第146話 内なる敵
ラドとマナが退出したあとも、誰もすぐには口を開かなかった。
切り取られた受領簿。
それは、リーネを罠へ誘い込んだ者か、その協力者が、今もガルムの内部にいる可能性を示していた。
「やっと安全な場所に着いたと思ったんだけどな」
ヒルダが寝台へ背中を預け、天井を睨む。
「帝国兵が追ってくる方が、まだ分かりやすかったわね」
セーラの言葉に、ライアンが小さく頷いた。
「内通者がリーネ様の帰還を知ってから受領簿を切り取ったのなら、相手は今もこちらの動きを把握しています。帰還前に消していたとしても、痕跡を残さない用意をしていたことになる。どちらにせよ、楽観はできません」
「まだ、内通者本人が記録を消したと決まったわけじゃない」
俺が言うと、ライアンは壁に背を預けたまま答えた。
「ええ。ですが、協力者がいるなら、問題は一人では済みません」
何も分からないことだけは、よく分かった。
俺は机の上のICレコーダーを手に取る。少なくとも、さっきの会話だけは俺たちの手元に残っている。
「今は休もう。疲れた頭で考えても、余計な見落としが増える」
「その前に飯だろ」
「まだ言ってるの?」
セーラが呆れた声を上げた、その時だった。
扉が三度叩かれる。
俺が返事をすると、入ってきたのはラドだった。先ほどまで一緒だったマナの姿はない。
「ナオキ。大族長が、あんたたちと直接会うそうだ」
「大族長が?」
「本来なら、こっちで証言を精査してから報告する予定だった。だが、受領簿の件で状況が変わった」
ラドの表情には、先ほどまでなかった緊張がある。
「今からですか」
ライアンが尋ねる。
「ああ。会談を知る者は、できるだけ絞る」
内通者がいるかもしれない場所で、大族長が正体の分からない人間と会う。
歓迎されているからではない。放置できない情報を、俺たちが持っているからだ。
「分かった。案内してくれ」
俺が立ち上がると、仲間たちも続いた。
ラドに先導され、俺たちは客室を出た。
巨大な木々に覆われたガルムの内側は、時刻が分からなくなるほど薄暗い。幹を渡る通路の下では水路が流れ、淡く光る苔が水面を照らしていた。
少し離れた後方を、二人の獣人がついてくる。護衛であり、監視でもある。
当然の扱いだった。
* * *
大族長の居館は、ガルムの中心に立つ巨木と一体になっていた。
王国の城のような尖塔も、帝国の宮殿のような装飾もない。太い幹を利用した建物は、遠くから見れば周囲の木々に紛れてしまう。
だが、近づくほどに、その木が途方もなく古いものだと分かった。
幹には無数の傷が残り、入口の上には使い込まれた槍と斧が交差するように掲げられている。見せるための豪華さではない。長い時間、ここを守ってきた者たちの重みがあった。
案内されたのは、広間ではなく奥まった会議室だった。
石壁と太い木の柱に囲まれた部屋の中央には、大きな一枚板のテーブルがある。壁には獣人領の地図と古い武器が掛けられ、窓は小さい。
扉の外に護衛が残り、中へ入ったのは俺たちとラドだけだった。
テーブルの奥に、一人の獣人が座っている。
大族長は、ライオン系の獣人だった。金褐色の顔を囲む濃い金色のたてがみには、年齢を示すように銀色の毛が混じっていた。椅子に腰を下ろしているだけで、鍛え上げられた体と隙のなさが伝わってくる。
怒気を放っているわけではない。
それでも、琥珀色の目と合った瞬間、試されているような圧力を感じた。
この男が、大族長。
その右には、濃い青灰色の髪を短く切った若い男が立っていた。腕を組み、俺たちを警戒する視線を隠そうともしない。
左には、白に近い薄灰色の髪を長く伸ばした、小柄な女獣人がいる。大きな目には好奇心が満ち、俺たちの服や武器を遠慮なく見回していた。
少し離れた場所には、すでに面識のあるマナが立ち、その隣にリーネが座っている。
「リーネ」
セーラが思わず呼ぶ。
「大丈夫。少し休ませてもらったから」
そう答えたものの、顔色はまだ良くない。
大族長が俺たちを順番に見た。
「よく来てくれた。私が、ガルムを治める大族長レオンだ」
俺も一歩前へ出る。
「ビーコンのナオキだ。こっちはセーラ、ヒルダ、バルク、ライアン。俺の仲間だ」
大族長は静かに立ち上がった。
「娘と、捕らわれていた同胞たちを連れ帰ってくれたことに、大族長として礼を言う」
そこで一度、言葉を切る。
「そして父親としても、感謝する」
