第38話 陰謀の網
闇。熱。体の内側からじりじりと焼かれるような苦しみ。
少女の意識は、濁った水底を漂うように曖昧だった。時折、お母さんの泣き声が遠くに聞こえる。「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す声が、鉛のように重く体にのしかかる。
'もう、いいよ……お母さん。つらいのは、わたしだけじゃない……'
そう伝えたくても、声が出ない。指一本動かせない。死ぬって、こういうことなのかな。冷たくて、寂しくて、独りぼっち。
その時、聞き慣れない男の声がした。静かで、なぜかとても落ち着いた声。
お母さんが何かを懇願している。やがて、ざわめきが遠ざかり、荒々しい足音が響いた。何が起こっているのか、もう少女には分からなかった。
どれくらい時間が経っただろう。お母さんが、そっと体を抱き起こす気配がした。
「しっかりおし。これを飲むんだ」
唇に、冷たい何かが触れる。水? でも、いつも飲んでいた井戸水とは違う、ほんのり甘くて不思議な味がした。ごくり、と一口飲み込むと、乾ききった喉を命そのものが滑り落ちていくような感覚があった。
「さあ、これも。がんばって」
小さな固いものが口に入れられる。苦い薬の味。でも、不思議と嫌じゃなかった。
それを飲み込むと、少女の意識は急速に遠のいていった。今度こそ、本当に終わりなんだ。深く息を吐き、俺は窓から離れた。
部屋に置かれた簡素なベッドに、身体を投げ出すように倒れ込む。
鉛のように重いまぶたが、抵抗を諦めてゆっくりと落ちてくる。
渦巻く思考の渦も、今はただ遠い。
俺の意識は、まるで底なし沼に引きずり込まれるかのように、深く、深く沈んでいった。
だが、次に目を開けた時、世界はまるで違って見えた。
あれほど体を苛んでいた熱が、嘘のように引いている。息を吸うのが、こんなに楽だったなんて、忘れてしまっていた。ゆっくりと瞬きをすると、涙でぐしゃぐしゃになったお母さんの顔が見えた。
「……よかった……! 本当に、よかった……!」
お母さんは少女を抱きしめ、何度も何度もそう繰り返した。
部屋の隅では、近所の人たちが信じられないものを見るように、こちらを指差して囁き合っている。
「本当に熱が下がったぞ……」
「あのナオキというお方が渡した薬で……奇跡だ」
「神様は、我々をお見捨てにならなかった……」
ナオキ。
少女は、あの静かな男の目を思い出していた。絶望の底にいた自分とお母さんの前に現れた、不思議な人。
あの人は、神様だったのだろうか。
* * *
「――面倒なことになってきましたね」
子爵の執務室に戻るなり、俺は本音を漏らした。
俺とグスタフは井戸の調査から戻ったばかりだった。彼の鋼のような横顔は、井戸で見た光景をまだ反芻しているように険しい。
俺は子爵とグスタフを前に、ドローンが撮影した映像を端末で見せた。黒い板の上に、石壁の隙間に巧妙に隠された鉛管がはっきりと映し出されると、子爵はそれまで保っていた冷静な仮面をかなぐり捨て、椅子から身を乗り出した。その鷲のような目が、驚愕に見開かれている。
「こ、これは……一体なんだ!? この光る板は! なぜ井戸の底がここに映る!?」
彼は信じられないといった様子で、俺の持つ端末を指差す。その指先は、わずかに震えていた。息遣いも興奮していた。そして不可解な光景に見入っている。
「この板に映っているのが、井戸の底の光景です。その映像を記録するものが『ドローン』という、こちらの道具になります。捉えた光景を、そのまま再現しています。そして、これが毒物の混入経路です。ご覧の通り、極めて巧妙に隠されている。井戸の構造、そしてこの町の地下水路を熟知した者でなければ不可能な犯行です」
子爵は眉間に深い皺を刻み、忌々しげに映像を睨みつけていたが、やがてその鋭い視線を俺に向けた。
「ナオキ殿」
「はい」
「その『ドローン』とかいう奇妙な道具…そして、先ほどの試薬。こんなもの聞いたこともないぞ!それに一体どこから出した?お主は手ぶらでここへ来たはずだ。騎士団長の目をごまかせると思うなよ」
背後に控えるグスタフも、無言の圧力を強めてくる。最初から、これも尋問の計画だったのだろう。
「……それは、私が『アイテムボックス』を持っているからです。どこで手に入れたかは、今はまだ言えません。」
「『アイテムボックス』だと!?」
俺がそう言うと、子爵は疑わしげに驚き、次に目を細めたが、鼻で笑った。俺が平然と視線を受け止めると、ふっと息を吐いた。
「面白い。次から次へと、常識外れの男だ。……よかろう。道具の入手経路については今は問わん。」
「感謝します」
「それよりも、この映像とやらだ」
子爵は再び映像に目を戻し、忌々しげに吐き捨てた。
「……つまり、犯人は内部の者、それも町の水場を管理する立場の役人ということか」
「その可能性が極めて高い。そこで、提案があります」
俺は端末の画面を消し、二人に向き直った。
「犯人を、誘き出しましょう」
「ほう、どうやってだ」子爵が興味深そうに身を乗り出す。
「俺が『奇跡の力で井戸を浄化する』と、大々的に宣言するのです。町中に触れ回らせ、盛大な儀式を行うと。犯人は、自分の計画が水泡に帰すことを恐れ、必ず妨害に来るはずです。儀式の前に、より強力な毒を投入しに来る可能性が高い」
グスタフが、腕を組んで口を挟んだ。
「理屈は分かる。だが、どうやって犯行の瞬間を捉える? 暗闇の中で待ち伏せしても、証拠がなければ言い逃れされるだけだ。相手によっては、口も達者だろう」
'犯人を特定するには、奴らの会話を盗聴し、夜間の行動を監視する必要がある。そのための道具も、用意しないとな'
'マリエク! 高性能指向性集音器、超小型暗視カメラ!'
[高性能指向性集音器:85,000円]
[超小型暗視カメラ:110,000円]
[送料:5,000円]
[合計:200,000円]
'やばいな、残金が.....金貨がなくなった。銀貨10枚程度しかない......'
懐が寒い.....。
俺は’懐’から、マリエクで入手した二つの『奇妙な道具』を取り出した。一つは指先ほどの小さな金属片。もう一つは、手のひらサイズの黒い箱だ。
「これは『高性能集音器』。僅かな物音も拾い、離れた場所で聞くことができます。そしてこちらが『暗視機能付き映像記録装置』。光のない完全な暗闇でも、周囲の光景を映像として捉えることができる」
俺はそう言うと、手元の端末に再び黒い箱からの映像を映し出してみせた。窓のカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中でも、グスタフの訝しげな表情が緑がかった映像ではっきりと見える。
「……魔法か?」
グスタフが低い声で呟く。
「技術ですよ。魔法より、よほど確実で信頼できる」
子爵は黙って俺の道具と端末を見比べていたが、やがて重々しく口を開いた。
「……よかろう。その計画、許可する。グスタフ、ナオキ殿に全面協力しろ。騎士団の精鋭を集め、絶対に犯人を逃がすな」
「はっ!」
グスタフが力強く応える。
こうして、俺の仕掛ける芝居の幕が上がった。
* * *
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