第34話 奇跡の始まり
「……あんた、本気で言ってるのか?」
焚き火の夜に互いの全てを曝け出してから数日。俺たちはクローウェル子爵のいるフェルムの町に到着していた。しかし、町は静まり返り、不気味なほどの沈黙に包まれていた。原因はすぐに知れた。致死率の高い疫病の蔓延。希望を求めて辿り着いたはずの町は、絶望の淵に沈んでいたのだ。
そして今、俺の突拍子もない宣言に、セーラが信じられないものを見るような目を向けている。
「ああ、いつだって本気だ。俺は『奇跡の治療師』として、この町を救う」
俺の落ち着き払った態度に、セーラはこめかみを押さえ、深く溜め息をついた。
「はあ……。その『奇跡の治療師』様は、まずどこで御業を見せつけるつもりなんだい? 町の広場ででも派手にやるのか?」
彼女の皮肉交じりの問いに、俺は首を横に振った。
「いや、闇雲に動いても意味がない。まずは、この町の状況を正確に把握する必要がある。信頼できる協力者も欲しいところだな」
「信頼できる協力者、ね……」
「ああ。俺たちの顔と名前を覚えていて、この町で影響力のある人物。心当たりは一人しかいないだろう?」
俺の言葉に、セーラの目がハッと見開かれた。彼女も同じ結論に達したようだ。
「……まさか」
「そのまさかだ。金獅子商団のゲルト爺さんのところへ、まずは挨拶に行くぞ」
* * *
商業地区の一角にそびえるゲルトの屋敷は、以前訪れた時とはまるで別物だった。活気に満ちていた人の往来はなく、巨大な門は固く閉ざされている。重苦しい沈黙が、屋敷全体を支配していた。死の気配が濃厚に漂っている。
俺が重厚な扉を叩くと、しばらくして、やつれた顔の老執事のハインツがわずかに扉を開けて顔を覗かせた。
「……何か御用でしょうか。大変申し訳ありませんが、今はどなた様もお通しすることはできません」
「ナオキだ.....。ゲルト殿へ挨拶に伺った」
俺が名を告げると、老執事ハインツの目にわずかに光が宿ったが、それもすぐに深い絶望の色に塗り替えられた。
「ナオキ様……! ああ、ナオキ様でしたか……! これは大変失礼しました。」
「申し訳ありません、旦那様は……旦那様は、今……!」
言葉を詰まらせ、ハインツは俯いてしまう。その肩が、嗚咽を堪えるように小さく震えていた。
'ハインツも当疲れているようだ....'
「……疫病に、やられたか」
セーラが低い声で尋ねる。使用人は、力なく頷いた。
「はい……。ナオキ様がフェルムを去られてから暫くして高熱にうなされ……。町のお医者様にも診ていただきましたが、もう……手の施しようがないと……」
「なんだと!?」
「旦那様は、ただ死を待つばかりだと……! あんなにお元気だったのに……っ!」
とうとう堪えきれなくなったのか、ハインツはその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた。屋敷に満ちる絶望の正体は、絶対的な主の死期が近いという、揺るぎない事実だった。
'なるほどな。状況は最悪。だが、俺にとっては……'
俺は内心で静かに口角を上げた。
'これ以上ない、最高の舞台じゃないか'
「……おい、ナオキ。あんた、その顔……何を考えてる」
俺の微かな表情の変化を、セーラは見逃さなかった。鋭く訝しげな視線が突き刺さる。
「決まってるだろう」
俺は使用人の前に屈み込み、震えるその肩に手を置いた。
「あんたの主人、俺が助けてやる」
「……え?」
ハインツが、涙に濡れた顔を上げる。その目には、俺の言葉の意味が理解できない、という色がくっきりと浮かんでいた。
「奇跡の治療師が、この町を救いに来た。そう言ったはずだ。その最初の奇跡を、あんたの主人に見せてやる」
俺の静かな、しかし絶対的な確信を込めた宣言に、ハインツも、そして隣に立つセーラさえも、完全に言葉を失っていた。
* * *
ハインツに案内され、俺たちはゲルトの寝室へと足を踏み入れた。
薬草の匂いと、腐敗臭にも似た死の気配が混じり合った重い空気が鼻をつく。天蓋付きの豪華なベッドの上で、かつてあれほどの威厳と精気を放っていた老商人ゲルトは、まるで別人のように変わり果てていた。
土気色の肌。落ちくぼんだ目。浅く、速く、苦しげに繰り返される呼吸。その喉からは、時折ヒューヒューと空気が漏れる音がする。
