第140話 借りた水と火
獣人はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、「リーネ、か」と低く呟いた。
それだけで十分だった。
リーネには、俺がまだ知らない何かがある。そして、この谷の獣人たちは、その何かに触れかけている。
俺は獣人に背を向け、仲間たちが待つ場所へと戻った。洞を使う許可は得た。だが、胸の中にあるのは安堵よりも、別の重さだった。
谷の道を戻ると、仲間たちが息を詰めるように待っていた。
俺の姿を見つけたセーラが、真っ先にこちらへ歩いてくる。走り寄ってはこなかった。けれど、表情は強張っていた。
「戻ったぞ」
「……遅い」
「そんなに待たせたか?」
「心臓に悪いくらいにはね」
そう言ってから、セーラは俺の腕や肩を素早く見た。
「怪我は?」
「ない。話はついた」
セーラは小さく息を吐いた。責めたいのか、安心したいのか、自分でも決めかねている顔だった。
ライアンが一歩前に出る。
「交渉は」
「ああ。一晩だけ、この先の洞を使わせてもらえる。近くの水場と、小さな火も許された」
「条件は」
「集落には近づくな。騒ぐな。武器を抜けば次はない」
ヒルダが鼻で笑うように息を吐いた。
「十分だろ。見ず知らずの武装集団に、屋根のある場所を貸すだけでも相当だ」
「屋根というより、岩穴らしいけどな」
「雨と風がしのげりゃ上等だ」
バルクは黒い盾の位置を確かめ、短く言った。
「進むか」
「ああ。ここで長く話している時間はない」
俺が頷いた時、リーネと目が合った。
彼女はフィルの手を握ったまま、何も言わない。ただ、その目だけが静かに問いかけていた。
向こうで、何か言われたのか。
俺は一瞬だけ迷った。
「一晩だけ、洞を借りられる」
口にしたのは、それだけだった。
リーネは少しだけ目を伏せた。聞きたかった答えではなかったのかもしれない。けれど、彼女もそれ以上は聞かなかった。
ノーラは担架の上から、そのやり取りを黙って見ていた。
俺たちの間に、小さな棘のような沈黙が生まれる。外から向けられる警戒とは別の、内側に残った違和感だった。
それでも、今は進むしかない。
俺たちは獣人が示した谷の奥へ、再び足を踏み入れた。
道は、さっきよりもさらに悪くなっていた。湿った土と落ち葉が斜面を覆い、一歩ごとに靴底が滑る。木の根が足場になる場所もあれば、踏めば崩れそうな苔のついた岩もある。
「ライアン、右に寄せるな。そこは崩れる」
ヒルダが先頭から低く言った。
ライアンは担架の後ろで踏みとどまり、太い木の根へ足をかける。
「分かっています……!」
声に余裕はない。ノーラを乗せた担架を水平に保つだけで、体力を削られている。
「……ごめんなさい」
担架の上で、ノーラが唇を噛んだ。
「あんたのせいじゃねえ。道が悪いだけだ」
ヒルダは振り返らずに答えた。
そのまま彼女は、草の倒れ方、泥の沈み方、石のずれを確かめながら進む。谷の奥へ進むほど、俺たちを囲む視線も濃くなっていく気がした。
「見られてるな」
ヒルダが短く言う。
「ああ」
「数は分からねえ。ただ、近い。こっちが約束を守るか見てんだろ」
セーラがミナの背負子を抱え直す。
「監視されながら休むのね」
「それでも、休める場所があるだけましだ」
俺は細引きロープを岩へ回し、担架が滑らないよう支えた。
獣人たちは、俺たちを助けるために見ているわけではない。自分たちの縄張りを守るために見ている。それを忘れてはいけない。
しばらく進むと、森の木々に隠れるようにして黒い岩壁が見えてきた。その中央に、大人三人が並んで入れるほどの横穴が開いている。中から冷たい空気が流れてきた。
「あれか」
「風はしのげる」
