第148話 閉ざされた道
書庫を出た俺たちは、ラドの部下に案内されて客室へ戻った。
さっきまでなら、ようやく休めると思ったはずだ。
だが、寝台へ腰を下ろしても、頭から離れない。
動かされた木箱。
開封された囮。
そして、姿を消した記録係セドル。
ヒルダが寝台へ背中から倒れ込んだ。
「……結局、寝られねえな」
「今は無理でしょうね」
セーラも小さく息を吐く。
俺は椅子へ腰を下ろし、さっきの書庫を思い返した。
'セドルが囮を開いた本人とは限らない'
あの箱へ触れたのがセドルだという証拠はない。
誰かに鍵を使われた可能性もあるし、セドルが情報だけを別人へ流した可能性もある。
逆に、本当に何も知らなかったのなら――。
「ライアン」
「はい」
机のそばにいたライアンが顔を上げる。
「もし、あんたがセドルで、あの囮を見た本人だったらどうする?」
ライアンは少しだけ考えた。
「私なら、すぐには逃げません」
「やっぱりか」
「ええ。自分まで疑われているのか、どこまで調べられているのか。それを確かめてから動きます。突然姿を消せば、それだけで自分を疑ってくれと言っているようなものですから」
「でも、セドルはいなくなった」
セーラが言った。
ライアンが頷く。
「考えられるのは、すぐ逃げなければならない事情があった。もともと人知れず外へ出る手段を持っていた。あるいは――」
「自分の意思で消えたんじゃない」
ヒルダが寝台の上から続けた。
部屋が静かになった。
逃亡。
協力者。
口封じ。
どれも、まだ切れない。
その時、扉が強く二度叩かれた。
「入ってくれ」
現れたのはラドだった。
一人だ。
「ナオキ。頼みがある」
「セドルか?」
「ああ」
ラドは一度だけ頷いた。
「さっき、ここから先はこっちでやると言ったんだが......。あ~、それは....撤回する」
珍しく、言い切るまでに僅かな間があった。
「セドルの部屋を調べたが、妙な点がある。あんたたちにも見てほしい」
「俺たちは部外者だぞ。いいのか?」
「分かってる。ただ、俺たちが見落としてるものに気づくかもしれない」
俺はライアンたちを見る。
誰も反対はしなかった。
「分かった。調べる手伝いはする。ただし、証拠の扱いも、最終的な判断はあんたたちが決めてくれ」
「それでいい」
ラドは短く答えた。
* * *
セドルの部屋は、居館に近い居住区画の一角にあった。
中には、すでにバドとユナがいる。
「来たか」
バドが俺たちを一瞥した。
一人暮らしには十分な広さだ。
だが、物は少ない。
寝台は整えられ、机には書きかけの書類とインク壺。
壁には普段着らしい服が数着掛かり、小さな棚には銅貨と鉄貨が残されている。
旅支度をした形跡はない。
「金も服も、そのままか」
ヒルダが呟いた。
「ああ。荷物をまとめた跡もねえ」
バドが答える。
ライアンは机の上を触らず、少し離れた場所から眺めた。
「少なくとも、前もって逃げる準備をしていたようには見えませんね」
「仕事の途中で、少し出ただけみたい……」
セーラの言葉に、俺も同じ印象を受けた。
もちろん、だから逃亡ではないとは言えない。
追い詰められて、何も持たずに逃げた可能性だってある。
床近くで鼻を動かしていたユナが顔を上げた。
「争った感じは薄いのだ」
「分かるのか?」
「あたいらの匂いは別として、ここで血が出た匂いはない。セドルと揉み合ったみたいな、新しい匂いも拾えないのだ」
ユナは扉の方へ鼻を向ける。
「でも、セドルの匂いは廊下へ続いてる。それに、ちょっと変な匂いが混じってるのだ」
「変な匂い?」
「湿った土と、古い水みたいな匂い」
ラドとバドの表情が変わった。
「水路か?」
