第39話 侯爵の影
決行の夜。
広場は一見、いつもの夜の静寂を取り戻していた。井戸の周囲にいた物々しい騎士たちの姿はなく、ただ冷たい月明かりが石畳を照らしているだけだ。騎士団は子爵の館で待機させてある。下手に動いて勘付かれては元も子もない。
俺とグスタフは、井戸を見下ろせる建物の二階、窓を暗幕で覆った一室で息を潜める。
手元の端末には、俺が設置した暗視機能付きの小型カメラが映し出す井戸の周囲が、不気味な緑色の光景となって鮮明に浮かび上がっている。超小型の集音器が拾うのは、夜風の音と、どこかで鳴く虫の声だけだ。目的は現行犯逮捕ではなく、確実な『犯人の特定』だ。
「……本当に来るのか。これ見よがしに警備を解いたように見せかけてはいるが……」
沈黙に耐えかねたように、グスタフが囁いた。その声には、俺の立てた策への半信半疑が滲んでいる。
「来ますよ。用心深い相手ほど、好機を逃さない。数日間、我々が井戸を固めていたことで、向こうは毒の補充ができなかったはず。痺れを切らし、警備が手薄になったように見える今夜、必ず現れます」
俺がそう答えた、まさにその時だった。
端末の映像の端に、ゆらりと人影が現れた。フードを深く被り、足音を立てずに素早く動いている。
「……来たな」
俺とグスタフの間に、ピリピリとした緊張が走る。
男は周囲を執拗に警戒した後、誰もいないことを確認し、井戸の縁へとにじり寄った。そして、例の鉛管が隠された石組みに手をかける。
俺は端末を操作し、男の姿を録画しながら、顔が映る最適な角度を待った。
懐から取り出されたのは、小さなガラスの小瓶。月明かりに、中の液体が鈍く光った。
男が小瓶の蓋を開け、それを鉛管の口元へ傾け、中の液体を注ぎ込む。
'証拠は撮った'
男は役目を終えると、再び周囲を警戒し、来た時と同じように音もなく闇に消えていった。俺たちは動かない。追跡はしない。ここで動けば、全てが台無しになる。
広場に完全な静寂が戻ってから数分後、俺は端末の録画を停止した。
「……追わなくてよかったのか」
グスタフが悔しそうに呟く。
「今捕まえても、尻尾切りで終わる可能性がある。重要なのは、こいつが誰で、誰の指示で動いているかです」
俺は端末を操作し、録画した映像を再生する。男がふと顔を上げた一瞬、その顔がはっきりと映っていた部分を拡大した。
「この顔に見覚えは?」
グスタフは画面を食い入るように見つめ、やがて、その顔を驚愕と怒りに歪ませた。
「……馬鹿な。こいつは……クローウェル様の側近の一人、文官のライマンだ……!」
その名前を聞いて、パズルのピースがはまる感覚があった。子爵の側近。インフラにもアクセスでき、警備の情報を抜き取ることも容易い立場だ。
「これで、敵の正体が見えましたね、騎士団長殿」
グスタフはこめかみを引きつらせ、ギリ、と歯を食いしばった。信頼していた男の裏切り。その怒りは想像に難くない。
「……直ちに館へ戻る。ライマンの身柄を確保し、背後関係を洗い出すぞ」
彼の瞳には、裏切り者への容赦ない怒りの炎が燃え上がっていた。こうして、俺たちは敵の尻尾を、確かに掴んだのだった。
* * *
子爵の書斎に引き立てられてきた男の顔は、まだ困惑の色を浮かべていた。この町の水道インフラを管理する文官、ライマン。彼は、突然の召集の意図が掴めず、訝しげな視線を子爵と俺に投げかけている。
「ライマン。これを、どう説明する?」
子爵が静かに、しかし有無を言わせぬ圧力で問いかける。その指が示したのは、俺が机上で操作する『端末』の黒い画面だった。そこに映し出されたのは、井戸の内部、そして巧妙に隠された鉛管に近づく、見覚えのある男の姿。
ライマンの顔から、さっと血の気が引いていく。唇がかすかに震え、その目が信じられないものでも見るかのように見開かれた。
「な、ぜ……このような……」
それは、問いではなく、絶望から漏れた呻きだった。自分の秘密の行いが、なぜ白日の下に晒されているのか、理解が追いつかないのだ。
「こやつを捕らえよ!」
子爵の厳しい号令一下、グスタフの背後に控えていた騎士たちが一斉に動く。状況を悟って逃れようとしたライマンだったが、抵抗する間もなく床に押さえつけられ、両腕を背中に捻り上げられた。
「なぜこのような真似を……ライマン!」
子爵の苦々しい問いに、捕らえられたライマンは顔を歪め、純粋な憎悪に満ちた目でこちらを睨みつけるだけだ。
「所持品を改めろ」
グスタフの冷たい命令で、騎士がライマンの懐を探る。いくつかの金貨や書類と共に、奥深くから羊皮紙でできた一通の密書が引きずり出された。その手紙には、見慣れない紋章の蝋封が施されている。
「これは……」
グスタフが眉をひそめた。俺はその紋章に見覚えがあった。グルフで見た、アッシュベルグ侯爵家のものだ。
子爵が密書をひったくるように受け取り、封蝋を砕く。中身に目を通した彼の顔が、みるみるうちに怒りで歪んでいく。
「……そうか。やはり、そういうことだったか」
子爵は密書を握りしめ、天を仰いだ。その顔に浮かぶのは、怒りを通り越した絶望。
俺は、その密書に押された蝋封を思い出していた。グルフの川岸で見た、あの粘土を狙っていた男たちの紋章。
'グルフの陶器粘土。フェルムの疫病。そして、アッシュベルグ侯爵……'
点と点が、線で結ばれていく。思考が急速に回転を始めた。
'まさか、すべて繋がっているのか? この地の利権を奪うため、クローウェル子爵を失脚させる……。これが、貴族のやり方か'
俺は、自分が思っていたよりもずっと巨大で、根深い陰謀の網に足を踏み入れてしまったことを悟った。
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