大族長は深くはないが、確かに頭を下げた。
濃い青灰色の髪の男が、わずかに表情を動かす。
レオンが二人へ視線を向けた。
「ラドとマナは、すでに知っているな。こちらはバドとユナ。四人は兄妹で、私に仕えている」
男が短く頭を下げる。
「バドだ。リーネ様を助けたことには礼を言う。だが、それだけで身元も分からねえ人間を信用しろってのは無理な話だ」
「構わない。俺があんたの立場でも警戒する」
バドは一瞬だけ目を細めたあと、頷いた。
白に近い薄灰色の髪の女も、待ちきれないように一歩前へ出た。
「あたいはユナなのだ。リーネ様だけじゃなく、子供たちや怪我人まで守ってくれたんだって? あんたたち、なかなかやるのだ」
礼を言っているのか、品定めしているのか分からない。
だが、警戒を隠さないバドとは違い、ユナの目には好奇心の方が強く浮かんでいた。
大族長の視線が、リーネへ移る。
「戻ったか」
「はい、父上。ただいま戻りました」
「……そうか」
「母上と兄上は?」
「二人とも西の交易路へ出ている。母はエルフ連合との交渉、兄は復旧の指揮だ。お前が戻ったことは伝令に託したが、すぐには戻れまい」
「二人とも、無事なんですね」
「ああ」
交わした言葉は、それだけだった。
だが、大族長の握った拳が、ほんの少しだけ震えていた。
リーネも唇を引き結び、すぐには次の言葉を出せない。
短い沈黙のあと、リーネが俺たちを振り返った。
「父上。ナオキたちは、あたしの身分を知らずに助けてくれました。あたしだけじゃありません。一緒に捕らわれていた同胞たち――負傷していたノーラも、子供のミナとフィルも、誰一人置いていかなかったんです」
大族長は黙って聞いている。
「逃げる機会も、あたしたちを見捨てる機会も何度もありました。それでも、あたしたち全員を助けるという約束を、最後まで守ってくれたんです」
大族長は俺を見た。
「娘の言葉は聞いた。ラドからも、証言の内容は報告を受けている」
ラドが一歩前へ出る。
「ビーコンの証言は、リーネ様の話と、こっちで掴んでいた帝国の動きに大きな食い違いはない。ただ、王国側の依頼については詳しいことを話していない」
「その件は、俺の判断だけでは話せない」
俺は先に答えた。
「話せないことはある。だが、話せる範囲で嘘をつくつもりはない」
大族長はしばらく俺を見ていた。
「すべてを話す者より、話せぬことを認める者の方が信用できる場合もある」
信じる、とまでは言わなかった。
その点はラドと同じだ。
「さっきの会話を記録した道具も、ここにある」
俺がICレコーダーを示すと、ラドが大族長へ簡潔に説明した。
「声をそのまま残して、あとから聞き直せる道具だ。必要なら、さっきの証言もそのまま確認できる」
大族長は興味を示したが、手に取ろうとはしなかった。
「必要になれば聞かせてもらおう。今は、別の話を先にする」
マナがリーネの後ろから口を開く。
「リーネ様の首に残った命令刻印を調べたわ」
部屋の空気が重くなる。
「刻印は完全には定着していない。命令に逆らおうとした時、体の自由を奪う部分までは機能しているけれど、意識を抑え、命令どおりに行動させる段階には達していないみたい」
「帝国も、未完成だと把握していたのか」
大族長の問いに、リーネが頷く。
「何度も『まだ安定していない』って話してた。だから、あたしをまた白い部屋へ連れていって、処置を続けるつもりだったんだと思う」
「ならば、娘をガルムへ戻し、外から操る計画は完成していなかったということか」
「少なくとも、今の刻印じゃ無理ね」
マナは慎重に答えた。
「離れた場所から術具で命令を送り、リーネ様の意識を抑えて行動させる段階には達していない。ただ、刻印の痕跡と魔力は残っているわ。獣人国で使われる術とは構造が違うから、無理に消せば体へ何が起きるか分からない」
ユナがリーネの肩へ手を添える。
「帝国は、刻印が完成したら、リーネ様に何をさせるつもりだったのだ?」
「完成したら、ガルムの周辺に工作員を潜ませて、近くから術具を使うって聞いた。でも、研究員たちもまだ実用段階じゃないって分かってた。だから、何度も処置を続けてたんだと思う」
大族長は目を閉じ、短く息を吐いた。
「ならば、計画と、今分かっている脅威を混同すべきではないな」
琥珀色の目が、ラドへ向けられる。
「現時点で確かなのは、ガルムの内側から巡察の情報を流した者がいることだ。まずは、そちらを追う」
