第139話 古い言葉と小さな違和感
谷の奥から投げられた平たい木片。
そこに刻まれていた「話す者は、人間一人」という条件に、その場の空気が止まった。
誰もすぐには口を開かなかった。
風が草を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……一人で行かせる気?」
最初に声を出したのはセーラだった。
怒鳴り声ではない。
けれど、その声にははっきりとした拒絶があった。
「罠かもしれないわ。姿も見せない相手に、ナオキだけを行かせるなんて……」
「かもしれねえな」
ヒルダは谷の奥を見たまま、低く答えた。
「だが、条件を出してきたってことは、まだ撃つ気はねえ。全員で進めば、たぶんそこで終わりだ」
バルクが黒い盾の位置を少しだけ変えた。
「俺が行くか」
「いや」
ライアンが首を振る。
「相手は『話す者』と言っています。盾役や斥候ではなく、こちらの代表を求めているのでしょう。条件に合うのは、ナオキさんです」
「私だって人間よ」
セーラが言う。
ライアンは少しだけ間を置き、静かに続けた。
「セーラさんは、ノーラさんと子供たちの近くにいた方がいい。治療ができる人間を、相手の前に一人で出すべきではありません」
セーラは言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。
理屈では分かっている。
それでも納得できない。
そんな顔だった。
俺は手の中の木片を見下ろした。
話す者は、人間一人。
獣人側から見れば、俺たちは武装した人間五人を含む集団だ。さらに、怪我人と子供を連れている。助けを求める立場でありながら、相手にとっては危険そのものでもある。
「俺が行く」
そう言うと、セーラがすぐにこちらを見た。
「ナオキ」
「行くしかない。ここで条件を無視すれば、今まで壊さずに進んできた意味がなくなる」
「でも……」
「大丈夫、とは言えない。けど、殺す気ならもっと前にやれてた。今はまだ、話をする余地がある」
俺はセーラを見た。
「俺が戻るまで、ミナとフィルを頼む。ノーラもだ」
「……それ、ずるい言い方よ」
「分かってる」
「分かってるなら、無茶しないで」
セーラは唇を噛み、それから小さく息を吐いた。
「絶対に戻ってきて」
「ああ」
短い約束だった。
けれど、それ以上の言葉を重ねる時間はなかった。
谷の奥からは、まだ見えない視線がこちらを数えている。
俺は行く前に、マリエクを開いた。
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周囲から見れば、俺がアイテムボックスから物資を取り出しているようにしか見えない。獣人側がこちらを見ている以上、派手な物は出せない。今必要なのは、残る仲間たちがここで少しでも持ちこたえるための最低限の道具だ。
「セーラ、救急セットとゼリーを。ノーラの様子を見ながら使ってくれ」
「分かったわ」
「ライアン、給水袋を頼む。水場が近くにあっても、勝手に動くな。使えると判断してからだ」
「承知しました」
「ヒルダは背後。帝国兵がこの谷に近づかないとは限らない」
「ああ。そっちは見ておく」
「バルクは盾だ。何かあれば、みんなを守ってくれ」
「任せろ」
それぞれが短く頷いた。
その時、フィルの手を握っていたリーネが、俺を呼び止めた。
「待って」
俺は足を止める。
リーネはフィルの手を離さないまま、少しだけ顔を上げた。
「向こうで話すなら……『助けてほしい』だけで終わらせない方がいいわ」
「どういう意味だ?」
「知らない相手に、ただ助けを求めるだけだと、命を預ける言葉になる。相手に全部を委ねることになるの」
リーネはそこで一度、言葉を探すように視線を落とした。
「古い言い方では、『水と火を借りたい』と言うの。水は命を繋ぐもの。火は夜を越すためのもの。敵意はない。ただ一晩、休む場所を求めている。そういう意味になるはずよ」
「水と火、か」
「本当に通じるかは分からない。でも、ただ助けてと叫ぶよりは、相手の作法に近いと思う」
リーネの声は小さかった。
だが、言葉の選び方が妙に落ち着いている。
