第2話 寂れた宿場町と最初の「取引」
森を抜けると、視界が一気に開けた。
森の向こうに見つけた煙を目印に歩き続け、ようやく人の住む場所までたどり着いたらしい。乾いた街道の先に、低い家々と粗末な木柵が見える。
「……着いた」
思わず息が漏れた。
森を歩き続けた脚は重い。腹も減っている。それでも、人の暮らす場所を目にしただけで肩の力が少し抜けた。
少なくとも、今夜も正体の分からない獣に怯えながら森で眠ることだけは避けられそうだ。
そう思ったのだが――。
町へ近づくにつれ、安堵は別の感情へ変わっていった。
「……ずいぶん、寂れてるな」
門と呼ぶには心許ない木柵を抜ける。
家々の土壁は所々崩れ、剥き出しになった木材には何度も補修した跡がある。道端には壊れた桶や板切れが転がり、排水溝らしき窪みからは嫌な臭いが漂っていた。
人はいる。
だが、活気がない。
擦り切れた服を着た男が黙って荷物を運び、痩せた子供が道端に座っている。店らしき建物もいくつか見えるが、軒先の商品は驚くほど少なかった。
俺は立ち止まり、辺りを見回した。
日本で想像していた「異世界の町」とは、ずいぶん違う。
冒険者が酒場で騒ぎ、露店に品物が溢れ、行き交う商人が声を張り上げる――そんな光景はどこにもなかった。
「これ、金を稼げるのか……?」
マリエクを使うには、この世界の通貨が必要だ。
次の一枚をどうやって手に入れるか。
森にいた時は、まず人のいる場所へ行けば何とかなると考えていた。だが、町そのものがここまで貧しいとは思っていなかった。
腹の奥が重くなる。
森を抜けたら少しは状況が好転する。
そんな期待を、勝手に抱いていたらしい。
俺は道の端にある低い石へ腰を下ろした。
すぐ近くを、布を被った老婆が通り過ぎる。ちらりとこちらを見たが、声をかけることもなく、そのまま去っていった。
当然だ。
見知らぬ中年男が、汚れた作業着で座り込んでいる。
俺でも関わりたくない。
「……さて、どうする」
独り言に答える者はいない。
その時。
ぎゅるるる、と腹が鳴った。
思った以上に大きな音だった。
「……腹は減るんだよな」
思わず苦笑する。
落ち込んでいようが、異世界だろうが、腹は減る。
喉も渇く。
昨夜までの人生を引きずって立ち止まっていても、今日の飯は出てこない。
俺は膝に手をつき、立ち上がった。
「金がないなら、作るしかないか」
できるかどうかは分からない。
だが、何もしなければ確実に何も手に入らない。
町を歩く。
今度はただ眺めるのではなく、意識して人の手元を見るようにした。
井戸のそばでは、女が欠けた包丁を砥石に何度も擦りつけている。
少し先では、老人がすり減った針のような物で革を縫っていた。
荷車の横では、別の老人が車輪を修理している。使っている木槌にはひびが入り、ノミらしき道具の刃先は丸く潰れていた。
服も、道具も、建物も。
新しい物が少ない。
壊れたら直す。
駄目になりかけても使う。
そうして何とか暮らしているように見えた。
'金がない。それだけなのか?'