ラドが、布に包まれた二冊の書類をテーブルへ置く。
一つは、変更後の巡察路を記した報告書。
もう一つは、該当部分を切り取られた受領簿だった。
「偽の急報には、大族長の紋章を使った封印があった。月ごとに変わる合言葉も、出発後に変更された巡察路も一致していた。さらに、受領簿からは、その報告の受取人と回覧先を記した頁だけが切り取られている」
バドの表情が険しくなる。
「封印、合言葉、変更後の巡察路。そのすべてに触れられる奴は多くねえ」
バドは受領簿を睨み、低く吐き捨てた。
「西の交易路は、直しても直しても同じ場所が崩れやがる。エルフ連合からの荷が止まって、穀物も薬草も足りねえ。備蓄を削って凌いでるってのに、今度は内通者かよ」
先ほど聞いた西の交易路の崩落は、応急修理を繰り返しても同じ場所で再発し、物流を止めかけているらしい。物が足りないだけではない。運ぶ道そのものに、解決できていない問題を抱えているのだ。
「だからこそ、焦って敵を決めるな」
ラドが静かに返す。
「記録に触れた奴だけじゃない。そいつから情報を引き出せた奴も、まとめて洗う」
バドは反論せず、受領簿を見下ろした。
血の気は多そうだが、考えなしに怒鳴る男ではないらしい。
「原本を守るだけでは足りないな」
俺が言うと、全員の視線が集まった。
「内通者か協力者が記録へ触れられるなら、また消される可能性がある。原本と同じ状態を、別の場所にも残した方がいい」
「書き写すのか? でも、同じものを何枚も作るのは大変なのだ」
ユナが首を傾げる。
「それより正確な方法がある」
俺はマリエクを開いた。
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アイテムボックスから箱を取り出すと、バドの視線が鋭くなる。
「なんだそれは?」
「ポラロイド式カメラだ。目の前にあるものを、そのまま紙へ写し取れる」
「そのままって、絵を描くより早いのだ?」
ユナが身を乗り出す。
「見ていれば分かる。強い光が出るから、驚かないでくれ」
「そのくらいで驚くあたいじゃないのだ」
俺はポラロイド式カメラへフィルムを装填し、大族長の許可を得て、まず閉じた受領簿の表紙へ向けた。
シャッターを切った瞬間、乾いた機械音とともに白い光が弾ける。
ユナの耳がぺたりと伏せられ、体が半歩だけ後ろへ跳ねた。バドの手も反射的に腰の武器へ伸びたが、ラドが腕を上げて制する。
大族長だけは微動だにせず、細めた琥珀色の目でカメラを見ていた。
やがて、本体から白い紙が一枚吐き出される。
「お、驚いてないのだ。少しまぶしかっただけなのだ」
「誰も何も言ってねえ」
バドが呆れたように返した。
二枚目は受領簿を開き、切り取られた頁の状態が分かる距離まで近づいて撮る。三枚目には、巡察路を記した報告書の表題と日付だけを収めた。機密に当たる経路そのものは写さない。
同じ三枚をもう一組撮影し、合計六枚。
最初に出てきた白い紙へ、輪郭がゆっくりと浮かび始める。
「何も描いてないのだ」
「少し待て」
「本当に出るのか?」
バドまで疑わしそうに覗き込んだ、その直後だった。
ぼんやりとした影が濃くなり、受領簿の表紙に刻まれた文字が形を取り始める。
「出たのだあ! さっきの本が、この中に入ってるのだ!」
ユナが写真を掴もうとするより早く、バドが襟首をつまんで引き戻した。
「だから、まだ触るな」
「見るだけなのだ! 手も少し伸びただけなのだ!」
マナも写真の上へ手をかざし、驚きを隠さず目を見開いた。
「魔力がまったく流れていない。それなのに、紙の傷も、表紙の文字も残っている……」
ラドは写真と原本を何度も見比べた。
「書き写した者の癖も、記憶違いも入らない。今ここにある状態を、そのまま残せるのか」
「原本そのものじゃない。だが、今どうなっていたかは残せる」
「人の顔も写せるのだ?」
ユナがすかさず尋ねる。
「ああ。目の前にあるものならな」
「なら、あとであたいも――」
「後にしろ、ユナ」
大族長が静かに遮る。
「まだ何も言ってないのだ」
部屋の張りつめた空気が、わずかに緩んだ。
「でも、これだけじゃ、切り取った奴までは分からないのだ?」
ユナが写真と原本を見比べる。
無邪気な口調だが、問いは核心を突いていた。
「ああ。犯人を示すものじゃない。だが、あとから別の頁まで消されたり、報告書そのものを差し替えられたりしても、違いを確認できる」
