第40話 二重の刃
俺が巨大な陰謀の網に足を踏み入れてしまったという悟りは、子爵の書斎に満ちる重苦しい空気の中で、すぐに冷たい確信へと変わっていった。アッシュベルグ侯爵。その名が、全ての元凶として頭の中で不気味に響き渡る。
「……ライマンを地下牢へ」
子爵が絞り出すように命じた。その声は怒りよりも、長年信頼してきた側近への裏切りに対する、深い疲労と失望に染まっていた。
グスタフが静かに頷くと、控えていた騎士たちが抵抗の意思を完全に失ったライマンの両腕を掴み、引きずっていく。石の床を擦る虚ろな足音が書斎に響き、分厚い扉が閉まる直前、ライマンが憎悪に満ちた目で俺を睨みつけたのが見えた。その視線は、『お前さえいなければ』と明確に物語っていた。
分厚い扉が閉まり、書斎に静寂が戻る。子爵はグスタフに目配せをし、地下の尋問室へ向かおうと一歩踏み出した。当然、俺は部外者だ。ここに残されるのだろう。
そう思った矢先、子爵が足を止め、俺を振り返った。
「ナオキ殿」
その鷲のような目が、俺の真意を探るように細められる。
「……お主も来い」
「俺が、ですか? 部外者ですが」
俺の問いに、子爵はふん、と鼻を鳴らした。
「この騒動の発端はお主だ。それに、その『道具』が奴の口を割らせるのに役立つかもしれん。何より、お主には最後まで見届ける義務がある」
有無を言わせぬ口調だった。隣に立つグスタフは何も言わないが、その視線は俺の同行を黙って認めているように見えた。
「……分かりました」
子爵に促され、俺たちは書斎を出て、ひやりとした石の階段を下っていく。壁に等間隔で設置された松明の光だけが、俺たちの進む先を照らしている。俺たちの影が、まるで意思を持っているかのように壁面で不気味に踊っていた。
やがて辿り着いたのは、外の世界の音を全て遮断する、地下の尋問室だった。
* * *
ひんやりとした石壁に囲まれた部屋の中央。古びた木製の椅子に固く縛り付けられたライマンは、虚ろな目で床の一点を見つめている。浅い呼吸を繰り返し、その顔からは血の気が失せ、土気色になっていた。つい先ほどまで燃え盛っていた憎悪の炎は跡形もなく、今はただ冷たい絶望だけがその顔に張り付いている。
「さて、始めましょうか」
俺はグスタフが背後に控える中、ライマンの前に立った。部屋の隅で無言の圧力を放つ騎士団長は、この尋問の証人だ。
'こいつに自白させるか、少なくとも黒幕が誰なのかを裏付ける必要がある。だが、拷問は悪手だ。下手にやれば口を閉ざすだけ。どうやって心理的に追い詰めるか……'
マリエクで嘘発見器でも買おうかと思ったが、所持金も銀貨10枚程しかない。
'……仕方ない、か'
俺は子爵とグスタフに向き直った。
「少し、よろしいですか。俺の持つスキルの一つに、『鑑定』というものがあります。相手の素性や背景を探ることができる。拷問よりも確実かもしれません」
俺の言葉に、子爵は怪訝な顔をしたが、黙って顎をしゃくった。許可、ということだろう。隣のグスタフは、鋼のような表情を崩さず、ただ俺の行動を注視している。
俺はライマンにゆっくりと近づき、彼の震える肩に無造作に手を置いた。びくりと強張るのが伝わってくる。
「な、何をする……」
弱々しく抵抗する声を無視し、俺は静かに告げた。
「――鑑定」
その言葉をトリガーに、俺の手のひらが淡い青色の光を放った。光は一瞬でライマンの体を駆け巡り、すぐに消える。
その瞬間、グスタフの眉がピクリと動き、子爵の鷲のような目が驚愕にわずかに見開かれたのを、俺は視界の端で捉えた。
'アイテムボックスだけでなく、人の情報を読み取るスキルまで……!?一体何者なのだ、この男は……'
クローウェル子爵の内心の動揺とは裏腹に、その表情はすぐにいつもの厳格なものへと戻る。
'魔法ではない。神聖術でもない。だが、確かに何かが起こった。こいつの底は、どこまで深い……'
