第138話 招かれざる者の選択
足元に転がっていた、三本の傷が刻まれた石。
俺はそれを拾い上げ、左手の谷間へ目を向けた。道には見えない。湿った草が斜面を覆い、木の根が絡み、低い枝が奥の暗がりを隠している。
そこへ進めと言われているのか。
それとも、そこへ誘い込まれているのか。
答えは、石を投げた相手しか知らない。
「どうする、ナオキ」
セーラが声を潜めて尋ねる。彼女の視線も、石が示した谷間に向いていた。
「罠の可能性もあるわ。誘い込んで、逃げ道を塞ぐつもりかもしれない」
「かもしれねえな」
ヒルダは谷の入口を睨んだまま、低く答えた。ただ、その声に焦りはない。草の倒れ方、斜面から落ちた露、足元の泥、枝の揺れ。彼女は一つずつ確かめるように見ていた。
「けど、殺す気なら、もっと前にやってる。俺たちが休んでる時でも、さっきの巡回に知らせることでもできた。ここまで見ておいて何もしねえなら、ただの襲撃じゃない」
ライアンが地図を広げる。だが、その谷間に対応する線はなかった。ただ帝国領北部の丘陵地帯として、空白に近い地形が描かれているだけだ。
「地図上では、ここはただの谷です。道がないのではなく、道として記録されていないのでしょう。進めば、帝国の管理外にさらに深く入ることになります」
「戻るか?」
俺が聞くと、バルクが担架の前で短く答えた。
「戻れば見つかる」
それだけで十分だった。
戻る道は、もう見られている。進む谷は、相手の腹の内が読めない。どちらを選んでも危険だ。なら、決めるしかない。
「ヒルダ。入口だけ見てくれ。中には入りすぎるなよ。足跡、枝、草、石の動き。仕掛けがあるなら、位置だけ知りたい」
「ああ」
ヒルダは草を余計に揺らさないよう足場を選び、低い姿勢で谷の入口へ近づいた。泥に残る跡を踏まない。新しく折れた枝に触れない。音を殺しながら、周囲の痕跡を一つずつ拾っていく。
残された俺たちの間に、重い沈黙が落ちる。
リーネはフィルの手を握りしめたまま、谷の暗がりから目を離さなかった。
「……あの印、獣人の古い道標に似ているわね。」
小さな声だった。
だが、ただ怯えているだけの声ではない。
ノーラは担架の上で、黙って二人のやり取りを聞いていた。
「古い道標?」
俺が聞くと、リーネは一瞬だけ口を閉ざした。
「見たことがあるだけよ。誰が使っているかまでは、分からないわ。帝国に従っている獣人がいないとも、言い切れない」
そう言って、リーネはまた谷の暗がりへ視線を戻した。
「もし、悪い人たちだったら……」
「その時は、止める」
バルクが短く言った。
セーラもリーネの近くに立ち、ミナを背負子ごと庇う位置に移動する。
「大丈夫、とは言えないわ。でも、勝手に見捨てたりはしない」
リーネは小さく頷いた。言葉にはならない。けれど、その手はフィルを離さなかった。
数分後、ヒルダが戻ってきた。膝のあたりに泥がついている。顔は険しい。
「足場が悪い。担架のまま下るには、支えが要る」
「罠は?」
セーラの声が硬くなる。
「あるかもしれねえ。入口だけじゃ断言できん。ただ、草の倒れ方が不自然な場所がある。進むなら一歩ずつだ。急いで突っ込む場所じゃねえ」
ライアンが谷の奥へ目を向けた。
「相手はこちらを見ています。罠があるとしても、殺すためとは限らない。ですが、軽く見ていい場所でもありません」
「分かった」
俺は頷いた。
「行く。だが、急がない。ヒルダの指示で進む。何か見つけても、勝手に踏むな、切るな。まず確認する」
誰も反対しなかった。賛成ではない。全員、不安を抱えたまま、それでも他に道がないことを分かっていた。
谷へ入る前に、俺はマリエクを開いた。
[検索:細引きロープ、滑り止め軍手、折りたたみ杖、子供用レインポンチョ]
[検索結果:
細引きロープ20メートル 3,000円
滑り止め軍手10双セット 2,000円
折りたたみ杖2本セット 3,000円
子供用レインポンチョ2枚セット 3,000円]
[送料:2,000円]
[合計:13,000円]
【現在の残高:27,156,000円】
周囲から見れば、俺がアイテムボックスから品物を取り出しているようにしか見えない。リーネとノーラが一瞬だけ目を見開いたが、もう口には出さなかった。今は驚くより、進む準備が先だ。