「分かんない。でも、こっちなのだ」
ユナは廊下へ飛び出した。
俺たちも後を追う。
居住区画を抜け、普段は人があまり通らない細い通路へ。
さらに建物の端を回り込み、巨木の根が石壁へ食い込んだ裏手まで来たところで、ユナが足を止めた。
目の前には、錆の浮いた鉄格子があった。
その向こうには、人一人が屈めば通れそうな石造りの水路が続いている。
「ここなのだ」
ユナが鉄格子へ鼻を寄せ、何度も匂いを確かめる。
「セドルの匂いはここまで来てる。でも、この先は水と湿気が強すぎるのだ。もう分かんない」
格子の向こうでは、石壁から染み出した地下水が床の端を細く流れていた。
湿った石と淀んだ水の匂いが、入口にまで漂っている。
「貸してみな」
それまで後ろにいたヒルダが前へ出た。
ユナが耳をぴくりと動かす。
「ヒルダも分かるのだ?」
「普通なら厳しいだろうな」
ヒルダは鉄格子の前へしゃがみ込み、目を閉じた。
ゆっくりと一度、息を吸う。
ユニークスキル――『獣の嗅覚』。
犬以上に匂いを嗅ぎ分ける、ヒルダだけの力だ。
帝都でも、この鼻で雑多な街の匂いから標的を追い続けた。
ヒルダの眉が僅かに動く。
「……ある」
「え?」
ユナが目を丸くした。
「水と泥に混じって薄くなってるが、消えちゃいねえ。セドルの匂いだ」
ヒルダは格子の向こうへ顎を向けた。
「奥へ続いてる」
一瞬、ラドもバドも言葉を失った。
「あたいでも拾えなかったのだ……」
ユナが自分の鼻を押さえながら、ヒルダを見る。
ヒルダは得意げに鼻を鳴らした。
「悪いな。あたしの鼻はちょっと特別なんだよ」
ラドがヒルダを見つめる。
「人間、なんだよな?」
「見りゃ分かるだろ」
「……ビーコンには、そんな奴までいるのか」
その声には、初めて隠しきれない驚きが混じっていた。
少しだけ誇らしい気分になる。
マリエクだけじゃない。
ビーコンには、一人一人の力がある。
ラドはすぐに表情を戻し、鉄格子の先へ視線を向けた。
「旧排水路だ」
「知ってる場所なのか?」
「ああ。昔使われてた。今の排水路が作られた時に閉鎖された。現在の水路網からも切り離されてる」
ラドの顔が険しくなる。
「使えない道だと思われてたから、見張りを置く場所にも入ってない」
「でも、ヒルダの鼻じゃセドルの匂いが奥へ続いてる」
俺が言うと、ラドは短く頷いた。
「ああ。なら、記録か現状のどっちかがおかしい」
バドが格子へ手を掛ける。
錠前は閉じている。
何度か揺らしたが、格子は動かなかった。
「壊された跡はねえな」
「鍵で開けて、閉め直したなら?」
セーラが言う。
ラドが錠前を睨む。
「あり得る。正規の鍵は管理されてる。まずそっちも確認する」
「じゃあ開けるか?」
バドが言った。
「待て」
ラドが止める。
「開ける前に、中を見たい。ここまで来た奴が何か残してるなら、先に踏み荒らしたくない」
鉄格子の隙間から覗いてみる。
暗い。
松明を近づけても、数歩先までしか見えない。
水路は低く、狭い。中へ入れば、床に残ったものを踏む可能性もある。
'壊さず、入らず、奥だけ見たい'
「それならいいのがある」
俺はマリエクを開いた。
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アイテムボックスから黒いケースを取り出す。
「また出たのだ!」
ユナが目を輝かせた。
ケースの中には、手のひらより少し大きいモニターと、そこから伸びる細いケーブルが収まっている。
先端には小さなカメラとライト。
「何だ、それは」
バドが覗き込む。
「狭いところの奥を見る道具だ。先端で見てる景色が、この画面に映る」
俺は電源を入れた。