グスタフもまた、驚きを押し殺し、より一層鋭い観察眼で俺を見据えていた。
彼らの動揺をよそに、俺の脳内には半透明のウィンドウが浮かび上がっていた。
[鑑定結果]
[名前: ライマン・ベルガー]
[年齢: 38歳]
[職業: 文官]
[LV: 3]
[状態: 混乱、憎悪、絶望、恐怖]
[背景: 『涸れ谷のグルフ』出身。十数年前、その才覚をクローウェル子爵に見出され文官として登用され、妻子と共にフェルムで暮らしていた。しかし五年前、病気の親を見舞うため妻子が一時的にグルフへ帰郷した直後、子爵の街道開発政策により故郷が孤立し、妻子はフェルムに戻れなくなる。やがて極貧困状態のグルフで体調を崩し、妻子を失う。恩人である子爵に見捨てられたという絶望が憎悪に転じ、復讐のためアッシュベルグ侯爵と密約を結んだ。]
[弱点: 妻子への想い、恩義と憎悪の葛藤]
'……ビンゴだ'
表示されたのは断片的なキーワード。だが、尋問の糸口としては十分すぎる情報だった。
俺はゆっくりと目を開け、ライマンの目を見据えた。
「単刀直入に聞く。アッシュベルグ侯爵に買収されたのか? 金か? それとも地位の約束か?」
俺の問いに、ライマンは吐き捨てるように言った。
「……違う」
彼の瞳に一瞬、侮蔑の色が浮かぶ。鑑定結果の[背景]が、彼の動機がそんな単純なものではないことを示唆していた。
'なるほどな。こいつは金や地位で動く犬じゃない。信念犯か。厄介だが、御しやすい'
こういうタイプは、拷問や脅しでは決して口を割らない。だが、その信じる正義や大義名分を根底から砕いてやれば、いとも簡単に崩れ落ちる。
「そうか。なら、なぜだ? お前はクローウェル子爵の側近だったはずだ。子爵自らが、身分も問わずにお前を引き上げたと聞く。その恩を仇で返すとは、どういう道理だ?」
「……貴様のような、どこから来たかも分からん得体の知れない男に話すことなど何もない!」
ライマンが顔を歪めて叫ぶ。その憎悪は、今は俺に向けられている。分かりやすい感情の転嫁だ。
「そうか。だが、お前が黙っていても、いずれ侯爵はお前を切り捨てるだろうな。この一件が露見すれば、お前は全ての罪を被せられ、蜥蜴の尻尾切りで終わりだ。お前はただの使い捨ての駒なんだよ」
俺の言葉に、ライマンの肩がピクリと震えた。図星か。彼の呼吸がわずかに乱れる。
'あと一押し……'
俺は静かに彼の目を見つめ、鑑定で得た最も強力なカードを切った。確信を持って、最後の問いを投げかける。
「……グルフに帰ったお前の家族に、何があった?」
その瞬間、部屋の空気が凍った。
ライマンの呼吸が止まり、カッと目が見開かれる。
「なっ……! なぜ、お前がそれを……!?」
彼は息を呑み、俺を睨みつけた。その目には、心の最も深い場所にある、決して触れられてはならない傷を抉られたことへの、純粋な驚愕と怒りが浮かんでいる。
「黙っていても無駄だ。俺には、お前が誰で、何に苦しんでいるのか、全て分かる。だが、お前の口から聞きたい。お前の動機が、それだけの価値があるものなのかどうかをな」
静かな部屋に、俺の淡々とした声だけが響く。クローウェル子爵とグスタフは腕を組み、壁に寄りかかったまま、俺たちのやり取りを黙って見守っている。
数秒か、あるいは数分にも感じられる重い沈黙の後、ライマンは観念したように、全ての抵抗を諦めた。ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……俺は……閣下に拾われた恩を、生涯忘れたことはない」
その声は、砂漠のように乾ききっていた。
「十数年前……貧しい家のただのガキだった俺の才を見抜き、身分を問わず、この手でフェルムへと引き上げてくださった! 妻子と共にこの町で暮らし、あなたに忠誠を誓った! この身全てを捧げても、恩に報いたいと心から思っていた! 俺にとって、あなたは神そのものだった!」