鑑定するまでもなく、死の淵にいることは明らかだった。
「……旦那様……」
ハインツが悲痛な声を漏らす。セーラも息を飲んで、その惨状から目を逸らせずにいる。
'よし'
俺は覚悟を決め、マリエクを起動した。
「いいか、二人とも。今からやることは、あんたたちの常識からは完全に外れている。だが、決して邪魔はするな。爺さんを助けたければ、黙って見てろ」
俺がそう告げると、ゴトン、という鈍い音と共に、銀色の箱と、透明な袋に入った液体、そこから伸びる管といった、奇妙な道具一式が床に出現した。
「なっ……!?」
「なんだい、そりゃ……」
ハインツとセーラが、同時に驚愕の声を上げる。
「『医療』だ。祈祷でもなければ、魔法でもない。病の元凶を直接叩き、弱った体に栄養を送り込む、ただの合理的な技術さ」
俺は手際よく点滴セットを組み立てながら説明する。脳内に流れ込む、購入済みの医療知識に従って。銀色の箱からアンプルを取り出し、注射器で黄色い液体を吸い上げた。
「こいつが『抗生物質』。病を引き起こしている目に見えない虫……細菌を殺す薬だ」
次に、その薬を点滴バッグに注入し、軽く混ぜ合わせる。
「そして、この点滴で、薬と水分、栄養を直接血管に送り込む。口から食事ができなくても、これがあれば体は弱らない」
俺の淀みない手つきと、訳の分からない理論に、使用人はただ呆然と圧倒されている。
「……本当に……本当に、旦那様は助かるのですか……?」
「ああ。手遅れでなければな。だが、このままにしておけば、間違いなく今夜が峠だ。どうする? 奇跡に賭けてみるか?」
俺の問いに、ハインツはしばらく葛藤するように唇を噛んでいたが、やがて、すがるような目で俺を見つめ、床に額をこすりつけるようにして深く頭を下げた。
「……お願いいたします! ナオキ様! どうか、旦那様をお救いください!」
「分かった」
俺は短く答え、意識のないゲルトの腕を取った。アルコール消毒綿で皮膚を拭い、血管を探す。指先に、確かな弾力。
'ここだ'
俺は躊躇なく、点滴の針をゲルトの腕に突き立てた。
セーラが息を飲む音がすぐ隣で聞こえる。
針が血管を捉える、独特の感触。チューブを繋ぐと、血液の逆流が成功を証明した。
俺は点滴のクレンメを調整し、薬液が一定の間隔で滴り落ち始めるのを確認する。ポツリ、ポツリと、静まり返った部屋に命の水滴が落ちる音だけが響いていた。
「……あとは、神に祈るんじゃない。爺さんの生命力を信じろ」
俺は静かにそう告げ、ベッドの脇に腰を下ろした。
* * *
長い、長い夜が明けた。
俺はほとんど眠らずにゲルトの容態を監視していたが、夜明けと共にセーラに後を任せ、少しだけ仮眠を取っていた。
屋敷に満ちていた重苦しい沈黙を破ったのは、ゲルトの世話をしていた女性使用人の、甲高い悲鳴だった。
「きゃあああああっ!」
その声は、恐怖ではない。信じられないものを見た、純粋な驚愕に満ちていた。
俺は飛び起き、セーラと共にゲルトの寝室へと駆けつける。
部屋の前には、何人かの使用人たちが集まり、幽霊でも見たかのように呆然と室内を見つめていた。
そして、その視線の先――。
「……うそ……だろ……」
セーラが呆然と呟いた。
ベッドの上で、ゲルトが穏やかな寝息を立てていた。
昨日までの、死人のような土気色は消え、頬には確かな血の気が戻っている。苦しげだった呼吸は、深く、安らかなリズムを刻んでいた。そっと額に触れると、あれほど燃えるようだった熱が、嘘のように引いている。
「……熱が……下がっている……! 旦那様の熱が……!」
「おお……! 神よ……! ルミナス様……!」
最初に悲鳴を上げた使用人が、震える声でゲルトの回復を告げる。
その言葉が、引き金になった。
一人の老使用人がその場にへたり込んで感極まって泣き崩れ、また一人が廊下を駆け出し、「旦那様が! 旦那様の病が治ったぞ!」と屋敷中に叫び始めた。
静寂は破られた。
絶望に支配されていた屋敷は、一瞬にして歓喜と興奮のるつぼと化す。
俺はその騒ぎの中心で、静かに笑みを浮かべた。
'さあ、始まりだ'
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