俺は足を止めた。
商隊が来ない。
品物が入ってこない。
だから、質の悪い物でも使い続けるしかない。
まだ全部推測だ。
この町の事情を何も知らない俺が、数十分歩いただけで分かった気になるのは危険だ。
それでも――。
'ここには、物が足りてない'
少なくとも、それだけは見て取れた。
そして俺には、金さえあれば日本の品物を買えるマリエクがある。
問題は、その金をどう手に入れるかだ。
俺の視線は、さっきの荷車へ戻った。
車輪と格闘していた老人が、また右手首を押さえている。
使っているノミは明らかに傷んでいた。
あれなら、日本の安い新品でも違いが出るかもしれない。
「……やってみるか」
成功する保証はない。
むしろ、知らない世界でいきなり商売を始めるなど、我ながら無茶だと思う。
だが、今の俺に売れるものがあるとすれば、マリエクで手に入る品物しかない。
俺は老人の作業場へ向かった。
* * *
「じいさん。そのノミ、もう限界じゃないか?」
声をかけると、老人が顔を上げた。
皺の深い顔が露骨に険しくなる。
「……誰だ、あんた」
「通りすがりだ」
「だったら通り過ぎろ。こっちは忙しい」
取り付く島もない。
老人は再び車輪へ向き直り、ひび割れた木槌を振るった。
コンッ。
鈍い音。
潰れた刃先は木へほとんど食い込んでいない。
老人が舌打ちした。
俺はその様子を見て、もう一度口を開く。
「今のより、ずっと切れるノミがあったら買うか?」
木槌が止まった。
「……何?」
「新品だ。少なくとも、そいつよりは仕事になる」
老人の視線が俺の頭から足元までゆっくり下りていく。
「持ってるようには見えねえな」
「今、ここにはない」
「なら帰れ」
「用意はできる」
老人の眉間に皺が寄った。
「現物もねえのに、買えってのか。馬鹿にしてんのか?」
当然の反応だった。
俺だって、同じことを言われたら疑う。
マリエクの残高はゼロ。
商品を見せるには、先にこの世界の金がいる。
それを正直に説明するわけにもいかない。
少し考え、俺は言った。
「じゃあ、こうしよう。まず銅貨一枚だけ出してくれ」
「はあ?」
「その一枚でノミを一本用意する。気に入らなければ、残りは払わなくていい。そのノミはあんたに置いていく」
老人が目を細める。
「……つまり、駄目な品でも俺は銅貨一枚払うのか」
「そうだ。ただし、品物そのものは残る。今使ってるそれより悪い物を持ってきたら、好きなだけ笑えばいい」
「ずいぶんな自信だな」
「なかったら声なんかかけない」
本当は、百円のノミがこの世界でどれほどの品質なのか、俺にも分からない。
けれど、目の前の刃先を見る限り、勝負にはなると思った。
老人は俺とノミを交互に見る。
「いくらで売る気だ」
「気に入ったら、全部で銅貨五枚」
「五枚!? ノミ一本にか!」
「今の仕事がどれだけ早く終わるか、それを見てから決めればいい」
「……ふざけた野郎だ」
吐き捨てながらも、老人は断らなかった。
視線が修理途中の車輪へ向く。
「こいつを今日中に仕上げねえと、金にならん」
小さく呟き、腰の革袋を探る。
やがて、銅貨を一枚取り出した。
「一枚だけだ。変な真似したら、町中に詐欺師だって言い触らすぞ」
「それでいい」
銅貨を受け取った瞬間、視界の端に表示が浮かんだ。
【残高:100円】
森で拾った銅貨と同じだ。
俺は内心で息を吐いた。
「ちょっと待ってろ」
作業場の脇へ回り、老人から手元が見えにくい位置でマリエクを開く。
検索。
【家庭用ノミ:100円】
【購入しますか? YES/NO】
'YES'
ポンッ。
手元に一本のノミが現れた。
残高は再びゼロ。
俺はすぐに画面を閉じ、ノミを作業着の内側へ差し込んで老人の前へ戻った。
「ほら」
「……早いな」
「細かいことは気にするな」
「気になるだろうが」
もっともだった。
だが、そこを説明するつもりはない。
老人は訝しげな顔のまま、差し出したノミを受け取った。
その表情が少し変わる。
刃先を見る。
側面を見る。
指で慎重に刃を確かめ、今度は柄を握り直した。
「……鉄が妙に綺麗だな」
俺には分からない。
だが、長年道具を使ってきた人間には何か感じるものがあるらしい。
「使ってみれば分かる」
