第44話 フェルム再生、反撃の狼煙
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何もない空間が歪み、巨大な金属製の装置と、無数の段ボール箱が広場の一角に積み上がった。
周囲が静まり返る。
ヒルダが目を見開いた。
「なっ……」
バルクの手が、反射的に盾の柄へ伸びる。
ゲルトの部下たちでさえ、口を開けたまま固まった。
「驚くのは後だ!」
俺は箱の一つを蹴るように示した。
「全員、よく聞け! 今からこの町の心臓部を治療する。だが、これは奇跡じゃない。手順を間違えれば死ぬ。奪い合えば死ぬ。勝手に飲ませても死ぬ可能性がある!」
あえて大声で言った。
希望だけを撒けば、人は群がる。
恐怖も一緒に伝えなければ、秩序は保てない。
「セーラ、ヒルダ。防護具を着けろ。手袋と布を口に当てる。病人に触れる者は全員だ」
「わ、分かった!」
「了解」
「ゲルト! 物資を勝手に取らせるな。配布場所を三つ作る。重症、軽症、待機だ。商団の者を番に置け」
「任せろ!」
「バルク! 井戸周りを封鎖する。だが、殴るな。押し潰すな。盾で壁を作れ。人を殺さず止めろ」
バルクは黙って頷き、巨大な盾を地面に突き立てた。
「セーラは経口補水液。まずは意識がある者だけだ。飲めない者に無理に流し込むな。」
俺はまず、抗生物質と経口補水液の箱を指差した。
ES-1は〇ジョージさんがCMでやっていたやつだ。飲む点滴と言われているしな。
「うん!」
「ヒルダは俺の補助。動ける者を使って水質検査を手伝わせる。毒の種類と、感染の有無を見たい」
「感染?」
「毒だけなら中和で済む。だが、井戸に腐敗物や汚物を混ぜられていたら、毒を消しても腹を壊して死ぬ」
ヒルダの顔から軽口が消えた。
「……なるほど。水が透明になれば終わり、ではないわけか」
「そういうことだ」
俺は簡易検査キットを開け、井戸から汲んだ濁水を小瓶に取った。
試薬を落とす。
色が変わる。
[簡易検査結果]
[毒物反応:陽性]
[腐敗性有機物:陽性]
[細菌汚染反応:陽性]
[重金属反応:陰性]
[推定危険度:極めて高い]
[推奨:飲用禁止。毒物吸着、沈殿処理、煮沸または高度濾過。重症者は補水優先。抗菌薬は高熱・血便・意識混濁など重症例に限定]
やはりか。
毒だけではない。
水そのものが腐っている。
「抗菌薬は全員に配らない!」
俺は声を張った。
「重症者だけだ。高熱、血便、意識が混濁している者、腹痛がひどい者を優先する。軽症者にはまず補水。薬は毒にもなる。勝手に飲ませるな!」
セーラが真剣な顔で頷いた。
「ナオキ、あたし、見分けられるかな」
「一人で判断するな。迷ったら俺か、子爵側の治療師を呼べ。『分からない』で止めるのは悪いことじゃない」
「分かった」
俺は浄化システムへ向かった。
現代なら、説明書を読みながら落ち着いて組むべき装置だ。
だが、ここにそんな余裕はない。
俺は太いホースを井戸へ投げ込み、吸水口を固定する。バルクとゲルトの部下たちが装置を支え、倒れないように木材と石で足場を固める。
中和剤を入れる前に、フィルターを接続。
ポンプの電源。
簡易バッテリー。
排水先の桶。
手順を間違えれば、水圧でホースが暴れる。
薬剤を入れすぎれば、別の毒になる。
少なすぎれば、効果がない。
「ナオキ、こっちは固定できた!」
ゲルトの部下が叫ぶ。
「離れろ! 最初の水は飲ませるな!」
俺はスイッチに手をかけた。
周囲が息を呑む。
病人の呻き声だけが、妙にはっきり聞こえた。
「頼むぞ……」
スイッチを入れた。
装置が低く唸りを上げる。
井戸の中で、水が吸い上げられる音がした。
数秒後、排出口から濁った水が吐き出された。
「汚いままだぞ!」
「だめなのか!?」
群衆がざわめく。
「黙って待て!」
俺は怒鳴った。
最初から綺麗な水が出るわけがない。配管やホースの中にも汚れがある。フィルターが安定するまで時間がかかる。
だが、群衆はそんな理屈を知らない。
「水だ! 水をよこせ!」
一人の男が列を破って走り出した。
手には木の椀。
目は血走っている。
バルクが前に出た。
盾を横に構え、男の進路を塞ぐ。
「どけえ!」
男が盾に体当たりする。
バルクは一歩も動かない。
だが、殴り返すこともしなかった。
