第35話 覚醒と取引
「さあ、始まりだ」
俺の小さな呟きは、屋敷に渦巻く歓喜の喧騒にたやすく掻き消された。
使用人たちの堰を切ったような泣き声と甲高い笑い声が入り混じり、廊下を走り回る足音が絶え間なく響いている。誰もが互いに抱き合い、主の生還を喜び合っていた。絶望という分厚い暗雲がようやく晴れ、一気に噴出した感情の洪水だ。
「……ナオキ、あんた……一体、何をしたんだ……?」
隣に立つセーラが、呆然とした声で俺の名を呼ぶ。その美しい瞳には、目の前の奇跡に対する驚きと、未知の力への畏れ、そして理解が追いつかないことへの困惑が浮かんでいた。つい先日まで、ただの人間不信な男だと思っていた相手が、神の如き御業を成したのだ。無理もない。
「言っただろう。奇跡を見せてやるってな」
俺はこともなげに肩をすくめてみせる。セーラはそれ以上何も言えず、ただ乾いた笑いを漏らすだけだった。彼女の中で、俺という存在の定義が根底から覆され、再構築を迫られているのが見て取れた。
その時、老執事のハインツが人波をかき分けるようにして俺の目の前に駆け寄り、ためらいもなくその場にひれ伏した。石畳に額がつくほどの、完全な土下座だった。
「ナオキ様……! ああ、ナオキ様! なんと、なんとお礼を申し上げれば……! このご恩は、生涯をかけて……!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、ハインツは俺のブーツに額をこすりつけようとする。その姿に、周囲の熱狂がさらに加速した。
「よせよ、みっともない。まだ終わったわけじゃない」
俺はハインツの肩を掴んで、半ば無理やり立たせた。老人の体は、興奮と安堵で小刻みに震えている。
「ゲルトが完全に目を覚まして、ご自身の足で歩き出すまでは、何も安心できない。騒ぐのはそれからだ」
俺の冷静な声に、周りにいた使用人たちもハッと我に返り、さしもの喧騒が少しだけ収まる。
だが、彼らが俺に向ける眼差しは、昨日までとはまるで別物になっていた。それは、得体の知れない流れ者に向けられる警戒や侮蔑の視線ではない。神の使いか、あるいは伝説の聖者か何かを見るような、熱狂的な信仰の色を帯びていた。
'これでいい。交渉の駒は、揃った'
俺は静かに、次の段階へと意識を移した。
* * *
それから数時間後。
俺の予想通り、抗生物質と点滴の効果は絶大だった。ゲルトの荒い呼吸は次第に穏やかになり、死人のようだった顔色にも血の気が戻り始めた。そして昼過ぎには、ゆっくりと、しかし確実に意識を取り戻した。
「……わしは……生きとる、のか……?」
ベッドの上でゆっくりと身体を起こしたゲルトが、骨張った自分の手を見つめながら、掠れた声で呟いた。三途の川を渡りかけていた記憶が、まだ曖昧なのだろう。
「旦那様! おお、旦那様……! ご無事で……!」
ハインツがベッドに駆け寄り、その手にすがりついて子供のように泣きじゃくる。他の使用人たちも、部屋の入り口から安堵の表情で主の姿を見守っていた。
「……ハインツか。大袈裟なやつめ。……いったい、何があった? わしはてっきり、もう……」
ゲルトが状況を尋ねると、ハインツは興奮気味に、俺という「奇跡の治療師」がいかにして彼を死の淵から救い出したかを、身振り手振りを交えて語り始めた。
ゲルトは黙ってそれを聞いていたが、やがてハインツを手で制し、鋭い視線を俺に向けた。その瞳には、病の翳はもはやない。かつての老獪な商人の、全てを見透かすような眼光がそこに戻っていた。
「……お主か。わしを救ったというのは」
「ええ。まあ、そんなところです」
俺は壁に寄りかかったまま、静かに答えた。
「ハインツ、席を外せ。……そこにいる傭兵の女もだ。こやつと二人きりで話がしたい」
ゲルトの威厳ある命令に、ハインツとセーラは一瞬ためらったが、静かに頷いて部屋から出て行った。
重厚な扉が閉まり、広大な主寝室には、俺とゲルトの二人だけが残された。部屋を満たすのは、暖炉の薪がはぜる音と、緊張の糸が張り詰める音だけだった。
「……単刀直入に聞こう。お主、一体何者だ? 神の使いか、それとも悪魔の手先か?」
ゲルトの問いに、俺は不敵な笑みを浮かべた。
「ただの通りすがりの『治療師』ですよ。それより、ゲルト殿。取引をしませんか?」
「取引、だと?」
ゲルトは眉をひそめた。
俺は壁から背を離し、一歩前に出た。
「俺には、この町を覆う疫病を終わらせる力がある。だが、そのためにはあなたの力が必要なんです。俺が救ったあなたの命は、この町の数千の命を救うための鍵になる」
