第43話 新たな仲間とナオキの奮闘
子爵邸の重厚な扉を背に、俺とセーラは朝靄の残るフェルムの町へ飛び出した。
夜が明けたばかりだというのに、町に一日の始まりを告げる活気はなかった。商人の呼び声も、荷車の軋む音も、子供たちの笑い声もない。
あるのは、呻き声。
泣き声。
助けを求める、かすれた声。
石畳の隅には、力尽きたように座り込む老人がいる。店の戸口では、母親らしき女が子供を抱きしめたまま、誰かの名を呼び続けていた。井戸の毒は、町の血管に流れ込んだ病そのものだった。
「……ナオキ」
隣を走るセーラの声が震えている。
「ああ。分かってる」
返事は短くした。
長く話せば、俺自身の中にある迷いが顔を出しそうだったからだ。
ライマンは捕らえた。
黒幕の輪郭も見えた。
子爵から軍資金も得た。
だが、今この瞬間に苦しんでいる人間にとって、そんなことは何の救いにもならない。
俺たちはまず、ゲルトの商団へ向かった。
商団の拠点に着くと、ゲルトはすでに屈強な部下たちに指示を飛ばしていた。荷の積み替え、護衛の配置、病人を避ける導線の確保。混乱の中でも、彼の周囲だけは妙に秩序が保たれている。
俺の姿を認めるなり、ゲルトが鋭い眼光をこちらに向けた。
「ナオキか。無事だったようだな。……で、この騒ぎは何だ。町が死にかけてるぞ」
「話は短くする。井戸に毒を入れられた。ライマンが関与していた。背後にはアッシュベルグ侯爵がいる」
ゲルトの表情から、商人の愛想が消えた。
「……侯爵だと?」
「ああ。子爵の支援は取り付けた。金もある。だが、人手が足りない。物資を配るにも、病人を運ぶにも、井戸周りを押さえるにも、俺たちだけじゃ無理だ」
「なるほどな」
ゲルトは数秒だけ沈黙した。
その沈黙は、迷いではない。損得と危険を秤にかける、商人の沈黙だった。
「侯爵相手となれば、首を突っ込むだけで命取りだ。俺の商団にも火の粉が飛ぶ」
「分かってる」
「だが、この町が潰れれば俺たちの商売も終わりだ。何より、ここまで来て尻尾を巻くほど、俺は上品な商人じゃない」
ゲルトは口の端を吊り上げた。
「乗った。人手は出す。ただし、無駄死にはさせるな」
「約束する。必要なのは腕力だけじゃない。秩序だ。配る順番を決める。重症者を先にする。群衆を押し返す者もいる」
「おい、聞いたな!」
ゲルトが振り返ると、部下たちが一斉に背筋を伸ばした。
「これから広場へ向かう! 病人を運べる奴、荷運びに慣れた奴、揉め事を止められる奴は前へ出ろ! ナオキの指示に従え。勝手に物資へ触った奴は、俺が手ずから叩き出す!」
怒号のような命令が飛ぶ。
商団の男たちは、すぐに動いた。怯えはある。だが足は止まらない。ゲルトの統率は、ただの商人のそれではなかった。
それから一時間もしないうちに、広場の近くには簡易の救護場所が作られた。
布を張っただけの天幕。
空の樽を並べた仕切り。
病人を寝かせるために敷かれた古布。
十分とは到底言えない。
それでも、何もないよりはましだった。
俺とセーラが井戸へ向かおうとした時、集まった人垣が自然と左右に割れた。
その隙間から、二つの人影がまっすぐこちらへ歩いてくる。
一人は、腰まで届く長い髪を無造作に束ねた、しなやかな体つきの女。
もう一人は、背に大盾を負った、壁のような巨漢。
グスタフの腹心、ヒルダとバルクだった。
昨夜、子爵邸で軽く顔は合わせている。だが、明るい場所で見ると、二人の異様さがよく分かった。
ヒルダの目は、獣の足跡を読む猟師のそれだ。俺の顔、手、腰、足運び。何もかもを一瞬で測っている。
バルクは無言だが、その沈黙に圧がある。立っているだけで、背後にいる者を守るための壁になっていた。
「あんたがナオキか。グスタフ様から話は聞いている」
