第36話 盤上の駒
鋼の剣先が、俺の喉元に突きつけられる。冷気を帯びた切っ先が、肌に触れるか触れないかの距離でぴたりと止まった。隊長の目が、冷徹な殺意を宿して俺を射抜く。まるで、社会の秩序を乱す不届き者だと断罪しているかのようだ。
希望の光を見出したばかりの群衆の熱が、急速に冷え、霧散していく。代わりに、じわりと空気を支配し始めたのは、どうすることもできない無力感と、死を連想させる冷たい恐怖だった。
「……セーラ、ハインツ。下手に動くな」
隣でセーラが柄に手をかけ、ハインツが息を飲む気配を感じ、俺は静かに声をかけた。衝動的な行動は、状況を悪化させるだけだ。
「だが、ナオキ! こいつらは……!」
食い下がるセーラに、俺は視線だけで「大丈夫だ」と制する。俺の落ち着き払った態度に、彼女は悔しそうに唇を噛み、渋々ながらも手を下ろした。
「分かりました。ご同行しましょう」
俺は両手を肩の高さまでゆっくりと上げ、抵抗の意思がないことを示す。そのあまりにもあっさりとした態度に、隊長の眉が訝しげにピクリと動いた。民衆からも「え……?」「捕まっちまうのか……?」という困惑の声が漏れる。
「しかし、その前に一つだけ」
俺は兵士たちが踏み込んでくるより早く、再び身をかがめた。ぐったりとした少女を不安げに抱きしめる母親の前に、膝をつく。
マリエクを起動し、懐に抗生物質の薬と
青いパッケージで有名な飲料水「スポーツドリンク」をマリエクで購入。音もなく出現させ母親に渡した。
「これを。帰ったらすぐに、娘さんに飲ませてあげてください」
「こ、これは……?」
母親が、震える手で薬と、青いパッケージの飲料水を受け取る。脱水症状には塩分が、弱った体には最低限の栄養が必要だ。
「信じるかどうかは、あなた次第。……いや」
俺はゆっくりと立ち上がり、ざわめく群衆全体を見渡した。そして、一人一人に語りかけるように、はっきりと聞こえる声で言った。
「ここにいる全員の、信頼が試される時だ」
その言葉は、母親に、民衆に、そして背後で全てを見ているであろう黒幕に向けた、俺からの挑戦状だった。
「何をゴチャゴチャと! さっさと連れて行け!」
隊長が苛立ちを隠さずに叫ぶ。その声に反応し、二人の兵士が俺の両腕を掴み、背後へ荒々しく捻り上げた。関節に鈍い痛みが走るが、俺は表情一つ変えなかった。
人垣がモーゼの海のように割れ、俺は子爵の館へと引きずられていく。遠ざかる群衆の中から、少女の母親の「ありがとうございます……! 必ず……!」という悲痛な声と、セーラの怒りと無念に歪んだ顔が見えた...。
* * *
石畳の道を、俺は兵士たちに両脇を固められて歩く。
周囲の民衆は、希望と不安が入り混じった目で俺たちを遠巻きに見つめ、ひそひそと何かを囁き合っていた。
俺の身を案じる声、当然の報いだと蔑む声、そして「やはりただの詐欺師だったのか」と落胆する声。
'……どっちでもいい'
俺は腕を掴む兵士に意識を向け、気づかれぬよう一瞬だけ鑑定スキルを発動させた。
'鑑定'
〔鑑定結果:人体(健康状態)。汚染された水源からの摂取履歴なし。定期的に浄化された専用水源の水を摂取〕
'……面倒なのが来たな'
もう片方の兵士も、先頭を歩く隊長も、結果は同じ。
こいつらは、民衆が使っている広場の井戸とは別の、安全な水を飲んでいる。
この町の支配者層と、被支配者層の間には、命を隔てる明確で冷酷な壁が存在していた。
背筋に冷たいものが走る。
これは、ただの疫病騒ぎじゃない。貧しい者、弱い者だけを狙って殺す、極めて悪質な選別だ。
井戸に毒を流し込み、民衆が苦しみ死んでいく様を高みから見物する外道がいる。
'子爵は、これを知っているのか? 知っていて放置しているなら、奴も同罪だ。だが…もし、子爵自身もこの状況を把握しきれていないとしたら?'
俺を捕らえたのは、秩序を乱す不届き者として排除するためか。それとも、その力を確かめ、利用価値を測るためか。
'どっちに転ぶか......'