俺の言葉に、ゲルトの目が興味深そうに細められた。商人の血が騒ぎ始めたのが分かった。
「ほう……続けてみろ。その取引とやらを」
俺は、この疫病の原因が町の広場にある井戸水であること、そして自分にはそれを治療する薬と技術があることを、簡潔に、しかし確信を持って説明した。
「……井戸水が原因、だと? それは確かか?」
「ええ。このままでは、フェルムは死の町になるでしょう。人も物も、金も動かない、ただの墓場に」
「……それで、わしに何をしろと?」
いよいよ本題だ。
「簡単なことです。まず、あなたの権威で、即刻、井戸の使用を禁止させる。そして、俺が治療活動を行うための場所と、人々の混乱を抑えるための兵を貸してほしい。もちろん、治療に必要な薬や器具の費用も全て、あなたに負担していただく」
俺のあまりに堂々とした要求に、ゲルトは一瞬言葉を失い、目を丸くした。だが、やがてその表情が崩れ、腹の底から笑い出した。
「ククク……っ、はっはっはっ! 面白い! 実に面白い小僧だ! 命を救った恩を笠に着て、この金獅子ゲルトに指図するばかりか、金まで出させようとは!」
ゲルトは涙を拭いながら、俺を真っ直ぐに見据えた。その瞳は、巨大な商機を見つけた時の、ギラギラとした輝きを放っている。
「よかろう、乗った! この金獅子商団の全てを賭けて、お主の『奇跡』とやらを支援してやる! このわしに、お主という途方もない商材に投資させてみろ!」
老商人は、死の淵から蘇ったことで、より大胆な賭けに出る覚悟を決めたようだった。
「感謝します。賢明なご判断です」
「うむ! ハインツを呼べ! 金獅子商団の総力を挙げて、『ナオキ』の治療院を立ち上げるぞ! これは戦争だ!」
こうして、俺とフェルム最大の権力者との間に、奇妙で、しかし強固な協力関係が結ばれたのだった。
* * *
ゲルトの行動は、決断と同じく迅速だった。
彼の命令一下、金獅子商団の私兵が広場の井戸を完全封鎖し、屋敷の広大な前庭には、瞬く間に臨時の診療所が設営されていく。白い天幕が次々と張られ、簡易ベッドが運び込まれ、湯を沸かすための大鍋がいくつも据え付けられた。
同時に、「金獅子商団の主を救った奇跡の治療師、ナオキと言う人物が、商団の後援で無償治療を行う」という噂が、商団の者たちの手によって意図的に町中にばら撒かれた。
効果は、絶大だった。
半日も経たないうちに、屋敷の門の前には、助けを求める病人とその家族が黒山の人だかりを作っていた。呻き声、泣き声、懇願する声。それは希望の行列であると同時に、絶望が凝縮された地獄絵図そのものだった。
「ひどいな……」
屋敷のバルコニーからその光景を見下ろし、セーラが顔をしかめて呟く。
「ああ。だが、ここからが本番だ」
俺はセーラを護衛に、ハインツを補佐につけて、群衆の中へと降りていった。
「静まれ! 静まれ! 順番に、ナオキ先生が診てくださる! 騒いでは治療が遅れるだけだぞ!」
ハインツが声を張り上げ、屈強な商団の兵士たちが人の壁を作ってどうにか秩序を保っている。
俺はその中から、最も衰弱が激しい少女を抱いた母親を指差した。
「まず、その子からだ」
母親は信じられないといった顔で俺を見上げ、何度も何度も頭を下げながら人垣の中へと進み出てくる。
俺はしゃがみ込み、ぐったりとした少女の顔を覗き込んだ。肌は燃えるように熱く、呼吸も浅く、か細い。
'間に合うか……'
俺はマリエクで呼び出した点滴セットと抗生物質のアンプルを準備する。人々の視線が、針のように俺の手に突き刺さる。誰もが固唾を飲んで、俺の一挙手一投足を見守っていた。
俺がアンプルの首を指で弾き、薬液を注射器で吸い上げようとした、まさにその瞬間だった。
「待てッ!」
群衆の後方から、鋼を叩きつけたような鋭く張り詰めた声が響いた。
人々がモーゼの海割れのように左右に分かれると、その向こうから、クローウェル子爵家の紋章を掲げた武装した兵士の一団が、厳しい表情でこちらへ向かってくるのが見えた。重い足音が、人々の希望を打ち砕くように響く。
先頭に立つ隊長らしき男が、抜身の剣の切っ先を、真っ直ぐに俺へと向ける。その目は、汚物でも見るかのように冷たい。
「貴様が、無許可で怪しげな医療行為を行い、民衆を扇動しているというナオキか!」
その声は、疑う余地のない敵意と、身分差からくる侮蔑に満ちていた。
「クローウェル子爵閣下のご命令である! 疫病の混乱に乗じて不埒な企みをする不届き者め! 即刻、その身柄を拘束する!」
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