ヒルダが腕を組み、俺を値踏みするように見た。
「噂の『奇跡の男』にしちゃ、ひょろいな。剣もまともに振れなさそうだ」
「否定はしない。剣で戦えば、たぶん三秒で死ぬ」
俺が即答すると、ヒルダの眉がわずかに動いた。
「自分で言うのか」
「嘘をついても仕方ないだろ。だから、俺にはあんたたちが必要なんだ」
軽口で返すつもりだったヒルダの表情が、少しだけ変わった。
「……口だけの男ではなさそうだな」
「口は達者だとよく言われる」
「それは減点だ」
「善処する」
バルクが、低く喉を鳴らした。
笑った、のかもしれない。
「状況は?」
ヒルダが短く問う。
「井戸が汚染されている。毒だけじゃない可能性がある。水を飲んだ人間が倒れている。まず水源を止める。次に安全な水を確保する。最後に重症者から処置する」
「最後?」
「一度に全部は無理だ」
俺は井戸の方を見た。
呻き声が、風に乗って聞こえてくる。
水を求めて這うように進む人。井戸の縁にしがみつく人。止めようとする兵士。怒鳴る男。泣き叫ぶ子供。
そこには、地獄という言葉では足りない光景が広がっていた。
「ひどい……」
セーラが口元を押さえた。
井戸の周囲は、水を求めても動けなくなった人々で埋め尽くされていた。倒れた者の体をまたいで、まだ動ける者が井戸へ手を伸ばしている。兵士たちが止めているが、全員を押さえきれていない。
「どけ! 俺の子に水を飲ませるんだ!」
「その水は毒だ! 近づくな!」
「嘘をつくな! 貴族が水を独り占めする気だろ!」
怒声が飛び交う。
まずい。
これは病だけじゃない。暴動になる。
俺はマリエクを起動した。
視界の端に、半透明の画面が浮かび上がる。
必要なものを検索する。
浄水。
毒物中和。
経口補水。
簡易検査。
抗菌薬。
防護用品。
だが、商品名が並ぶほど、胃の奥が重くなっていった。
[簡易水質検査キット・毒物反応対応:30,000円]
[工業用・大容量水中ポンプ式浄化システム『クリーンウェル』:2,000,000円]
[広範囲毒物吸着フィルター・交換式三本セット:600,000円]
[広範囲毒物中和剤・濃縮タイプ10L:500,000円]
[ES-1経口補水液500ml・1000本:220,000円]
[滅菌紙コップ・3000個:25,000円]
[使い捨て手袋・マスク・簡易防護セット:80,000円]
[広範囲抗菌薬・医療用管理パック:120,000円]
[送料:5,000円]
[転送失敗率:10%]
[合計:3,580,000円]
[金貨換算:約36枚]
金貨100枚。
たった今得た軍資金の三分の一以上が、一瞬で消える。
しかも、転送失敗率は10%。
金だけではない。
失敗すれば、人が死ぬ。
目の前で、助けられたかもしれない人間が死ぬ。
俺は画面を見つめたまま、奥歯を噛んだ。
冷静に考えろ。
ここで全額に近い金を使えば、この先の侯爵戦に響く。
この町を救っても、黒幕を倒せなければ、同じことはまた起きる。
もっと少ない物資で、最低限の処置だけして、軍資金を残すべきか。
頭の中の冷たい俺が、そう囁く。
だが、視線の先で、小さな子供が母親の腕の中で痙攣していた。
母親は泣きながら、その子の唇に濁った水を含ませようとしている。
「やめろ!」
俺は叫んだ。
母親の手が止まる。
その瞬間、迷いは消えた。
「……金は、使うためにある」
この金額で失敗したら洒落にならない....。頼むぞ'金保留'
俺は購入ボタンに指を伸ばした。
「マリエク、購入」
[購入を確定しました]
[転送を開始します]
[転送失敗率:10%]
胸の内側が嫌な音を立てる。
数秒が、異様に長い。
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