第47話 灰の街アッシュブルクと影の商人
丘の上の屋敷を、俺はただじっと見ていた。
あの場所に、この領地の絶望を生み出した元凶、アッシュベルグ侯爵がいる。
「行くぞ」
俺の短い言葉に、三人が無言で頷いた。
アッシュブルクの城門はフェルムとは比べ物にならず、巨大で威圧的だ。分厚い鉄で装飾された門を、物々しい鎧姿の兵士たちが固めている。俺たちは他の旅人や商人に紛れ、列に並んだ。
「ナオキ、見て。あの人たち……」
セーラが小声で囁く。彼女の視線の先では、商人たちが兵士に荷を乱暴に改められていた。兵士たちは荷車から品物をいくつか無造作に取り上げては、自分の懐に入れている。
「街に入るための『通行税』ってわけか」
ヒルダが吐き捨てる。商人は何も言えず、悔しそうに顔を伏せるだけだ。逆らえばどうなるか、嫌というほど分かっているのだろう。
やがて俺たちの番が来た。
「止まれ。身分を示すものはあるか」
兵士の目が、値踏みするように俺たちを舐め回す。
「旅の者だ。クローウェル子爵領から来た」
俺が子爵の名を出すと、兵士の眉がピクリと動いた。
「クローウェルだと? フン、あんな田舎から何のようだ」
「商売の種を探しに」
俺はあらかじめ用意しておいた銀貨数枚を、兵士の手に握らせた。賄賂だ。兵士は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに銀貨を懐にしまうと、下卑た笑みを浮かべた。
「よし、通れ。だが、街で騒ぎを起こすなよ。ここのやり方は、厳しいからな」
俺たちは足早に門をくぐり抜けた。背後で兵士たちの嘲笑が聞こえたが、振り返らない。
街の中は、想像以上に淀んでいた。
道は広く石畳も整備されているが、活気がない。道行く人々の目は虚ろで、誰もが足早に、誰とも視線を合わせないように歩いている。
道の真ん中を闊歩するのは侯爵の兵士たちだけで、市民を見下しては因縁をつけている。
「おい、てめえ、今こっちを見たな?」
「い、いえ、滅相もございません……!」
「嘘をつくな!」
殴り倒される商人。散らばる商品。誰も助けようとはせず、見て見ぬふりで通り過ぎていくだけだ。
'ひどいものだ。恐怖政治そのものじゃないか'
正面から侯爵の屋敷に乗り込むのは自殺行為に等しい。この街全体が、侯爵の巨大な牢獄というわけか。
「どうする、ナオキ。このままじゃ……」
セーラが不安そうな顔で俺を見る。
「ああ。少し考えを変える必要があるな」
俺は立ち止まり、仲間たちに向き直った。
「この街の民衆を味方につけるのは後だ。まずは、奴の罪を白日の下に晒す。俺たちの目的は、侯爵の不正の証拠を掴み、王家に突き出すこと。奴を法の下で裁かせる」
俺の言葉に、三人の顔に緊張が走る。その危険性を、全員が理解したからだ。
「そのためには情報が必要だ。この街の『影』に接触する」
俺はヒルダに視線を送った。
「あんたの鼻が頼りだ」
ヒルダは自信ありげに口の端を吊り上げる。
「任せな。この灰色の街にも、隠しきれない匂いってもんがあるはずさ」
* * *
俺たちは人目を避け、悪臭漂う裏路地へと入った。建物の影が伸び、昼間だというのに薄暗い。
「さて、と」
ヒルダは目を閉じ、ゆっくりと空気を吸い込んだ。
「どんな匂いだ?」
「……色々混じってる。恐怖、諦め、腐った食い物。だが、その奥に……微かに、違う匂いがある」
「違う匂い?」
「ああ。隠された酒、禁制品の薬草、そして……よそ者の匂いだ。侯爵の兵隊じゃない、もっと油断ならない連中のな」
匂いの元を追えるか、と聞くと、ヒルダは「当然だ」とだけ答え、猫のようにしなやかな足取りで歩き出した。俺たちは音を殺して後を追う。
彼女は時々立ち止まり、壁の染みや地面の痕跡を確かめながら進む。やがて、一軒の寂れた建物の前で足を止めた。看板には「古物商」とあるが、店先にはガラクタ同然の品が並んでいるだけだ。
「ここか?」
「いや、カモフラージュだ。匂いの元は、この地下から漏れてきてる」
ヒルダは建物の脇にある、苔むした石の階段を指差した。重厚な木の扉が地下への道を閉ざしている。
「間違いない。ここが、この街の裏社会への入り口だ」
見張りはいないが、扉そのものが人を拒絶しているようだった。
「どうやって入る?」
