第143話 リーネ様
「あの方を、門前に立たせたままにはできん」
門番の言葉が落ちた瞬間、ガルムの入口にいた全員が動きを止めた。
奥へ走った獣人の足音が遠ざかっていく。交差していた槍は下ろされたままだが、門番たちの緊張は解けていない。ただし、それは俺たちへ向けた敵意というより、誰かを迎えるために姿勢を正したような緊張へ変わっていた。
「……どういうことだ」
案内役だったギルザ衆の若い獣人が、かすれた声で呟いた。さっきまで俺たちを値踏みしていた目から、強さが消えている。
リーネという名に何かがあることは、ギルザの広場でも分かっていた。だが、ガルムの門番が「あの方」と呼び、奥へ知らせを走らせるほどの存在だとは、彼らも思っていなかったのだ。
リーネはフィルの手を握ったまま、俯いていた。肩が小さく震えている。名前を呼ばれたわけでも、問い詰められたわけでもない。それでも、門番の「あの方」という言葉だけで、隠していた何かを見抜かれたように見えた。
「ナオキ……」
セーラが低く俺を呼ぶ。
「分からない」
俺はそれだけ返した。
本当に分からない。だが、下手に聞けば、今の均衡を壊す。俺たちはまだ門の外にいる。怪我人と子供を抱え、ギルザの預かりとして連れてこられただけの人間だ。ここで余計なことを言えば、真っ先に不利になるのは俺たちではなく、リーネたちだった。
俺は周囲を見た。
門番二人はリーネから目を離さない。ギルザ衆は、どう動くべきか決めかねている。ヒルダは何気ない顔で立っているが、目は門の上、槍の角度、壁際の狭い足場を追っていた。ライアンは口を閉ざしたまま、門番たちの態度を見ている。バルクはノーラの担架と子供たちの間に立ち、盾を下ろしたまま動かない。
待たされている間にも、ノーラの顔色は悪かった。ミナもフィルも疲れ切っている。
セーラがノーラのそばに膝をつき、呼吸と顔色を確かめた。ミナはセーラの服を掴んだまま、眠る寸前の顔をしている。フィルもリーネの袖を握り、門番たちを不安そうに見上げていた。
本当なら、水を飲ませ、横にさせたい。
だが、ここはガルムの門前だ。勝手に荷物を出せば、余計な疑いを招く。
俺は門番へ顔を向けた。
「怪我人と子供に、水分を取らせたい。いいか」
門番はノーラと子供たちを一瞥し、短く答えた。
「それくらいなら構わん。妙な真似はするな」
俺はアイテムボックスから、以前買っておいた経口補水ゼリーを取り出し、セーラに渡した。
セーラはすぐにノーラ、ミナ、フィルの順に、少しずつ飲ませる。リーネにも渡そうとしたが、彼女は首を振り、フィルの分を先に受け取った。
「リーネも飲め」
俺が言うと、彼女は小さく頷いた。けれど、口をつけるまで少し時間がかかった。
通路の奥から、複数の足音が近づいてきた。
門番たちの背筋が伸びる。
現れたのは、長身の獣人だった。赤褐色の髪の間から、尖った獣耳が覗いている。大柄だが、力を誇示するような荒々しさはない。歩みにも視線にも無駄がなく、黒い革鎧には細かな傷が刻まれていた。
場にいた獣人たちが、何も命じられないまま道を空ける。その様子だけで、男の立場の高さは分かった。
「ラド様」
門番の一人が頭を下げる。
ラド。
その名を聞いた瞬間、ライアンの目がわずかに動いた。少なくとも、門番やギルザ衆を従わせる立場の男だ。
ラドは門番にもギルザ衆にも目を向けず、まっすぐにリーネを見た。
表情は変わらない。
だが、リーネの前で足を止めた時、ほんの一瞬だけ目の奥が揺れた。驚きか、安堵か。あるいは別の感情か。俺には判別できない。ただ、その短い沈黙には、二人の間に積み重なった何かを感じさせる重さがあった。
リーネは顔を上げなかった。
「……リーネ様」
ラドの低い声が、門前に響いた。
大声ではない。だが、その一言で空気が変わった。門番たちはさらに頭を下げ、ギルザ衆の若い獣人たちは息を呑む。リーネの正体までは分からなくとも、自分たちが軽々しく扱える相手ではなかったことだけは理解したようだった。
「様……?」
セーラが小さく呟く。
俺も同じことを思っていた。
リーネ様。
門番が頭を下げ、ギルザ衆が息を呑み、ラドという男が当然のようにそう呼んだ。少なくともリーネは、このガルムで軽んじられる相手ではない。
「……ラド」
リーネの唇が、かすかに動いた。
名を呼んだ。
それだけで十分だった。二人は初対面ではない。
ラドは一度、深く目を伏せた。それは短い動作だったが、門前にいた誰も口を挟まなかった。
「今は、何も仰らなくて結構です」
ラドはそう言うと、リーネのそばにいるフィルと、担架のノーラへ視線を移した。子供たちの汚れた服、ノーラの傷、全員の疲れ切った顔を順に見たあと、ようやく俺を見た。
「お前が、この者たちをここまで連れてきたのか」