バルクが短く言った。
ヒルダは洞の入口で立ち止まり、足元を確認する。
「古い灰がある。足跡もあるが、新しいものじゃねえ。最近、寝床として使われた感じは薄いな」
「危険は?」
「入口から見える範囲じゃ、仕掛けはない。奥は暗い。入るなら、壁沿いに進め」
俺たちは緊張を保ったまま、一人ずつ洞の中へ入った。
中は思ったより広かった。天井は低いが、九人全員が身を寄せるだけの空間はある。地面は乾いていて、奥には古い焚き火跡が残っていた。壁には、爪でつけたような浅い傷と、三本線に似た古い印がいくつか刻まれている。
清潔とは言えない。
けれど、風と雨はしのげる。
洞の脇には、岩の割れ目から細く水が流れていた。水場というには頼りないが、手を濡らし、布を湿らせ、鍋に少し汲むくらいなら使えそうだ。
それだけで、今の俺たちには十分だった。
担架を静かに下ろすと、ライアンが壁に背を預けて大きく息を吐いた。セーラもミナの背負子を下ろし、すぐにノーラの様子を確かめる。
「痛みは?」
「……少し。でも、大丈夫」
「大丈夫じゃない人ほど、そう言うのよ」
セーラは小型救急セットを開き、包帯と清潔な布を取り出した。ヒールだけで無理に治そうとはしない。傷の状態を確認し、痛みを和らげる程度に光魔法を使う。
淡い光が、洞の壁を短く照らした。
俺はその間に、マリエクを開いた。
みんな冷えきっている。だが、派手な道具を出すわけにはいかない。外では獣人たちが見張っている。ここは借りた場所だ。必要な分だけ、目立たないものを使う。
[検索:フリーズドライ雑炊、粉末スープ、紙皿紙コップセット、除菌ウェットシート、小型ステンレス鍋]
[検索結果:
フリーズドライ雑炊10食セット 4,000円
粉末スープ20袋セット 2,000円
紙皿紙コップセット 1,000円
除菌ウェットシート大容量セット 2,000円
小型ステンレス鍋 2,000円]
[送料:2,000円]
[合計:13,000円]
【現在の残高:27,128,000円】
俺は物資を取り出し、洞の奥に置いた。リーネとノーラは一瞬だけ目を向けたが、もう声には出さない。今は驚く力も残っていないのだろう。
「まず手を拭け。食べるのはその後だ」
除菌ウェットシートを配り、子供たちの手も拭かせる。ライアンが洞脇の水を少しだけ汲み、俺は足りない分だけ生活魔法で補った。借りた水を汚さないように使い、借りた火は大きくしすぎないよう、古い焚き火跡の上に小さく起こした。
鍋で湯を沸かし、フリーズドライ雑炊と粉末スープを溶く。派手な調理ではない。匂いも強すぎない。それでも、温かい湯気が上がった瞬間、洞の中の空気がわずかに変わった。
「……いい匂い」
ミナが、紙コップを見つめながら呟いた。
フィルもリーネの隣で、こくりと喉を鳴らす。
「熱いから、ゆっくりだ」
俺が雑炊を渡すと、セーラがミナの分を両手で包み、息を吹きかけて冷ましてやる。
「少しずつ飲むのよ」
「うん……」
ミナは恐る恐る一口すすり、目を丸くした。
「……あったかい」
その一言に、ノーラの目元がわずかに緩んだ。
リーネは自分の分を少し残し、フィルへ渡そうとする。
「リーネも食べろ」
俺が言うと、彼女は一瞬だけ手を止めた。
「でも」
「フィルの分は別にある。足りなくなれば、また出す」
「……ありがとう」
リーネは小さく答え、ようやく自分の雑炊に口をつけた。
温かい食事は、強張った心まで少しずつほどいていく。誰も大きな声は出さなかった。ただ、湯気の向こうで子供たちの表情が緩み、ノーラの呼吸が落ち着いていく。
それでも、本当の安らぎは訪れない。
バルクは食事を終えると、洞の入口近くに座り、黒い盾を傍らに置いた。
