第1話 異世界転移と、ささやかな希望
・2026/04/11 内容修正しました。
知らない鳥の声で目が覚めた。
重いまぶたをこじ開けると、見慣れない木々の天井が視界に飛び込んでくる。
「……どこだ、ここ」
掠れた声が自分の喉から出た。
体を起こせば、硬い土の上で寝ていたらしく、背中と腰が軋むように痛む。湿った土の匂いが鼻をついた。
周囲は見渡す限りの森。天を突くような巨木が鬱蒼と茂り、木漏れ日がまだらに地面を照らしている。
'俺は確か、アパートのベッドで寝たはずだ'
会社へ尽くし、出世も同期よりも早く、期待されていたが、職場の移動先での上司のパワハラ。同僚の裏切り。
うつ障害と診断され、
会社からは厄介者とされてしまった。愛していた妻は「見ていられない」と一言残し、息子を連れて出ていった。
もう誰も信じられない。何もかもに疲れてしまった。必死に生きることに、何の価値もなかった。
「……はぁ」
ため息と同時に、目の前に半透明の青い板がふわりと浮かび上がった。
「なっ……!?」
思わず後ずさる。それはゲームのウィンドウのようだった。
【川田 直樹】
種族:人間
性別:男
年齢:42歳
職業:なし
LV:1
HP:88/88
MP:15/15
攻撃力:12
守備力:10
力:11
素早さ:9
知力:25
運のよさ:15
【スキル】
・ユニークスキル:『マーリーエクスプレス』 通称
・全言語理解
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
パワハラ、裏切り、離婚。人生のどん底で、今度は異世界転移とは。出来すぎた冗談だ。
「昔の俺なら、面白く楽しめる状況なんだろうが.....」
'もう、どうでもいい……'
誰かを信じれば裏切られ、尽くせば切り捨てられる。人と関わるのは、もううんざりだ。
ここが異世界だろうと、誰にも知られず、静かに消えられたらそれでいい。
ウィンドウは、俺の意思とは関係なく浮かび続けている。
'……まあ、いい。どうせ暇だしな'
投げやりな気分で、俺は青い板に意識を向けた。どうせ死ぬまでの暇つぶしだ。まずは、意味ありげに表示されているユニークスキルとやらに意識を集中させてみる。
【ユニークスキル:マーリーエクスプレス】
この世界の通貨を日本の通貨(JPY)に自動変換し、現代日本の大手ネットショッピングサイト『MarryExpress』で商品を購入することができます。購入した商品は、即座にあなたの手元へ転送されます。
・為替レート:金貨/枚 = 100,000円 / 銀貨/枚= 1,000円 / 銅貨/枚 = 100円/ 鉄貨/枚=10円
・利用には対象の通貨が必要です。
「……は?」
意味が理解できなかった。異世界の金で、日本の通販サイトが使える? 商品は、すぐに手元に?
'馬鹿な。そんな都合のいい話があるか'
人間不信に凝り固まった心がスキルを否定する。どうせ巧妙な罠か、あるいは死ぬ間際に見る都合のいい夢だろう。
それに、とポケットを探るが、財布もスマホもない。あるのはよれよれの作業着だけだ。
「通貨が必要、か……」
結局、金がなければ何もできない。元の世界もこの世界も、根本は何も変わらないらしい。
またあくせく働いて、誰かと競い、裏切られるのか。そう考えただけで吐き気がした。絶望に、喉の奥が焼け付くような渇きと、胃が締め付けられる空腹感が追い打ちをかける。
「水……食い物……」
情けない声が漏れた。静かに消えたい、などと考えていた数分前の自分が馬鹿らしくなる。人間は、単純な生理的欲求にはかくも無力なのか。
力なくその場に座り込もうとした、その時。
足元の土くれの間で、何かが鈍く光った。
'ん……?'
土に半分埋もれた、鈍い輝き。
指で土を掻き分けると、古びた一枚の硬貨が出てきた。模様もすり減っているが、銅貨であることはわかる。
「銅貨……」
ゴクリと、乾いた喉が鳴る。
もし、あのスキルが本物なら...。この硬貨一枚は、日本円にして100円の価値があるはずだ。
'100円……'
半信半疑のまま、俺は震える手で硬貨を握りしめ、再びスキルウィンドウに意識を集中する。
『マリエク』を起動。視界がまばゆい光に包まれ、目の前に見慣れたマリエクのトップページが広がった。
【残高:100円】
ウィンドウの隅に、確かにそう表示されている。
心臓が早鐘を打つ。検索窓に、祈るような気持ちで文字を打ち込んだ。
'水'
検索結果には様々なミネラルウォーターが並ぶ。その中で、見覚えのある商品を見つけた。
【西アルプスの天然水 500ml:100円】
「……あった」
声が震える。俺は迷わず「購入」ボタンに意識を合わせた。
【購入しますか? YES / NO】
「……YESだ」
クリックした瞬間、マリエクの画面が消え、ポンッという軽い音と共に、手の中に確かな重みが生まれた。
見慣れたペットボトル。ラベルには「西アルプスの天然水」と書かれている。
夢中でキャップを捻り、ボトルに口をつける。
生ぬるい水が喉を滑り落ち、乾ききった体に染み渡っていく。ただの水が、これほど美味いと感じたのは生まれて初めてだった。
「……ふっ、くく……」
笑いが込み上げてきた。だが、それは乾いた嘲笑ではない。
本当に買えた。異世界で拾ったたった一枚の硬貨で、日本の水を手に入れたのだ。
空腹はまだ満たされない。それでも、温かいものが胸に広がっていく。それは、希望と呼ぶにはまだあまりにささやかだった。
* * *
ペットボトルの水を飲み干し、俺は立ち上がった。
渇きが癒え、冷静な思考が戻ってくる。
'この力は、本物だ'
マーリーエクスプレス。異世界の通貨さえあれば、俺は現代日本のあらゆる物資を、この世界で手に入れることができる。
人と争わず、競わず、誰にも頭を下げずに。
'もしかしたら、このスキルがあるなら!ここでなら……'
今度は静かに暮らせるかもしれない。
誰にも邪魔されず、ただ自分のためだけに悠々自適に生きる!
そんな、元の世界では到底叶わなかった夢が、実現できるかもしれない。
人間は、もう信じない。関わりたくもない。
だが、この力は違う。俺を裏切らない、俺だけの生活の糧だ。
'まずは、どこか人のいる場所を探さないと'
通貨を手に入れる必要がある。村がいい。大きな街は人が多くて疲れる。小さな村の片隅で、自給自足と、このスキルで手に入れる最低限の物資で暮らす。悪くない。
地平線の先に、木々の切れ間から微かに煙が上っているのが見えた。それは大きな街かもしれないし、小さな村かもしれない。どちらでもいい。
「……どうせ、一度は捨てた人生だ」
自嘲の笑みが漏れる。だが、その笑みはもう、ただの絶望ではなかった。死ぬのはいつでもできる。だが、心の片隅で、この力の行く末を見届けずに死ぬのは少しだけ惜しい、と思ってしまったのだ。
「……今度こそ、誰にも邪魔されずに生きてやる」
俺は独りごちると、地平線の先の微かな営みの影を目指した。心にはまだ深い人間不信の闇が渦巻いている。だが、その闇の底に、小さな、しかし確かな好奇心の光が灯っていた。新たな一歩は、絶望の終わりであり、俺だけの未来への始まりだった。
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