「まだ飲めない!」
俺は叫んだ。
「今飲めば、余計に苦しむ! 頼むから待て!」
「待てるか! 俺の娘が死ぬんだぞ!」
男の声は怒りではなかった。
恐怖だった。
俺は言葉を失いかけた。
だが、ヒルダが横から踏み込んだ。
「その娘を助けたいなら、順番を守れ!」
鋭い声が広場を切り裂いた。
「お前一人が暴れれば、装置が倒れる。水も薬も全部台無しになる。そうなれば、お前の娘だけじゃない。この場の全員が死ぬぞ!」
男の顔が歪む。
怒りと絶望で、今にも崩れそうだった。
バルクが盾を少し下げ、男の肩に分厚い手を置いた。
力任せではない。
支えるような手だった。
男はその場に膝をつき、嗚咽を漏らした。
「……頼む。娘を、助けてくれ……」
「助ける」
俺は言った。
「だから、俺たちの邪魔をしないでくれ」
男は何度も頷いた。
装置の排出口から出る水の色が、少しずつ変わっていく。
鉛色の濁りが薄まり、泥の匂いが弱くなる。
俺は何度も検査キットを使った。
まだ毒物反応あり。
まだ細菌反応あり。
まだ飲めない。
焦りが喉を焼く。
金貨36枚。
大勢の視線。
消えていく時間。
弱っていく病人。
ようやく、三回目の検査で毒物反応が大きく下がった。
[簡易検査結果]
[毒物反応:微弱]
[細菌汚染反応:陽性]
[飲用判定:要煮沸または追加濾過]
まだ駄目だ。
透明になっただけでは飲めない。
「煮沸用の鍋を集めろ! 大鍋、釜、何でもいい! この水は一度沸かしてから配る!」
ゲルトが即座に動いた。
「聞いたな! 町中から鍋を集めろ! 燃料もだ! 金は俺が立て替える!」
広場の端で火が起こされる。
浄化された水が大鍋に移され、沸騰を待つ。
その間に、セーラたちは経口補水液を配っていた。
「少しずつだよ! 一気に飲まないで!」
「蓋は捻る! そう、そのまま!」
「飲めない人には無理に入れないで!」
セーラの声が、思った以上によく通っていた。
最初は震えていたのに、今は違う。
必死に人を助けようとする声には、力がある。
ヒルダは重症者を選別していた。
動きが速い。
迷いが少ない。
子供、老人、意識の薄い者を優先し、軽症者には待機を命じる。
「こいつは先だ。熱が高い」
「そっちはまだ意識がある。水を少しずつ飲ませろ」
「泣くな。泣く体力があるなら、まだ助かる」
言葉は荒いが、判断は的確だった。
俺は抗菌薬の管理パックを開いた。
現代の医療なら、医師の診断なしにこんな使い方をするべきではない。
それは分かっている。
だが、ここは異世界で、目の前には死にかけた人間がいる。
正解などない。
あるのは、今選べる中で一番ましな選択だけだ。
「高熱、血便、意識混濁。これに当てはまる者だけだ。子供は量を減らす。分からない者は飲ませるな」
俺は同じ説明を何度も繰り返した。
その時だった。
「ナオキ!」
セーラが叫んだ。
振り向くと、若い母親が小さな子供を抱えてこちらへ走ってきていた。
さっき、濁った水を飲ませようとしていた母親だ。
子供の顔は青白い。
唇が乾き、目は半開きのまま焦点が合っていない。
「この子、さっきから返事をしないの!」
母親の声は裏返っていた。
俺は膝をつき、子供の顔を覗き込む。
呼吸はある。
だが浅い。
熱もある。
「名前は?」
「ミ、ミナ……」
「ミナ、聞こえるか」
返事はない。
俺は経口補水液の蓋を開け、布に少し含ませた。
無理に飲ませると危ない。唇を湿らせ、舌にわずかに触れさせる。
子供の喉が、小さく動いた。
「飲める。少しずつだ」
母親の手は震えていた。
俺はその手を押さえた。
「一気に飲ませるな。少しずつ。焦るな。焦れば、この子が苦しむ」
「は、はい……!」
セーラが母親の横に膝をつき、支えた。
「大丈夫。あたしも一緒に見るから」
その声は優しかった。
母親は泣きながら頷いた。
俺は検査結果と症状を照らし合わせ、抗菌薬を出すべきか迷った。
子供だ。
用量を間違えれば危険だ。
だが、高熱と意識混濁がある。放置すれば、もっと危険だ。
俺は子供用に量を調整できるタイプの薬剤を選び、説明書を睨むように読んだ。
現代なら当然の確認。
この場では、それすら贅沢な時間だった。
「少量だけ使う。飲ませた後、吐いたらすぐ呼べ。次は勝手に飲ませるな」
「はい、はい……!」
母親は何度も頷いた。
