第29話 巨悪の輪郭
カビ臭い地下貯蔵庫に、重苦しい沈黙が満ちていた。俺はアレクシスの自白から転がり出た「アッシュベルク侯爵」という名の重みを、改めて噛み締める。
一介の商会の不正が、一騎士団の暴走が、その裏で糸を引く一人の貴族へと繋がった。そしてそれは、国家規模の巨大な陰謀の、ほんの氷山の一角に過ぎないのかもしれない。
'……洒落になっていない'
俺は静かに立ち上がり、ぐったりと項垂れるアレクシスに背を向けた。こいつはもう駒の一つでしかない。問題は、その駒を動かしている本体だ。
「マルコ、そいつの身柄は任せる。絶対に逃がすな」
「おう! 任せときな!」
力強い返事を聞きながら、俺は地下から階段を上がる。
宿の食堂は、戦いの興奮が冷めやらぬ一方で、得体の知れない事態への不安が入り混じった、奇妙な緊張感に満ちていた。
俺は空いているテーブルの一つにどかりと腰を下ろし、壁際で腕を組んでいたセーラに声をかけた。
「セーラ、ちょっといいか」
「……なんだい」
「なあ、セーラ。今更で悪いんだが、基本的なことを教えてくれ。俺は、この世界のことを驚くほど何も知らない」
「はあ……。今更かよ。まあ、いいけどさ。何からだ?」
俺は懐から、バルガスが以前くれた羊皮紙と炭を取り出す。
「まず、俺たちがいるこの大陸の名前と、この国の名前。それと、周辺の国についてもだ」
セーラは心底呆れたように肩をすくめたが、やがて観念したように炭を手に取った。
「ここは『エルドリア大陸』。俺たちがいるのは、その中央に位置する『アステル王国』だ」
彼女は羊皮紙に大雑把な大陸の輪郭を描き、中央に印をつける。
「アステル王国の東には、尚武の国『ガルダ帝国』。西には、広大な森林地帯を領土とする『エルフ連合』。南は海を挟んで、獣人たちの国々がある」
「……で、北は?」
「北は『極寒山脈』。誰も越えられない天然の壁さ。その向こうに何があるかは、誰も知らない」
'なるほど。まるでゲームか何かで見たような、典型的なファンタジー世界の配置だ。だが、これは現実。そして俺は、そのど真ん中にいる'
「神々は?」
「一番広く信仰されてんのは、創造神『ルミナス』と、その眷属である六大神だな。まあ、あたしは祈ったことなんてないけどね」
俺はセーラの描いた簡素な地図を眺め、自分たちが置かれている状況を頭に叩き込む。そして、一番聞きたかった核心に触れた。
「なるほど.....。それでアッシュベルク侯爵ってのは、どんな奴なんだ?」
俺の問いに、セーラの眉がぴくりと動いた。
* * *
「……ああ。アステル王国の、な。しかも、かなり厄介な大物だよ」
セーラの声のトーンが一段低くなる。
「王都じゃ『やり手の名君』なんて呼ばれてるらしいが、あたしたちみたいな裏街道の人間には、ろくな噂は聞こえてこないね。自分の領地では逆らう者を力でねじ伏せ、近隣の弱小貴族や自由都市にちょっかいを出しては、富を吸い上げてる。そういう評判の男さ」
「このグルフも、その被害に?」
「直接的じゃない。だが、この町は近隣一帯を治めるのはクローウェル子爵の領地だ。詳しい政治の事なんか、私には分かりゃしないが、侯爵閣下からすりゃ、子爵なんて立場も弱いし、関係性からも、目をつけやすかったんだろう」
セーラは俺が描いたグルフの町の印のすぐ隣に、もう一つ印をつけた。
「ここがアッシュベルクの領地だ。川を挟んですぐ隣。あいつがグルフの粘土に気づいたとしても不思議じゃない」
セーラの言葉が、アレクシスの自白の裏付けとなる。すべてが一本の線で繋がった。
ヴァーミリオン商会も、腐った騎士団も、全てはアッシュベルク侯爵がグルフの富、ひいてはクローウェル子爵の富を不法に搾取するための駒だったのだ。
「王家はこのことを知らないのか?」
「さあな。今の国王陛下の評判は悪くないと聞く。だが、王都の貴族どもがどこまで腐ってるかなんて、あたしたちみたいな流れ者には分かりゃしないよ」
セーラは忌々しげに吐き捨てた。
「一つだけ言えるのは、アッシュベルク侯爵に逆らって無事だった奴はいない、ってことだ。……ナオキ。あんた、とんでもない化け物の尻尾を踏んじまったんじゃないのかい?」