ライマンは、俺の背後にいる子爵に向かって叫んでいた。
「なのに!なぜだ! 妻が、病に倒れた母を見舞うため、たった数週間、娘を連れてグルフに帰郷した……その間に! あなたが始めた新しい街道のせいで、古い道は打ち捨てられ、事実上封鎖された! 妻と子は、故郷に閉じ込められたんだ!」
ライマンの声が、憎しみで震え始める。
「何度も、何度もだ! あなたに! 恩人であるあなたに、妻と子をフェルムに連れ戻すための手助けと、グルフへの最低限の支援を嘆願する書状を送った! だが、返事はいつも同じだった……『今は街道開発が最優先事項であり、余力はない』と…! 俺たちは、見捨てられたんだ! 俺の妻も、まだ五歳だった娘も……熱に浮かされ、水を欲しがりながら……!」
彼の目から溢れ出たのは、涙ではなかった。復讐心という名の、暗く燃え盛る憎悪の炎だった。
「俺はあの時、誓ったんだ。俺を救い、そして見殺しにした非情な領主に、必ず復讐してやると…! 俺と同じ絶望を、この手で味わわせてやると!」
子爵は唇を噛み締め、目を伏せた。自分が引き上げた男の悲痛な叫びは、領主としての彼の政策の過ちを、容赦なく突きつけていた。
'……そういうことか。だが、あまりにも視野が狭い。そして、あまりにも純粋すぎる'
俺は、彼の激情を冷たく見下ろしながら、言い放った。
「愚かな男だ」
「な、なんだと!?」
ライマンが、信じられないという顔で俺を睨む。
「お前の復讐心は、本物の巨悪にいいように利用されただけだと言っている。お前は、アッシュベルグ侯爵の手のひらの上で踊らされていたに過ぎん」
俺は端末を操作し、彼の目の前に突きつけた。そこに映っていたのは、映像ではなかった。ヴァーミリオン商会で入手した裏帳簿を写し取った一枚の記録だ。
「グルフの町で、俺は侯爵の騎士団が盗賊を装い、粘土の密輸を行っている現場を目撃した。そして、その取引相手がボルマンでした。これは、彼が管理していた帳簿の一部です。高品質な粘土の取引記録と、フェルムへの不自然な資金の流れがはっきりと記されている」
「こ、これは……グルフの……? なぜ、アッシュベルグ侯爵の騎士が……?」
ライマンは、その記録が何を意味するのか分からず、困惑の表情を浮かべた。
「アッシュベルグ侯爵は、お前の故郷が見捨てられるずっと前から、この地を狙っていた。グルフという寂れた村から産出される特殊な粘土を独占し、それを足掛かりにフェルムの利権を全て奪う計画を立てていたんだ」
俺は淡々と、しかし確実に、彼の信じる世界を破壊していく。
「お前の故郷の悲劇は、侯爵にとって絶好の機会だったわけだ。子爵への憎しみに燃えるお前は、実に利用価値のある駒だったんだろう。ひょっとしたら、子爵が街道開発に予算を集中させたのも、古い街道沿いの村々が衰退するのを見越した上で、侯爵が焚きつけた結果かもしれないな」
「そん、な……馬鹿な……。ありえない……」
ライマンの顔から急速に血の気が引いていく。彼の信じていた正義が、復讐という名の支柱が、足元から音を立てて崩れ落ちていく。
俺は冷徹に、とどめを刺した。
「侯爵にとって、お前の復讐心は好都合な道具だっただけだ。分かるか? お前の家族を見殺しにした状況を作り出した元凶そのものに、お前はまんまと協力していたわけだ」
「あ……あ……ああ……」
ライマンの口から、意味をなさない呻き声が漏れる。憎悪の矛先を失い、復讐の根拠が崩壊し、彼の精神は完全に行き場をなくした。信じていた大義が、ただの操り人形の滑稽な踊りだったと突きつけられたのだ。
彼はがっくりと首をうなだれ、その体から全ての力が抜けていくのが分かった。魂が抜け落ちた抜け殻のように、もはや縛られている縄がなければ、椅子から崩れ落ちていただろう。
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