「今度は紐と手袋?」
リーネが小さく聞く。
「この足場で担架を運ぶ。道具なしだと危ない」
俺は細引きロープを担架の枠に回し、滑り止め軍手を全員に配った。折りたたみ杖は、ノーラが少しでも自分の体を支える時の補助にする。子供用ポンチョはミナとフィルに羽織らせた。雨具というより、防寒と泥除けだ。
「……このアイテムボックス、出てくるものの幅が広すぎるわ」
ノーラが呆れたように言う。
「商人だからな」
「その説明、さっきも聞いたわ」
反論はできなかった。
谷は、外から見た以上に険しかった。
湿った土の斜面はぬかるみ、一歩ごとに足が沈む。木の根が階段のように張り出している場所もあれば、踏めば崩れそうな苔のついた岩もある。担架を水平に保つのは、思った以上に難しい。
「ライアン、右に寄せるな。土が崩れる」
「分かっています!」
バルクが担架の前を支え、ライアンが後ろで踏ん張る。俺は細引きロープを斜面の太い木へ一度かけた。
「一気に下ろすな。ロープで支えながら、少しずつ行く」
全員で斜面を下りる。ロープがなければ、担架ごと滑っていたかもしれない。バルクの腕に力が入り、ライアンの靴が泥に沈む。ノーラは呻き声を飲み込むように、歯を食いしばっていた。
「止まれ。そこ」
先頭のヒルダが片手を上げた。
彼女の視線の先、足元から数歩離れた場所に、細い蔓が地面すれすれに張られていた。落ち葉に紛れている。知らずに踏めば、枝に吊るされた小さな革袋が揺れ、中の石が鳴る仕組みらしい。
「警報罠か」
ライアンが息を呑む。
「ああ。殺傷力はない。雑に入ってきた奴を知らせる罠だ」
ヒルダは蔓の先を目で追った。
「切るか?」
バルクが短く聞く。
「いや」
俺は首を横に振った。
「壊すな。向こうの道具だ。通らせてもらってる側が、勝手に壊すものじゃない」
ヒルダがちらりと俺を見て、少しだけ口の端を上げた。
「だろうな。こっちだ。一人ずつ通れ。担架は最後に回す」
蔓の上を跨がず、少し横の岩場へ回る。滑る足元をロープで支え、セーラがミナを背負ったまま慎重に通る。リーネはフィルの手を引き、足場の安定した場所へ誘導した。バルクとライアンは最後に担架を持ち上げ、俺とヒルダがロープで支えながら罠を迂回する。
誰一人、蔓には触れなかった。
音も鳴らさなかった。
罠も壊さなかった。
その瞬間、谷の奥で小さく石が落ちる音がした。
自然に落ちた音ではない。
答えを返されたような音だった。
「見てるな」
ヒルダが低く言う。
「ああ」
俺は谷の奥へ向けて、声を張りすぎないように言った。
「道具は壊していない。進むなと言うなら、別の印をくれ。進めと言うなら、従う」
返事はない。
だが、少し先の木の根元に、小さな石が一つ転がった。三本の傷。その横に、短い一本線が刻まれている。
その石を見た瞬間、リーネの指がわずかに強ばった。フィルの手を握る力が、ほんの少しだけ強くなる。
「……待て、という意味だと思うわ」
先に口を開いたのは、リーネだった。
ノーラが驚いたように彼女を見る。だが、リーネは谷の奥を見つめたまま、表情を変えない。
「進め、じゃないのか?」
「分からない。ただ、三本傷の横に短い線を添える印は、止まれ、近づくな、待て……そういう意味で使われることがあるのよ」
俺たちは谷の途中で止まった。
進めば、相手の警告を無視することになる。止まれば、帝国の追跡が近づく危険もある。どちらにしても、時間は味方ではない。
ライアンが地図を畳み、冷静に言った。
「待つにしても、時間を決めるべきです。ここは隠れていますが、安全ではありません」
「長くは待てねえ」
ヒルダも同意する。
俺は短く息を吐いた。
「ここで待つ。だが、無制限じゃない。相手にも事情がある。こっちにも守る命がある。十分だけ待つ。それ以上は動く」
ノーラが俺を見る。リーネも、フィルの手を握ったまま谷の奥を見つめていた。
リーネは怖がっている。
けれど、それだけではない。
何かを思い出しそうで、思い出せないような顔だった。
沈黙が落ちる。
水が斜面を伝う音。
木の葉から落ちる雫。
遠くで鳥が一度鳴き、すぐに黙る。
それから、声がした。