彼女の視線が、俺の顔に突き刺さる。心配と、そしてどうしようもない事態に直面した者だけが持つ、わずかな好奇の色を帯びて。
* * *
俺はしばらく黙って考えを巡らせた。そして、静かに立ち上がる。
「バルガス、ゴードン、マルコを呼んできてくれ。セーラもだ。全員に話がある」
俺のただならぬ雰囲気を察し、セーラは黙って頷き、すぐに動いた。
数分後、宿の食堂には、今回の騒動の中心人物たちが顔を揃えていた。不安げなバルガス、憔悴しきったゴードン、緊張した面持ちのマルコ、そして腕を組んで壁に寄りかかるセーラ。
俺は全員の顔をゆっくりと見渡し、はっきりと告げた。
「これからの方針を決める。俺は、この一件をこの地を治めるクローウェル子爵に報告しに行く」
「りょ、領主様にかい!?」
バルガスが素っ頓狂な声を上げる。
「ああ。アッシュベルク侯爵の悪事を公にする。これはもう、俺たちだけで解決できる問題じゃない」
俺は言葉を続ける。
「そこで、各々の役割を明確にしたい。まずバルガス。あんたには、俺が戻るまでこの『木陰亭』とグルフの町を頼む。マルコたちと協力して、町の再建準備を進めてくれ」
「街道を封鎖していた原因は既に解決済みだから、徐々にグルフも交易が可能になるだろう。」
俺は懐から金貨を一枚取り出し、バルガスの手のひらに握らせた。
「これは、あんたへの返済だ。以前、俺に金を貸してくれた礼でもある。これで必要なものを揃えてくれ。これから長い付き合いになるんだ、頼むぜ、相棒」
「……ったく、こんなもん握らせて『相棒』だなんて、お前さんは人使いが荒いぜ」
バルガスはぶっきらぼうにそう言うと、金貨を乱暴に懐に突っ込む。だが、その口元は、確かに笑っていた。
「だが、まあ……分かったよ。お前さんが帰ってくる場所くらい、俺がちゃんと守っといてやる。だから……死ぬんじゃねえぞ、ナオキ」
「ゴードン。お前はここに残ってライアンの看護を続けろ。必要なものがあれば、いつでも送る」
「はい! ライアンのことは任せてください!」
ゴードンは力強く答えた。仲間の命を救った俺への、絶対的な信頼がそこにはあった。
「マルコ。お前と『グルフ復興部隊』は、町の治安維持と捕虜の監視を徹底しろ。俺がいない間、この町を無法地帯にするな」
「承知した! このマルコ、ナオキの信頼に応えてみせる!」
最後に、俺はセーラに向き直った。
「セーラ。あんたには、俺の用心棒として代官がいる街まで同行してもらう。道中、何があるか分からん」
「……いいだろう。元々その契約だ」
セーラは短く答え、壁から背を離した。その目には、覚悟が決まっていた。
それぞれの役割と目的が、明確に定まった瞬間だった。
* * *
指示を出し終え、俺は一人、割り当てられた宿の部屋に戻った。
窓の外は、まだ深い闇に包まれている。
'代官への報告、か……'
口では威勢のいいことを言ったが、相手は王都でも指折りの権力者だ。一筋縄でいくはずがない。
そもそも、俺はこの世界に来て、ただ静かに、誰にも関わらず生きていこうと決めていたはずだった。
人間不信に陥り、会社も家族も失い、もう何もかもがどうでもいいとさえ思っていた。
それなのに、今、俺は何をしている?
瀕死の仲間を救うために奔走し、寄せ集めの部隊を率いて騎士団と渡り合い、国家規模の陰謀に首を突っ込もうとしている。
「……はっ」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
'悠々自適なスローライフは、どこへ行ったんだか……'
窓ガラスに映る自分の顔は、かつての無気力な男のものではなかった。それは、面倒な問題に直面し、それでも前に進もうとする、奇妙な活力を帯びた男の顔だった。
まったく、面倒なことに巻き込まれたもんだ。
俺は小さく溜め息をつき、静かに夜が明けるのを待った。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークしてもらえると励みになります!
評価や応援コメントも、とても励みになっています。