「そうだ。ナオキ。王国から来た商人だ」
「商人か」
ラドは短く繰り返した。
俺が口を開くより先に、担架の上のノーラが顔を上げた。
「この人たちは、私たちを助けてくれました」
声は細かったが、はっきりしていた。
「檻から出して、ここまで運んでくれたんです」
ラドはノーラを見たあと、ミナとフィルへ視線を移す。フィルはリーネの袖を掴んだまま、ラドを怖がるように見上げていた。リーネはその小さな手を、庇うように包んでいる。
「リーネ様」
ラドが静かに言った。
「その子も、ご一緒でよろしいのですね」
リーネはフィルの前へ半歩出た。
「この子を、私から離さないで」
声は震えていた。だが、その言葉だけははっきりしていた。
ラドはリーネとフィルを見比べ、静かに頷く。
「承知しました」
命令ではなく、願いを受けた返事だった。
ラドは門番へ顔を向ける。
「怪我人と子供を奥へ。薬師を呼べ。水と寝床を用意しろ」
「はっ」
門番がすぐに動いた。
「リーネ様も同じ場所へ。子供と離すな」
「承知しました」
ガルムの奥から、薬師らしい獣人たちが現れた。腕に白い布帯を巻き、薬箱のような木箱を持っている。彼らはノーラの担架へ近づくと、バルクとライアンに一礼した。
「こちらで引き継ぐ。揺らさず運ぶ」
「頼む」
ライアンが短く答える。バルクは無言で担架の支えを渡したが、最後までノーラの傾きを見ていた。
セーラが一歩前へ出る。
「私も一緒に行きます。これまで傷の手当てをしてきたので、状態は説明できます」
ラドは一度だけセーラを見て、頷いた。
「分かった。薬師に伝えてくれ」
「はい」
セーラは一瞬だけ俺を見た。
「子供たちを頼む」
「……分かったわ」
ミナはセーラに背負われたまま、ガルムの奥へ入っていく。フィルは最後までリーネの袖を離さず、リーネもその手を振りほどこうとはしなかった。
リーネは俺の方を一度だけ振り返る。
何かを言いたそうだった。けれど、言葉にはならない。俺も何も言えなかった。今ここで「大丈夫だ」と言えるほど、状況は軽くない。
俺はただ、目で頷いた。
まずは休め。
そう伝わったかどうかは分からない。リーネは小さく目を伏せ、フィルと一緒に奥へ消えていった。
ラドは、残った俺たち四人へ向き直った。
「あなた方にも、休む場所を用意する」
予想していなかった言葉に、ヒルダが僅かに眉を上げる。
「話を聞かないのか」
「聞く。だが、その状態で急がせても、まともな話にはならない」
ラドの視線が、泥と血で汚れた俺たちの服を順に通り過ぎた。
「食事と水を用意させる。怪我がある者は、先に薬師に診せろ」
敵意はない。
だからといって、信用されたわけでもない。
だが少なくとも、リーネたちをここまで連れてきた俺たちを、門前で拘束するつもりはないらしい。
「助かる」
俺が答えると、ラドは小さく頷いた。
「武器は身につけたままで構わない。ただし、ガルムの中では抜くな」
「分かった」
ヒルダも異論はないようだった。ライアンは僅かに頭を下げ、バルクは黒い盾から手を離す。
ラドは門番の一人を呼んだ。
「この者たちを、療養所近くの客室へ案内しろ」
「承知しました」
俺たちは門番に促され、ラドとともにガルムの奥へ歩き始めた。
通路を抜けると、木々の間を縫うように家々が並んでいた。石と木を組み合わせた建物の間を、細い水路が流れている。遠くでは槌を振るう音が響き、枝の上に渡された足場を、小柄な獣人が軽々と駆けていった。
ガルム。
ようやく辿り着いた、獣人国の中心。
だが、その景色を眺める余裕は、今の俺たちには残っていなかった。
案内されたのは、療養所からほど近い木造の建物だった。中には簡素な寝台が並び、水差しと布が用意されている。豪華ではないが、雨風を凌ぎ、体を横にできるだけで十分だった。
ヒルダが寝台へ腰を下ろし、大きく息を吐く。
「やっと座れたな」
ライアンは壁際に荷物を置きながら、扉の位置と窓の外を確認している。バルクは盾を寝台の脇へ立てかけると、ようやく肩の力を抜いた。
俺も腰を下ろした途端、全身の疲れが一気に押し寄せてきた。
その時、入口に立っていたラドが口を開く。
「一刻後に、改めて話を聞かせてもらう」
俺は顔を上げた。
「分かった」
ラドはそれ以上追及せず、扉の外へ出る。
閉まる直前、もう一度だけこちらを見た。
「今は休め。話はそれからだ」
扉が静かに閉じた。
ようやく得た休息だった。
それでも、頭から離れない言葉が一つだけあった。
――リーネ様。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークしてもらえると励みになります!
評価や応援コメントは、とても励みになっています。




