第141話 ガルムへの道
獣人が闇に消えた後も、洞の中には重い沈黙が残っていた。
夜明けに来るという迎えが、俺たちをどこへ連れていくのかは分からない。ただ、この洞に留まることだけはできない。それだけは、はっきりしていた。
交代で見張りに立ち、短い仮眠を取る。俺の番が終わり、ヒルダと交代して目を閉じたが、眠りは浅かった。
リーネの名。
それを聞いた獣人たちの反応。
そして、夜明けの迎え。
答えは何一つ出ないまま、洞の外が少しずつ白み始めた。
夜明け前。
洞の入口の外で、石が小さく鳴った。
見張りに立っていたヒルダが、音もなく体を起こす。壁際で目を閉じていたライアンも、すぐに剣の柄へ手を添えた。
「……来たな」
俺が呟くと、洞の入口に影が差した。
昨日、岩の上にいた獣人だ。だが、一人ではない。後ろに二人、弓を背負った獣人が立っている。歓迎のための迎えではない。俺たちが余計な動きをしないよう、見張るための人数だった。
「出る準備をしろ」
低い声だった。
余計な挨拶も、説明もない。
「火は消してある。灰も片付ける」
俺が言うと、獣人は洞の奥へ目を向けた。
「水場は汚していないな」
「ああ。使ったのは少しだけだ」
「ならいい」
それだけ言って、獣人は入口から一歩退いた。
俺たちはすぐに動き始めた。
セーラはミナを起こし、ノーラの様子を確認する。ライアンは地図を懐にしまい、ヒルダは洞の入口と外の足場を見る。バルクは盾を背負い直し、担架の前に立った。
俺は古い焚き火跡を確認した。火は完全に消えている。灰は広げず、湿った土で押さえた。紙皿や包み、ウェットシートの袋はすべて回収し、アイテムボックスへ戻す。借りた場所を汚して返すわけにはいかない。
獣人たちは黙って見ていた。
褒めることも、礼を言うこともない。だが、俺たちが洞を荒らしていないことは確認しているはずだ。
出発前のわずかな時間で、俺はマリエクを開いた。
これから向かうのは、地図にも載っていない谷の奥だ。派手な物はいらない。必要なのは、滑る足場で転ばず、荷物を濡らさず、短い移動で体力を落とさないための最低限の備えだ。
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購入した品は、すぐには取り出さない。獣人たちの視線がある。必要になった時、自然にアイテムボックスから出したように見せればいい。
「何をしている」
獣人の声が飛ぶ。
「荷物の確認だ。忘れ物がないか見ていた」
俺は顔を上げて答えた。
獣人は疑うように俺を見たが、それ以上は追及しなかった。
「行くぞ」
先頭の獣人が短く言い、谷の奥へ歩き出した。
俺たちは黙ってその後ろに従う。
洞を出た直後の空気は冷たく、湿っていた。朝の光はまだ谷底まで届いていない。木々の間に薄い霧が残り、遠くの鳥の声だけが妙にはっきり聞こえる。
道は、昨日よりさらに細くなっていた。
地図に載るような大きな川はない。だが、岩の隙間から染み出した水が細い沢を作り、谷底の土を湿らせている。
岩と木の根が絡み合う急斜面。湿った土が靴底にまとわりつき、担架を運ぶバルクとライアンの足を奪う。俺は後ろから細引きロープを支え、ノーラの担架が傾かないようにした。
「右、踏むな」
ヒルダが小さく言った。
ライアンが足を止める。
「崩れますか」
「崩れるというより、踏むと音が出る。枝が仕込んである」
先頭の獣人が、わずかにこちらを振り返った。
ヒルダは気づかないふりをして、別の足場を指した。
「こっちだ。石の色が少し違う」
獣人は何も言わなかった。
だが、俺には分かった。彼らはただ案内しているだけではない。俺たちがどこまで見えているのか、余計なものに触れないか、それも見ている。
