第16話 臆病者の目と猟師の足
「ちっ、撤退してねえ! それどころか……こっちに向かって包囲網を広げてやがる!」
崖の上から森を見下ろすセーラの絶叫が、俺たちのわずかな希望を打ち砕いた。
きらめく剣と鎧。それは獲物を追い詰める猟師の群れそのものだった。包囲の輪は、じりじりと俺たちの潜む茂みを絞り込んでくる。
「行くぞ! ぐずぐずするな!」
セーラが俺の腕を掴み、森の奥深くへと駆け出す。彼女の動きには一切の無駄がない。まるで森に溶け込む獣のように、音もなく木々の間をすり抜けていく。
「な、ナオキさん! セーラさん!」
背後からライアンの悲鳴が追ってくる。恐怖で足がもつれ、何度も転びそうになっているのが気配でわかった。
「黙って走れ! 舌を噛むぞ!」
セーラの怒声が、かろうじてライアンを現実に繋ぎ止める。
俺たちは、ただひたすらに走った。セーラは時折、獣のように鋭く鼻をひくつかせ、風の流れを読んで進路を微調整する。
「こっちだ! 奴ら、風上から回り込んでくるぞ!」
彼女は獣道を巧みに使い分け、時にぬかるみにわざと足跡を残したかと思えば、すぐに岩場へ移って痕跡を消す。猟師としての経験と勘が、この絶望的な状況で唯一の生命線だった。
「はあっ…はあっ……! も、もう……無理です……」
ついにライアンが地面に膝をついた。顔は真っ青で、全身が恐怖に小刻みに震えている。
「情けない声を出すな! 立つんだよ!」
セーラが襟首を掴んで無理やり立たせるが、もはや限界だった。
遠くから、複数の男たちの声と、犬の吠える音が聞こえてくる。
「犬まで使ってやがるのか。しつけえクソったれどもが」
セーラが忌々しげに吐き捨て、腰の弓に手をかける。だが、多勢に無勢だ。ここで弓を構えても、的になるだけだろう。
包囲網は着実に狭まり、木の葉が揺れる音、枝が折れる音、その全てが敵の接近を告げていた。俺たちは大きな岩陰に身を寄せ、息を殺す。
「……ここまで、か」
セーラが、絞り出すように呟いた。その目には、やり場のない悔しさが滲んでいる。ライアンはただ、震えることしかできない。
だが、俺はまだ諦めていなかった。
'諦めるのはまだ早い。俺には『マリエク』がある。視界だ。奴らの連携を断つには、視界を奪うしかない'
俺は意識を集中させ、思考の速度を上げて検索窓にキーワードを叩き込んだ。
'煙 目くらまし 視界妨害'
[検索結果:業務用発煙筒(白煙) 20本セット 10,000円]
[検索結果:催涙スプレー 1,500円]
[検索結果:閃光弾 3個セット 8,000円]
'これだ……!'
'催涙スプレーや閃光弾は局所的すぎる。森全体を混乱させるには、圧倒的な量の煙が必要だ。だが、マリエクの残高はほぼゼロ。発煙筒は10,000円……到底足りない!'
思考が停止しかけたその時、目の前のウィンドウに新たな表示がポップアップした。
[残高が不足しています。緊急クレジット機能を利用しますか?]
[※初回は最大100,000円まで貸付可能。返済までスキルの一部機能が制限されます。]
'……!'
もはや、躊躇している時間はない。借金? 機能制限? そんなものは、この死地を生き延びてから考えればいい。俺は迷わず『利用する』を選択した。
「セーラ、ライアン」
俺は小声で呼びかける。
「なんだい、今さら遺言かい」
「これを、森中に仕掛ける。時間は無い」
俺の言葉と同時に、ズシン、という軽い振動と共に、目の前の空間に巨大な段ボール箱が二つ、忽然と姿を現した。
「ひっ……!」
ライアンが声にならない悲鳴を上げる。セーラも目を見開いたが、すぐに状況を理解したようだ。
「……あんた、本当に何者なんだ。まあいい。で、これをどうするんだい」
「風上を中心に、できるだけ広範囲にばらまく。俺の合図で、一斉に作動させる」
俺は箱を開け、金属製の筒を二人に手渡す。
「使い方は簡単だ。この紐を引けば煙が出る」
「……面白え。地獄の釜の蓋を開けてやろうじゃないか」
セーラは不敵に笑い、数本の発煙筒を掴むと、音もなく闇に消えた。
「ライアン、お前もだ! 行け!」
「で、でも……僕は……」
「これは命令だ、参謀! 敵を混乱させなきゃ、俺たちはここで終わりだぞ!」
俺の強い口調に、ライアンはびくりと体を震わせた。だが、やがて覚悟を決めたように頷くと、震える手で発煙筒を抱え、セーラとは逆の方向へ走り出した。
俺も残りの筒を抱え、敵が迫るギリギリのラインまで進み、地面に突き刺していく。
心臓が警鐘のように鳴り響く。すぐそこまで来ている敵の気配に、冷や汗が背中を伝った。
全ての設置を終え、元の岩陰に戻ると、セーラとライアンもほぼ同時に戻ってきた。
俺は二人と目を合わせ、大きく頷く。そして、森中に響き渡る口笛を吹いた。
その瞬間、森のあちこちから「シューッ!」という甲高い音と共に、おびただしい量の白煙が噴き出し始めた。
* * *
「ゴホッ! ゴホッ!」
「なんだこの煙は!?」
「前が見えん! どこからだ!」
森は、一瞬にして濃い白煙に包まれた。敵の怒声と、混乱した叫び声が四方八方から聞こえてくる。作戦は成功した。
「やったな、ナオキ!」
セーラが興奮気味に俺の肩を叩く。
だが、これは諸刃の剣だ。俺たちもまた、完全に視界を奪われていた。
「ゲホッ、ゲホッ……! ど、どっちだ……? 道がわからない……」
ライアンがパニックに陥りかける。煙は敵だけでなく、味方の方向感覚さえも麻痺させていく。下手に動けば、敵のど真ん中に飛び出すことになりかねない。
「静かにしろ! 音を立てるな!」
俺は二人を制し、耳を澄ませる。
混乱した敵兵たちの声、咳き込む音、何かにぶつかる音。その中に、一つだけ冷静な声が響いた。
「慌てるな! 隊列を組め! 円陣を組んで周囲を警戒しろ!」
指揮官の声だ。
'このままでは煙が晴れる頃には、完璧な包囲網が完成してしまう'
絶望が再び俺たちの心を覆い始めた、その時だった。
「……あそこだ」
震える声で、ライアンが呟いた。
彼はずっと、煙が渦巻く一点を凝視していた。恐怖に引きつっていたはずのその目が、今は獲物を見つけた狩人のように鋭く光っている。
「何を言ってるんだい、ライアン。何も見えやしないよ」
「いや……見える。人の流れの、隙間が……」
指揮官の号令に、散り散りになっていた兵士たちが反応し、集まり始めている。その動きが、煙の中でかすかな人の流れを生んでいた。臆病さゆえに研ぎ澄まされたライアンの観察眼が、その流れの中に生まれた、ほんの一瞬の空白地帯を捉えたのだ。
「西側の岩場だ! 指휘관から一番遠い部隊が、合流しようと動いている! その背後が一瞬だけ、がら空きになる! 今しかない!」
ライアンが、俺たちの目を見て叫んだ。それはもはや、臆病者の震え声ではなかった。確信に満ちた、参謀の声だった。
セーラが俺を見る。俺は無言で頷いた。
彼女はニヤリと笑い、ライアンが指した方向へ弾丸のように飛び出した。
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