やがて、荘厳なクローウェル子爵の館の門が見えてきた。
俺は地下牢の冷たい石の床を想像していたが、案内されたのは意外な場所だった。
* * *
俺が通されたのは、薄暗くカビ臭い地下牢ではなかった。
暖炉の火が赤々と燃え、壁には高価そうな風景画が飾られた、広大な書斎。磨き上げられた床には分厚い絨毯が敷かれ、歩いても足音一つしない。俺の腕を掴んでいた兵士たちは、部屋の前で一礼すると、音もなく扉を閉めた。拘束は、いつの間にか解かれていた。
部屋の奥。大きな執務机の向こう側、重厚な革張りの椅子に、一人の男が深く腰掛けていた。
年の頃は五十代だろうか。手入れの行き届いた口髭を蓄え、貴族らしい豪奢だが嫌味のない服を着ている。だが、その身体からは、弛緩した貴族のものではない、武人のような隙のない圧が放たれていた。鷲のような鋭い目が、俺の一挙手一投足を値踏みするように観察している。
この男が、フェルムの領主、クローウェル子爵。
長い沈黙が、部屋を支配する。薪がはぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。
先に口を開いたのは、子爵だった。
「私がこの地を治めるクローウェル子爵だ。……お主が、その『治療師』だと言うナオキか」
低く、地の底から響くような声だった。
「そうだ。俺がナオキだが」
「ほう。ゲルトを死の淵から救い、民衆を扇動しているという……」
「事実と悪意を混ぜるのはやめていただきたい。俺はただ、目の前で死にかけている人間を助けようとしただけだ。扇動などはしていない。」
俺の言葉に、子爵は鼻で笑った。
「見上げた博愛主義者だな。だが、お前のような素性の知れぬ男の『善意』ほど、信用できんものはない。目的は何だ? 金か、名声か? それとも、この混乱に乗じて何かを企む、どこぞの回し者か?」
矢継ぎ早に放たれる詰問。その一つ一つに、俺を罪人に仕立て上げようという明確な意図が感じられた。
「……あなたには、そう見えるのか」
「どう見えるかではない。事実が問題だ。お前は許可なく医療行為を行い、結果として民衆の間に無用な混乱と期待を煽った。これは領主たる私への、扇動していると受け取られても仕方ないことだぞ」
子爵はゆっくりと立ち上がり、机を回り込んでこちらへ歩み寄ってくる。その一歩一歩に、確かな威圧感がこもっていた。
「答えろ。お前の正体は何だ。一体、何を知っている?」
俺の目の前で足を止め、子爵はその鷲のような目で見下ろしてくる。逆らえば、次の瞬間には首が飛ぶ。そんな確信があった。
'……試されている'
ここで下手な嘘をつけば終わりだ。だが、すべてを話す必要もない。
俺は、覚悟を決めた。
「子爵へ許可なく医療行為をした事。そこについては謝る。申し訳ない。正体については、ただの通りすがりの男だ...。
だが、一つだけあなたより知っていることがある」
俺は子爵の目を真っ直ぐに見返し、静かに、しかしはっきりと告げた。
「この疫病は、天災じゃない。人災だ」
その瞬間、子爵の纏う空気が変わった。
値踏みするような視線が消え、鋼のような鋭さが宿る。
「……続けろ」
「あなた方、城の人間が飲む水と、広場で民衆が汲む水は、別物だ。疫病の原因は、民衆が口にする井戸水。何者かが、意図的に汚染させた」
俺が言い切ると、子爵は驚きもせず、ただ無表情に俺を見つめていた。だが、その瞳の奥で、激しい思考が渦巻いているのが分かった。
「……なぜ、それを知っている」
声の温度が、さらに数度下がった。疑念が、殺意へと変わり始めている。
「どうやって知ったかは重要じゃない。重要なのは、俺にはその汚染を浄化し、病を治す技術があるという事実だ」
俺は懐に隠し持っていた、マリエクで購入した錠剤型の浄水剤を一つ、指で弾いてみせた。
「俺を処刑すれば、この町は救われずに終わる。だが、俺を使えば、あなたは疫病を鎮めた英雄になれる。……取引しませんか、子爵閣下」
子爵は俺の指にある小さな錠剤と、俺の顔を交互に見比べ、やがて、その口元にかすかな笑みが浮かんだ。それは面白い玩具を見つけた子供の笑みではなく、獰猛な肉食獣が獲物を見定めた時の、冷たい笑みだった。
「……面白い。実によく回る口だ」
子爵は再び俺に向き直り、その鷲のような瞳で俺を射抜いた。
「よかろう。その取引、乗ってやる。だが、一つでも嘘があった場合はどうなるか……分かっているな?」
「わしに力を貸せ、ナオキ殿。このフェルムを、共に救う気はないか?」
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