道の途中には、薄く削られた石があった。三本線に似た印が、苔の下に隠れるように刻まれている。枝は不自然な角度で折られ、草は一見すると乱れていないのに、人が通れるだけの幅だけが残されていた。
獣人だけが知る道。
外の者を迷わせる道。
そして、侵入者を逃がさない道。
見えない壁と目で作られた、ひとつの砦だった。
「ナオキ」
セーラが、ミナを背負ったまま声を潜めた。
「大丈夫だ。止まらず進もう」
「リーネが……」
俺は後ろを見る。
リーネはフィルの手を引きながら歩いていた。足取りは乱れていない。けれど顔色は悪い。昨夜から眠れていないのだろう。フィルの小さな手を握る指に、力が入りすぎている。
「少し休ませたい」
「止まるな」
先頭の獣人が、こちらを見ずに言った。
だが、すぐに続ける。
「足場の広いところまで行く。そこで息を整えろ」
突き放すような言い方だった。
それでも、子供と怪我人を無理に急がせるつもりはないらしい。
しばらく進むと、道はわずかに開けた場所へ出た。
太い木の根が岩を抱え込み、その根と根の間に、人ひとりがやっと通れるほどの隙間がある。隙間の向こうから、複数の気配がした。
先導していた獣人が立ち止まる。
「ここから先は、ギルザの長が話す」
昨夜の獣人も、確かにその名を口にしていた。
どうやらギルザとは、この谷を守る者たちの名らしい。
その目が、俺たちを順に見た。
「武器には触れるな。一人ずつ通れ」
俺たちは言われた通り、一人ずつ木の根の隙間を抜けた。
その向こうは、谷底に隠された小さな広場だった。周囲を高い岩壁と太い根に囲まれ、上からの侵入は難しい。広場の中央には古い焚き火跡があり、その周りに十数人の獣人が立っている。
弓。
槍。
短剣。
誰もが、俺たちを歓迎していない。
広場の奥、一番大きな木の根元に、ひときわ背の高い獣人がいた。顔には古い傷跡が何本も走り、腰には鉈のような幅広の剣を下げている。腕を組み、静かにこちらを見下ろしていた。
この男が、ギルザの長か。
背後の隙間を二人の獣人が塞ぐ。
逃げ場はない。
「人間」
ギルザの長が、低い声で言った。
「お前が、この群れの長か」
「そうだ」
俺は一歩前に出る。
「ナオキ。王国から来た商人だ」
「王国の商人が、なぜそのような獣人を連れている」
「帝都の地下施設で、檻に入れられているのを見た。子供も、怪我人もいた。放っておけなかった」
言葉は短くした。
王命は伏せる。
マリエクも伏せる。
異世界のことなど論外だ。
ただ、見たことと、したことだけを言う。
ギルザの長は表情を変えなかった。
「証拠は」
「ない」
俺は正直に答えた。
「あるのは、ここにいる者たちだけだ。信じろとは言わない。だが、嘘は言っていない」
広場の獣人たちの視線が、ノーラへ向いた。
担架の上のノーラは顔色が悪い。それでも目をそらさなかった。
ギルザの長が問う。
「お前は、なぜ人間といる」
「助けられました」
ノーラの声は細かったが、はっきりしていた。
「檻から助け出されて、ここまで運んでくれました」
ギルザの長は、わずかに目を細めた。
それから、視線がリーネへ移る。
その瞬間、広場の空気が変わった。
それまで敵を見る目だった獣人たちの視線が、リーネに集まる。驚き、疑い、戸惑い。いくつもの感情が、声にならないまま広場に広がった。
リーネはフィルの手を握り、俯いている。
「そこの女」
ギルザの長が言った。
「名は」
リーネはすぐには答えなかった。
フィルが不安そうに彼女を見上げる。
セーラが一歩動きかけたが、俺は小さく手で止めた。庇いたい。だが、ここで俺たちが前に出すぎれば、獣人たちの警戒はさらに強くなる。
長い沈黙の後、リーネが小さく口を開いた。
「……リーネ」
その名が落ちた瞬間、広場の空気が変わった。
広場の端にいた年配の獣人が、わずかに息を呑む。
若い獣人の一人が、思わず口を開きかけた。