その間にも、井戸の浄化は続いていた。
煮沸した水が冷まされ、紙コップに注がれ、順番に配られる。
最初の一杯を受け取った老人が、震える手で口元へ運んだ。
一口飲む。
それだけで、老人の目から涙がこぼれた。
「……水だ」
その声が、周囲へ広がっていく。
「水だ……」
「飲める水だ……!」
「助かった……!」
まだ終わっていない。
まだ全員は救えていない。
それでも、絶望だけだった広場に、初めて希望の色が差した。
やがて、セーラに支えられていた小さなミナの指が、ぴくりと動いた。
母親が息を呑む。
「ミナ……?」
子供のまぶたが、ゆっくりと開いた。
焦点の合わない瞳が、少しずつ母親を捉える。
「……かあ、さん……」
その瞬間、母親の顔がぐしゃりと歪んだ。
「ミナ……! ああ、ミナ……!」
母親は子供を抱きしめ、声を殺しきれずに泣いた。
セーラも涙ぐんでいた。
ヒルダは何も言わず、顔を背けた。
バルクは静かに目を伏せていた。
俺は、その光景を見つめていた。
胸の奥で、何かが熱くなる。
痛みに似た熱だった。
俺は人間不信を拗らせていた。
この世界に来てからも、誰かを簡単には信じないと決めていた。
利用されるのも、騙されるのも、ごめんだった。
だが、今目の前にある涙は違う。
これは演技ではない。
打算でもない。
ただ、失いかけた命が戻ってきたことへの、剥き出しの感情だった。
俺は拳を握った。
この涙を流させたのは誰だ。
この町を、こんな地獄に変えたのは誰だ。
ライマンだけではない。
アッシュベルグ侯爵。
人の恨みも、町の命も、利権のための道具として使った男。
腹の底から、冷たい怒りが燃え上がる。
だが、その怒りをすぐに言葉にはしなかった。
今叫ぶべき相手はここにはいない。
今やるべきことは、復讐ではない。
まだ救える命を、救うことだ。
「ナオキ」
ゲルトが隣に立った。
いつもの軽薄さは消えている。
「水の配布は回り始めた。だが、足りん。町の南側にも倒れている連中がいる」
「分かった。浄化装置はここで動かし続ける。煮沸も止めるな。重症者は広場に集める。動かせない者には、こちらから運ぶ」
「了解だ」
「ヒルダ」
「何だ」
「南側の様子を見てきてくれ。病人の数、暴動の危険、水を求めて井戸に向かっている集団があるか。全部見てほしい」
「偵察か。やっと私向きの仕事だな」
ヒルダは一瞬だけ笑い、すぐに人混みの中へ消えた。
「バルク」
巨漢がこちらを見る。
「ここを頼む。装置を守ってくれ。これが壊れたら、終わる」
バルクは盾を持ち上げ、重く頷いた。
「……守る」
初めて聞いた声は、岩のように低かった。
「セーラ」
「うん」
「きついと思う。でも、もう少し手伝ってくれ」
セーラは涙を拭い、まっすぐに俺を見た。
「あたしは大丈夫。ナオキが前を向いてるなら、あたしも向く」
その言葉に、俺は一瞬だけ返事を失った。
「……頼りにしてる」
「うん!」
広場はまだ混乱している。
病人はまだ大勢いる。
水はまだ足りない。
薬も足りるか分からない。
この浄化が本当に町全体を救える保証もない。
それでも、さっきまでとは違う。
人々はもう、ただ死を待っているだけではなかった。
商団が動き、騎士が守り、セーラが配り、ヒルダが走り、バルクが立ちはだかる。
そして俺は、次の一手を考える。
これは奇跡ではない。
一人の力でもない。
人が、人を救おうとして動き始めた結果だ。
俺は井戸から吐き出される水を見つめた。
まだ完全に澄み切ってはいない。何度も処理し、沸かし、配り続けなければならない。
だが、流れは生まれた。
死へ向かっていた町に、細いが確かな流れが戻り始めている。
俺は静かに息を吐いた。
「必ず終わらせる」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「この毒も。この悲劇も。アッシュベルグ侯爵との戦いも」
遠くで、また誰かが泣いた。
だが、それは絶望の泣き声ではなかった。
救われた者の、声だった。
俺は顔を上げ、次の病人のもとへ歩き出した。
この町を救う。
その先で、侯爵の喉元に刃を届かせる。
俺たちの反撃は、血ではなく、水から始まった。
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