ユナは納得したように頷いた。
大族長は二組の写真を見比べ、片方をラドへ渡した。
「一組は私が保管する。もう一組は、ラドが別の場所へ置け。保管先を知る者は増やすな」
「分かった」
ラドは写真を慎重に布で包んだ。
写真を外部の俺たちへ渡さない判断は当然だった。巡察に関わる記録は、今もガルムの機密なのだ。
大族長は残ったカメラと俺を交互に見た。
「便利な品だ。だが、それを理由に、お前たちへガルムの内情を預けるつもりはない」
「その方がいい。俺たちは、この国の人間関係も組織も知らない」
俺は続けた。
「内通者を探すのは、あんたたちの仕事だ。俺たちにできるのは、帝国で見たものを話すことと、記録を残す手伝いくらいだ」
大族長の目が僅かに細くなる。
「分を弁えているようだ」
「無鉄砲に首を突っ込めるほど、若くないだけだ」
ヒルダが鼻で笑う。
「よく言うぜ」
「お前には言われたくない」
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
大族長は椅子へ座り直す。
「ラドが決めた暫定措置を、私の名で認める。ビーコンの五人は、ガルムの客人として扱う」
バドが大族長を見る。
「大族長」
「警戒を解くという意味ではない」
大族長は静かに続けた。
「武器の所持は認める。ただし、緊急時を除き街中では抜かないこと。住民との争いを起こさないこと。立ち入りを認められていない場所へ入らないこと。ガルムを離れる際は、私かラドの許可を得てもらう」
「分かった」
「内の調査は、我々が行う。お前たちには、帝国で見た情報の提供と、必要な時の記録に協力してほしい」
「それなら協力できる」
大族長は頷いた。
「リーネ。お前はもう休め」
「でも、父上。まだ――」
「お前の言葉は聞いた。ビーコンを客人として迎える判断もした。今のお前がここに残っても、傷と刻印へ負担をかけるだけだ」
リーネは言葉を失う。
「命令ではない。父親として頼んでいる」
その一言に、リーネの表情が崩れかけた。
「……分かりました」
ユナがリーネへ手を差し出す。
「さあ、戻るのだ。フィルたちが目を覚ましたら、きっとリーネ様を探すのだ」
リーネは立ち上がり、部屋を出る直前に俺たちを振り返った。
「ナオキ。ちゃんと休んでね」
「そっちもな」
扉が閉じるまで、大族長は娘の背中を見ていた。
やがて、その目が俺たちへ戻る。
「最後に、『猟犬』について聞く」
再び部屋の温度が下がった。
「研究記録では、狼種の獣人を元にした完成検体とされていたんだな」
「ああ」
「その個体は、どうなった」
「倒してはいない。真正面から太刀打ちできる相手じゃなかった。逃げ切るので精いっぱいだったからな」
俺は答えた。
「水車小屋の仕掛けで一時的に進路を奪っただけだ。その隙に逃げたから、今どこにいるかまでは分からない」
大族長の視線がヒルダへ移る。
「強さは?」
ヒルダが腕を組む。
「化け物じみてた。傷を負っても止まらねえ。命令された標的を、捕らえるか排除するまで追い続けるような奴だ」
大族長は長く黙った。
「……かつて、武力で私の地位を奪おうとし、反乱を起こした狼種の男がいた。名はグラウ」
ラドとマナが『猟犬』から思い浮かべたのも、その男なのだろう。
「私との戦いに敗れたあと、男は姿を消した。自ら帝国へ渡ったのか、帝国に捕らえられたのか、それすら分かっていない」
大族長の声に、怒りはなかった。
だが、テーブルへ置かれた手には力がこもっている。
「『猟犬』が、その男だと決まったわけではない。だが、もし同じ者なら――あの男は、ガルムの古い守りも、谷へ続く道も、部族同士の関係も知っている」
「昔の情報だろ」
ヒルダが言う。
「守りは変えている。だが、古い知識でも、今の情報を流す者と結びつけば話は別だ」
大族長が、切り取られた受領簿へ視線を落とす。
「帝国が二つを結びつけている証拠は、まだない」
一度、言葉を切る。
「だが、過去のガルムを知る者と、今のガルムを知る者。その両方を帝国が手にしている可能性は、考えておくべきだ」
誰も言葉を挟まなかった。
切り取られた受領簿と、帝国で見た『猟犬』。
二つが同じ線でつながっているなら、帝国が狙っているのはリーネ一人ではない。
ガルムそのものなのかもしれなかった。
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