「寝ろ。俺が見ている」
短い言葉だったが、それだけで十分だった。
ヒルダは雑炊を飲み終えると、入口の陰に立つ。外の葉擦れ、石の転がる音、風の流れに意識を向けている。
「まだいるな」
「獣人か?」
「ああ。こっちへ入ってくる気はなさそうだが、離れる気もねえ」
ライアンは地図を広げ、洞の位置を記そうとしていた。だが、谷そのものが地図には載っていない。
「地図にない道、地図にない洞。獣人国側が意図的に隠しているのでしょうね」
「それを勝手に書くのはまずいか?」
俺が聞くと、ライアンは少し考えてから、筆を止めた。
「今はやめておきます。許されたのは、休むことだけですから」
その判断に、俺は頷いた。
借りた場所で、借りた火を使っている。なら、勝手に奪うような真似はしない方がいい。
俺は雑炊の入った紙コップを持ったまま、リーネの横顔を見た。
彼女はフィルの隣で、眠そうな子供の肩にアルミシートをかけている。指先は細く、動きは静かだ。だが、その横顔には疲れだけではない、何かを押し殺すような固さがあった。
なぜ、あの言葉を知っていた。
なぜ、獣人たちはリーネの名に反応した。
聞きたいことはある。
だが、今は聞かない。
問い詰めれば、この小さな休息まで壊れる。リーネが黙っているのは、隠したいからだけではない。思い出したくないからかもしれない。
俺は視線を逸らし、残った雑炊を飲み干した。
今は、休ませる。
それだけでいい。
食事が終わる頃には、洞の中に小さな寝息が混じり始めていた。
交代で見張りを立て、残りは仮眠を取ることになった。最初は俺とバルクだ。セーラはノーラの近くで横になり、ヒルダは入口側の岩に背を預ける。ライアンは地図を畳み、剣に手が届く位置で目を閉じた。
アルミシートの上で、ミナはセーラの外套を掴んだまま眠っている。フィルはリーネの袖を握りしめていた。リーネも横にはなっているが、目は閉じていない。
洞の外は完全な闇だった。
風の音。
葉の擦れる音。
遠くの獣の声。
ここが安全な場所ではないことを、夜そのものが告げている。
どれくらい時間が経っただろうか。
洞の入口の外で、小さく石が鳴った。
バルクが無言で盾を持ち上げる。俺も腰の剣に手をかけたが、抜かない。
闇の中から、一人の獣人が姿を現した。
昼間、岩の上にいた獣人だった。弓は背負っている。手には何も持っていない。
「騒ぐな」
低い声だった。
敵意はない。ただ、用件だけを伝えに来た者の声だ。
「夜明けに、迎えが来る」
「迎え?」
俺は剣の柄から手を離さずに聞き返した。
獣人は洞の奥にいるリーネへ、一度だけ視線を向けた。
「その女の名を聞いた」
リーネの指が、眠っているフィルの手を握ったまま、ほんの少し強張った。
「それが、何かあるのか」
俺が問うと、獣人は答えなかった。
ただ、低い声で続ける。
「ギルザだけで決める話ではなくなった」
ギルザ。
それが、この谷を守る者たちの名なのか。
洞の中の空気が、わずかに冷えた。
ノーラが担架の上で口を閉ざす。セーラも、リーネの顔を見た。
「今夜は休め。水と火は、約束通り使っていい」
「明日は、どこへ連れていく」
「奥だ」
「勘違いするな。お前たちを受け入れたわけじゃない。子供と怪我人がいるから、今夜だけ置いている。それだけだ」
獣人は再び闇の中へ消えた。
洞の中に、重い沈黙が残る。
一晩だけの水。
一晩だけの火。
温かい食事。
子供たちの寝息。
それでも、ここは安息の場所ではない。
夜明けに来るという迎えが、味方なのか、それとも別の檻なのか。
今の俺たちには、まだ分からなかった。
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