LEDが点灯し、カメラをユナへ向ける。
「わっ!」
モニターいっぱいに、ユナの片目が映った。
ユナが画面とカメラを交互に見る。
「あたいが、この中にいるのだ!」
「入ってない。今見えてるものが、そのまま映ってるだけだ」
「十分おかしいのだ!」
こんな状況なのに、ほんの一瞬だけ空気が緩んだ。
だが、ラドの視線はすぐ鉄格子へ戻る。
「これなら、中へ入らずに見られるのか」
「ああ。五メートルまでだけどな」
俺は半硬質のケーブルを持ち上げた。
「まず、届く範囲だけ見る」
「頼む」
ラドが頷いた。
* * *
鉄格子の隙間から、ファイバースコープの先端を慎重に差し込む。
モニターに、暗い水路が映った。
石壁は湿り、床には泥と砂が薄く溜まっている。
端を流れる水だけが、LEDの光を反射していた。
俺はケーブルを少しずつ送り込む。
一メートル。
二メートル。
「止めて」
ライアンが言った。
画面の端。
泥の上に、何か小さなものが落ちている。
ケーブルを少し回し、カメラを向ける。
獣の骨を削って作った、小さな飾りだった。
片側には切れた革紐が付いている。
バドの顔が強張る。
「……セドルのだ」
「分かるのか?」
「ああ。仕事着の胸元に、いつも付けてた」
ラドも画面を見つめたまま答える。
「俺も見たことがある」
偶然、同じ物が落ちていた可能性は低い。
セドル自身がここへ来た。
あるいは、セドルの身につけていた物がここへ運ばれた。
それ以上は、まだ言えない。
「先を見よう」
俺はケーブルを送り込む。
三メートルほどの場所で、泥が大きく擦れていた。
足跡だけではない。
床の一部が横へ引かれたように乱れている。
「誰かが転んだ……?」
セーラが画面を覗き込む。
「それとも、何かを引きずったか」
ヒルダが低く言う。
どちらとも断定できない。
さらに先。
乾きかけた泥の上に、別の足跡が重なっていた。
一つではない。
輪郭のはっきりした新しい跡。
その下には、縁が崩れて泥と馴染んだ古い跡もある。
ライアンが画面へ顔を近づける。
「今日一度だけ通った跡には見えませんね」
「ああ」
俺も同意する。
同じ場所を、何度か人が行き来している。
新しいものと、少し古いもの。
大きさの違う跡も混じっていた。
「セドルが今日初めて見つけて、逃げ込んだ道ってわけじゃなさそうだな」
バドの声が低くなる。
ラドは答えない。
俺はさらにケーブルを送った。
四メートル。
その先で、水路が僅かに曲がっている。
五メートル。
ケーブルが止まった。
「ここまでだ」
画面の先には、曲がった通路の奥が少しだけ見える。
暗闇。
だが、その曲がり角の床にも、泥を踏んだ跡が続いていた。
誰かが向こうへ行っている。
「この先も続いてるのだ?」
ユナが小さく言った。
「少なくとも、ここで終わりじゃない」
俺は答えた。
ラドが鉄格子の向こうを睨む。
「おかしい」
「何が?」
「この旧排水路は閉鎖された時、この格子から数歩先を石で埋めたと記録にある」
全員の視線がラドへ向いた。
「じゃあ、この足跡は?」
セーラが尋ねる。
「だから、おかしい」
ラドの声がさらに低くなる。
「誰かが、閉ざされたはずの道を使ってる」
セドルの飾り。
新しい擦れ跡。
何度も往復した足跡。
そして、五メートルの先へ続く暗い通路。
俺たちは、消えた記録係を追っていただけだった。
なのに見つけたのは――セドルが消えるより前から、誰かがガルムの内側で使い続けていた道だった。
記録の上では、とうに閉ざされているはずの道。
その暗闇だけが、まだ先へ続いていた。
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