老人は返事をせず、修理途中の車輪へノミを当てた。
木槌を一度振るう。
コンッ。
さっきまでとは違う、乾いた音。
刃が木へ食い込み、薄い木片が落ちた。
老人の動きが止まる。
もう一度。
コンッ。
今度はさらに深く入った。
「……なんだ、こりゃ」
老人が呟く。
三度目は、俺ではなくノミを確かめるように打った。
そして、傷んだ自分のノミと新品を並べる。
「これ、本当にあんたの品か?」
「今渡しただろ」
「そういう意味じゃねえ」
「じゃあ、どういう意味だよ」
「……いや、いい」
老人は新しいノミを離そうとしなかった。
反応を見る限り、賭けには勝ったらしい。
俺は少しだけ肩の力を抜く。
「で。残り四枚」
「高え」
「さっき五枚でいいって話だっただろ」
「誰がいいって言った!」
「使ってから決めろとは言った」
「だったら決めた。高え!」
即答だった。
思わず笑いそうになる。
「じゃあ、いくらなら出す」
「残り二枚」
「安すぎる。三枚」
「……三枚出したら、今日の稼ぎがほとんど飛ぶ」
老人が顔をしかめる。
その視線の先には、作業場の隅に積まれた古い工具があった。
欠けた刃物。
曲がった金具。
柄の割れた道具。
俺はそれを指差す。
「なら、残り三枚。それと、使えない古道具をくれ」
「こいつらを?」
「ああ」
「こんな物、どうする」
「俺にも使い道がある」
老人はしばらく考えた。
古いとはいえ鉄だ。
この町では、それなりに価値があるのかもしれない。
「……全部は駄目だ」
「使える物まで寄越せとは言ってない」
「本当に駄目なやつだけだぞ」
「それでいい」
老人は渋々、腰の袋から銅貨を三枚出した。
それから作業場の隅を漁り、折れたノミや錆びた金具、柄の割れた小さな木槌などを選んでまとめる。
俺は銅貨を受け取った。
【残高:300円】
最初の一枚は商品代として消えた。
残った利益は三百円と、古道具。
金額だけ見れば小さい。
だが、ゼロだった俺の手元に初めて元手ができた。
「取引成立だな」
「……ったく。どこの商人だ、あんた」
「商人じゃない」
少なくとも、昨日までは。
老人は鼻を鳴らし、新しいノミをもう一度眺めた。
俺は古道具をまとめながら、ついでに聞く。
「じいさん。一つ教えてくれ」
「まだ何か取る気か?」
「情報くらいサービスしてくれ。いい物を売っただろ」
「自分で言うかよ」
呆れながらも、老人は手を止めなかった。
「この町の名前は?」
今度こそ、老人が完全に動きを止めた。
「……あんた、町の名前も知らずに来たのか?」
「旅の途中で迷った」
嘘ではない。
かなり大きく省略しているだけだ。
老人はますます怪しそうな顔をしたが、やがて肩をすくめた。
「涸れ谷のグルフだ」
「グルフ……」
初めて、この世界で地名らしい地名を知った。
「なんで、こんなに寂れてる?」
「ああ?」
老人の顔が少し曇る。
「昔は宿場町だった。だが、山向こうに新しい街道ができてから、商隊がほとんど来なくなった。人も店も減った。残ってるのは、ここを捨てられねえ連中くらいだ」
なるほど。
さっき町を歩いて感じたことと繋がった。
物がないのは、単に貧しいからだけじゃない。
流通そのものが細っている。
「そういうことか……」
「なんだ?」
「いや。助かった」
古道具を抱え、俺は立ち上がった。
背後で、老人がまた新しいノミを木へ当てる音がした。
コンッ。
今度はさっきより軽い。
「……こりゃ、仕事になるな」
小さな声が聞こえた。
俺は振り返らなかった。
善意で渡したわけじゃない。
向こうは道具を手に入れ、俺は金と古道具を手に入れた。
ただの取引だ。
それでいい。
手元の現金はない。
だが、マリエクの残高は三百円。
腕には、ずしりと重い古道具。
異世界へ来てから初めて、自分で作った元手だった。
俺は寂れた宿場町グルフの通りへ戻る。
次は、今夜眠る場所だ。
腹も限界に近い。
三百円と、この古道具でどこまでやれるか。
何も分からない。
それでも昨日までとは違う。
ゼロではない。
そのことだけは、確かだった。
■あとがき■
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