「長、彼女は――」
「黙れ」
ギルザの長の声が、低く広場を押さえた。
若い獣人は、はっとしたように口を閉ざす。
リーネはフィルの手を握ったまま、俯いていた。
ギルザの長は、しばらくリーネを見ていた。
だが、それ以上は何も聞かなかった。
その沈黙の方が、問い詰められるよりも重かった。
俺はそこでようやく、リーネには何かあるのだと理解した。獣人たちは何かを知っている。だが、ここでは口に出さなかった。
ギルザの長は、リーネから視線を外し、再び俺を見た。
「人間。お前たちは、何を望む。何をしに来た」
問いは短かった。
けれど、その場にいる全員の視線が俺へ向いた。
何を望む。
助けてほしい。
匿ってほしい。
帝国から守ってほしい。
そう言うのは簡単だ。だが、それは獣人たちの土地へ、こちらの都合を押しつける言葉でもある。
俺は一度、担架の上のノーラを見た。セーラの背で眠たげに目をこするミナ。リーネの袖を握ったまま、不安そうに俺を見ているフィル。
それから、ギルザの長へ向き直った。
「ここにいる獣人たちを、安全な場所まで送り届けたい」
広場に、わずかなざわめきが広がる。
俺は続けた。
「この子たちが安心していられる場所だ。俺たちがそこに入ることを許されないなら、それでもいい。入口まででも構わない」
ギルザの長は、しばらく黙っていた。
その視線が、ノーラへ、ミナへ、フィルへ移る。最後に、リーネで止まった。
リーネは俯いたまま、何も言わない。
「……ふむ」
長が言った。
周囲の獣人たちの目が、さらに鋭くなる。
「人間は、口では何とでも言う」
低い声だった。
「助ける。守る。送り届ける。そう言われてついていった者が、どこへ消えたか知っているか」
言い返す言葉はなかった。
俺たちは帝国の人間ではない。
王国から来た。
そう言うことはできる。
だが、獣人から見れば、俺も人間だ。
助けるという言葉で近づき、その先で裏切ってきた人間を、彼らは何度も見てきたのだろう。
「信じなくていい」
俺は静かに答えた。
「けど、ここで手を離すつもりはない」
ギルザの長は、俺を見たまま動かなかった。
やがて、低く息を吐く。
「この谷では預かれない」
その言葉に、セーラの肩がわずかに強張った。
だが、長は続けた。
「怪我人と子供を休ませる場所を求めるなら、ここでは過酷だろう。ここはギルザ峡道を守る場所だ。」
「なら、どこへ行けばいい」
俺が問うと、ギルザの長は短く答えた。
「ガルムだ」
ガルム。
確か、アステル王国の第二王子エドワードに見せてもらった地図に載っていた。
位置は、獣人領のほぼ中央だったはずだ。
だが、ただの集落や村ではないことだけは分かる。
ノーラが担架の上で目を伏せる。
リーネは、眠たげなフィルの手を壊れそうなほど強く握っていた。
「獣人にとって、ガルムは何なんだ」
俺が問うと、ギルザの長は少しだけ黙った。
「獣人国の中心だ」
「首都、みたいなものか」
「人間の言い方なら、そうなる」
長は短く続けた。
「大族長がいる」
それだけだった。
ギルザの長は背後にいた若い獣人へ視線を向ける。
「案内を出す。余計なことはさせるな」
若い獣人が短く頷いた。
ギルザの長は、俺たちを見下ろしたまま続ける。
「勘違いするな。客として招くわけではない。お前たちは、ギルザの預かりとして進む」
「それでいい」
俺は頷いた。
歓迎ではない。
保護とも呼べない。
それでも、子供たちとノーラを帝国領の闇から遠ざける道が、ようやく一つだけ見えた。
ガルム。
その名が何を意味するのか、俺はまだ知らない。
だが、リーネが何も言わずに俯いたままでいる理由だけは、少しずつ重さを増していた。
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