セーラが尋ねる。俺が考え込んでいると、ヒルダが懐から一枚の奇妙な形の銅貨を取り出した。
「こういう時のための『お守り』さ。クローウェル様から預かってきた」
彼女が扉の覗き窓に銅貨をかざすと、中から金属が擦れる音がした。やがて重い錠が外れる音が響き、扉がゆっくりと内側へ開く。
「……来い」
扉の隙間から、低い男の声がした。
* * *
地下へ続く階段は湿ったカビの匂いがしたが、降りきる頃には別のものに変わっていた。汗、酒、香辛料、そしてむせ返るような熱気。
足を踏み入れた先は巨大な地下空間だった。薄暗い天井からのランプが、雑然とした市場を照らしている。
「うわ……」
セーラが小さく声を漏らした。
様々な人種が行き交い、怒号と笑い声が飛び交う。露店には表ではお目にかかれない武器や薬草、怪しげな品々が並ぶ。混沌とした活気に満ちた、まさに地下社会だ。
俺たちを出迎えた大柄な男が、顎で奥を示した。
「こっちだ。ボスがお待ちだ」
男は何も言わずに歩き出す。市場の人間たちは俺たちを一瞥するが、それ以上関わろうとはしない。
市場の最も奥、一段高くなった場所に、一際大きな天幕が張られていた。
案内役の男が、天幕の入り口で立ち止まる。
「ボス、連れてきました」
「……入れ」
天幕の中から、しわがれた声が聞こえた。俺はセーラとヒルダに目配せし、バルクを背後に控えさせ、中へ入った。
内部は様々な香が焚かれ、壁には異国の織物が掛かっている。その中央、豪華なクッションに埋もれるようにして、一人の老人が座っていた。
痩せこけてはいるが、眼光は剃刀のように鋭い。この地下市場を支配する男の風格が漂っていた。
「……お前さんが、クローウェルの使いか」
老人は、俺の顔を見るなりそう言った。
「あんたがここの頭か」
「いかにも。ワシはザハルと申す。それで、何の用だ? あの堅物騎士が、こんな場所に何の用で使いを寄越した?」
「俺は騎士の使いじゃない。俺自身の意志で来た」
「ほう?」
ザハルの目が、興味深そうに細められた。
* * *
「アッシュベルグ侯爵がクローウェル子爵領で行っている、数々の不正の証拠を探しに来た。その情報を売ってほしい」
俺が単刀直入に言うと、ザハルは喉の奥でくつくつと笑った。
「面白い冗談だ。我らが侯爵に逆らって、何の得がある?」
「得ならある。侯爵がいなくなれば、この街の表も裏も、あんたたちのものになる。俺たちはそれに干渉しない」
「……口約束だけではな」
「クローウェル子爵の約束ならどうだ?」
俺の言葉に、ザハルの動きが止まった。ヒルダが一歩前に出て、懐から子爵家の紋章が刻まれた印章を静かにテーブルに置く。
ザハルの目が、印章と俺たちの顔を交互に見た。
「……なるほど。本気というわけか」
彼は老獪な商人の顔で身を乗り出した。
「それで、具体的に何を知りたい?」
「グルフ周辺でのカオリンの違法採掘。兵士を盗賊に偽装させての街道封鎖。そして、フェルムの井戸への毒物混入。心当たりはあるはずだ」
俺が罪状を並べ立てると、ザハルは忌々しげに顔を歪めた。
「……随分と詳しく知っているな、若いの」
「あんたが知っていることを全て話せ。見返りは約束する」
ザハルはしばらく沈黙し、やがて重々しく口を開いた。
「それら全ての裏で糸を引いている男がいる。侯爵の屋敷にいるレナードという会計監査官だ。表向きはただの文官だが、奴こそが侯爵の汚れ仕事の全てを管理している」
「レナード……」
「そうだ。カオリンの密売で得た利益も、街道を封鎖している『盗賊』への報酬も、フェルムで使われた毒を手配した金の流れも……その証拠となる裏帳簿は、全て奴が握っている。奴を捕らえ、帳簿を奪えば、侯爵の息の根を止められるだろう」
俺はその名を反芻した。全ての悪事の結節点。
「だが、気をつけろ」
ザハルの声が、一段と低くなる。
「レナードはただの文官じゃない。奴の周りには常に護衛がいる。姿は見えないが、確実にだ。奴に近づこうとして、翌日死体で発見された者は何人もいる」
ザハルは俺の目をじっと見据えた。
「その護衛は『幽霊』と呼ばれている。姿なく、音なく、標的を始末する暗殺者だ」
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