「――止まれ」
葉擦れに紛れるような声だった。谷の上、茂みの奥から響いている。姿は見えない。男か女か、若いのか年寄りなのかも分からない。ただ、感情を削ぎ落とした声だけが、俺たちを見下ろしていた。
全員が動きを止める。バルクが担架の前に立ち、盾に手をかける。ヒルダは短剣の柄に指を添えたまま、抜かない。セーラはミナとフィルを庇う位置へ移る。
俺は両手を見える位置に置いた。
「止まっている」
返事はすぐには来なかった。谷の上で、葉がわずかに揺れる。こちらの人数を数えられている。武器を見られている。誰を庇い、誰が歩けないのかまで、たぶん見られている。
「人間が五人」
声がした。
「獣人が四人」
数えられている。
セーラが息を呑む気配がした。バルクは盾に手をかけたまま、動かない。
「なぜ、この道にいる」
「帝国から逃げている。怪我人と子供がいる」
「この道を誰に聞いた」
「誰にも聞いていない。ほかに、子供を連れて進める道がなかった」
短い沈黙があった。
「帝国の追っ手を連れてきたのか」
「連れてきたつもりはない。だが、絶対にないとは言えない」
俺は谷の上を見上げた。
「争う気はない。ここがあんたたちの道なら、勝手には踏み込まない。水場と、休める場所だけ教えてほしい」
「帝国の者ではない証拠を見せろ」
証拠。
それが一番難しい問いだった。俺たちには、今すぐ差し出せる身分証などない。王国の名を出したところで、相手にとっては別の人間の都合でしかない。マリエクを見せるわけにもいかない。アイテムボックスを見せても、信用の証明にはならない。
「証拠はない」
俺ははっきり言った。
セーラが息を呑む気配がした。だが、嘘をついても意味がない。
「俺たちは帝都の地下施設から逃げてきた。帝国に追われている。ここにいる四人が安心して休める場所を探している」
俺は担架の上のノーラ、リーネ、ミナ、フィルを順に見た。
「近づくなと言うなら、近づかない。入るなと言うなら、別の道を探す」
茂みの奥からの返事はない。
その時、リーネが一歩だけ前へ出た。
フィルの手は離さない。
それでも、谷の上へ向けた声は、さっきよりもはっきりしていた。
「私は、リーネ」
ノーラが担架の上で、息を呑んだ。
ミナはセーラの服を掴み、フィルはリーネの袖を握りしめる。
「この子たちは、帝都の地下施設から逃げてきたの。怪我人もいるわ。
信じてとは言わないわ。でも、子供たちだけでも助けてほしいの」
それは懇願だった。
けれど、ただ縋るだけの声ではなかった。
谷の上の誰かに、怯えながらも言葉を選んでいる。
その姿に、俺は一瞬だけ違和感を覚えた。
ノーラは何か言いかけたが、結局、口を閉ざした。
長い沈黙が落ちた。
交渉は、決裂したのかもしれない。
そう思った時、茂みの奥から、乾いた音がした。
何か小さなものが、こちらへ向かって投げられた。
黒い影が茂みから放物線を描き、俺たちの数歩手前のぬかるみに落ちる。手のひらほどの、平たい木片だった。
俺は木片に近づき、滑り止め軍手をつけた手で拾い上げた。濡れていて、冷たい。表面には三本の傷。裏には、この世界の文字が刻まれている。
木片を見た瞬間、リーネの指がぴくりと動いた。
フィルの手を握る力が、また少しだけ強くなる。だが、リーネはすぐには口を開かなかった。視線を落とし、一度だけ息を整える。
「……話す者は、人間一人」
読んだのは、リーネだった。
声は細い。けれど、震えてはいない。
その意味を、俺たちはすぐに理解した。
五人の人間を、このまま奥へ入れる気はない。
だが、完全に拒まれたわけでもない。
一人だけなら、話を聞く。
セーラが一歩前に出る。
「ナオキ、それは――」
俺は答えられなかった。
木片を握る手に、力がこもる。
これは、歓迎ではない。
かといって、拒絶でもない。
俺たちを奥へ入れる前に、まず一人だけを見極める。
それが、谷の奥から突きつけられた条件だった。
森の奥で、誰かがまだ俺たちを見ている。
選ばなければならない。
誰が一人で向こうへ行くのか。
そして、残された全員を、ここでどう守るのか。
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