粉の袋に突き刺した。
ブシュウウウッ!
圧縮されたガスが、一気に小麦粉を吹き飛ばす。
白い粉塵が爆発的に広がり、路地全体が真っ白な煙幕に包まれた。
「な、何事だ!?」
御者の悲鳴が聞こえる。
そして、その白い闇の中に、ぼんやりと一つの人影が浮かび上がった。
馬車の影に潜んでいた、細身の人影。全身が小麦粉にまみれ、その輪郭を白日の下に晒している。
「見えたぞ!」
俺が叫ぶ。
「うおおおっ!」
その人影に向かって、壁のようにバルクが突進した。巨大な盾を前面に押し出し、逃げ場のない路地で相手を壁ごと圧殺する構えだ。
連携は完璧だった。
これで動きを封じられる!
* * *
白い粉塵の中で、人影はバルクの突進を避ける素振りも見せなかった。
'馬鹿な、諦めたのか!?'
そう思った瞬間、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。
バルクの巨大な盾が、白い人影を――すり抜けた。
「なっ……!?」
誰かの驚愕の声が響く。俺も言葉を失った。
殴りつけたのではない。防がれたのでもない。まるで幻に触れるかのように、バルクの質量とパワーが、人影を素通りしたのだ。
ガッシャアン! と、バルクは勢い余って向かいの建物の壁に激突した。
'物理攻撃が効かない? いや、透過した……?'
俺の脳が理解を拒む。
バルクの『守護領域』さえ、この現象には何の意味もなさなかった。
「まずい!」
ヒルダの焦った声が屋根から響く。
「消えた! いや、移動した! セーラの後ろだ!」
俺は弾かれたように視線を向けた。
粉塵が晴れ始めた路地の中央。
おとり役を終え、呆然と立ち尽くすセーラの、その背後に。
音もなく、白い人影が実体化していた。
その手には、小麦粉にまみれた濡れたような黒い短剣が握られている。
「セーラ、伏せろっ!」
俺の絶叫は、間に合わない。
俺の絶叫が、裏路地に虚しく響き渡る。
'間に合わない。'
その事実だけが、スローモーションのように脳内で引き伸ばされていく。
ザシュッ、と肉を裂く鈍い音がした。
音もなく現れた白い人影。その手が振るう濡れたような黒い短剣が、セーラの背中に深々と突き刺さっていた。
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