怯えた獣人の少女が、その場の思いつきで口にしたものには聞こえなかった。
ノーラは担架の上で黙っていた。
その沈黙もまた、気になった。
「……分かった。使わせてもらう」
俺が言うと、リーネは小さく頷いた。
「気をつけて」
「ありがとう」
俺はそれだけ返し、谷の奥へ向かって一人で歩き出した。
背後で、セーラが息を詰める気配がした。
振り返らなかった。
振り返れば、足が止まりそうだった。
谷の道は、一人で進んでも険しかった。
ぬかるんだ土に靴が沈む。木の根が足首に絡み、湿った岩が滑る。張り巡らされた警報罠に触れないよう、ヒルダが示した足場を思い出しながら、一歩ずつ進む。
視線を感じる。
一つではない。
右の茂み。
左の岩陰。
頭上の枝の奥。
見えていないだけで、複数の獣人がこちらを見ている。
「……そこまでだ」
声が落ちてきた。
俺は足を止め、両手を見える位置に置いた。
少し先に、苔むした大岩があった。その上に、弓を構えた獣人の影が立っている。逆光で顔は分からない。だが、耳と尾の輪郭だけは見えた。
岩の左右にも気配がある。
矢を番えた者が、こちらを囲んでいる。
「一人で来た」
俺は言った。
「見れば分かる」
岩の上の獣人が短く返す。
「なぜ、獣人を連れている」
「帝都の地下施設から逃げてきた。仲間の中に、怪我人と子供がいる」
「王国の者か。帝国の者か」
「王国側の商人だ」
「商人が、なぜ帝都の地下から逃げる」
当然の問いだった。
俺はすぐには答えなかった。
王命のことをそのまま話すわけにはいかない。マリエクのことなど論外だ。
「帝都で、見てはいけないものを見た」
獣人の弓が、わずかに動いた。
「何を見た」
「檻だ。獣人が入れられていた。子供もいた。怪我人もいた」
谷の空気が少し変わった。
俺は続ける。
「証拠はない。だから、信じろとは言わない。俺たちは今、逃げている。追っ手を連れてきたつもりはないが、絶対にないとも言えない」
「それを正直に言うのか」
「嘘をついても、ここでは長く持たない」
岩の上の獣人は黙った。
俺はリーネの言葉を思い出す。
助けてほしい、だけで終わらせない方がいい。
「俺たちは、ここを奪いに来たわけじゃない。集落に入れろとも言わない」
俺はゆっくりと頭を下げた。
「一晩だけでいい。怪我人と子供のために、水と火を借りたい」
その瞬間、獣人たちの気配が揺れた。
岩陰で、誰かが小さく息を呑む。
頭上の枝がわずかに震える。
岩の上の獣人も、初めて無言になった。
「……今、何と言った」
「水と火を借りたい、と言った」
「その言葉を、どこで知った」
「連れの獣人に教わった」
「名は」
俺は答えるべきか、一瞬迷った。
ここでリーネの名を出すことが、彼女にとって良いことなのか悪いことなのか分からない。
だが、すでに谷の上でリーネは名乗っている。
聞かれていないとは限らない。
「リーネだ」
岩の上の獣人の尾が、かすかに揺れた。
それは警戒ではなかった。
驚きに近い反応だった。
「……リーネ」
獣人は低く、その名を繰り返した。
「その女は、猫の獣人か?」
俺の背筋に、冷たいものが走った。
「なぜ、それを知っている」
獣人は答えなかった。
代わりに、弓を少しだけ下ろした。
「一晩だけだ」
その言葉に、俺は息を吐きそうになるのを堪えた。
「この先の洞を使え。火は小さく。大声を出すな。集落には近づくな。武器を抜けば、次はない」
「分かった」
「勘違いするな。受け入れたわけではない。子供と怪我人がいるという言葉を、今だけ預かった。それだけだ」
「十分だ」
俺は短く答えた。
「感謝する」
背を向けようとした、その時だった。
「待て」
岩の上から、再び声が落ちた。
俺は振り返る。
獣人は、さっきよりも低い声で言った。
「その女は、本当にそう名乗ったのか」
「……ああ」
「そうか」
それだけだった。
だが、獣人はもう一度だけ、低くその名を口にした。
「リーネ、か」
谷の水音が、急に遠くなった。
それ以上、獣人は何も言わなかった。
けれど、その沈黙だけで分かった。
リーネには俺がまだ知らない何かがある。
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